楽園へ
「小説幻怪伝」には、非道にして凶悪、かつ個性的な妖怪が多数登場しますが、彼らの故郷は冥界。
幻界との戦争に敗れ荒廃した冥界は、まさに群雄割拠の無法地帯。
やがて彼らの怒りと生への渇望は、力による冥界統一、そして巨大な「冥界帝国」設立と現世への侵攻開始へと繋がるわけですが、ここでその歴史の一部をご紹介いたします。
さあ、冥界です。この異世界に足を踏み入れるのは、現世の者としてはあなたが初めてでしょう。
覚悟は出来ましたか?
荒涼たる大地、燃え盛る怒りの炎、暴力と欲望が渦巻く冥界へ、ようこそ。
荒涼たる大地に、ただひたすら熱い風。
砂塵に赤茶けた視界の所々には、もはや原型を留めない建物の残骸。
瓦礫が軋むキイという不快な音が、風の唸りに混じってあちこちから微かに聞こえる。
冥界。
「ひでえもんだ、こんなになっちまって。昔は違ったもんだ…」
「ちっ、思い出話は聞き飽きたぜっての」
すっぽりと顔まで布で覆った二人の旅人は、風に逆らうように体を前傾させながら歩き続ける。
「お喋りに夢中で足を止めたら、賊に身ぐるみ剥がされちまうぞ」
「賊ならまだいい」
幻界との大規模戦争に敗北した冥界は著しく荒廃、無秩序に陥った。
各地の豪族たちは「冥界卿」を名乗り力により地域を支配、欲望に任せて無法の限りを尽くしていた。
「おい、なんだありゃ…誰か倒れてる」
「他人の心配してる余裕なんかありゃしねえ。捨て置け、捨て置け」
「違いねえ」
旅人たちは砂煙の中に消えていった。
ひとを見捨てることに一握りの罪悪感もない。そんな時代。
「う…うう…」
その男、身体の半分はすでに砂に埋もれかけていた。
傷だらけの顔の中でかすかに、乾いてひび割れた唇が動く。
「み…みず…」
男、と云うより少年。
歳の頃は十四、五。着衣は破れ砂まみれ。身をよじるように這い回っている。その脚に立ち上がる力は残されていないようだ。
「水…」
ボサボサの髪の隙間から覗く眼球は虚ろ。
「おい見ろ、何か動いてる」
「ん、おお。ガキが倒れてやがる」
「死にかけだが、まだ死んじゃいねえぞ」
三人の男たちが、倒れた少年に近づいてゆく。黒ずんだ肌を包む甲冑の擦れ合う音を風に漂わせながら。
「うひひ」
卑しく笑う口元が歪んでいる。いびつに盛り上がった筋肉はおそらく薬品で増強されたもの。
冥界ドルモン族の男たちだ。
戦乱により人員不足となった冥界、特に辺境地域では最下級のドルモン族が兵役や労働に就いていた。体力も知能も他の種族に比べて劣り、卑しいとされる民。
「うひひ獲物、か」
「この領地で行き倒れるとは、運がいい…いひひ」
ドルモン兵たちの砂まみれの腕章には槍先の意匠。この一帯を支配する豪族、エルターブ卿の紋章だ。
「このガキ…怪人族だな。親とはぐれた冥界の住人ってとこか」
「この間襲った夜行の生き残りだろ」
現世でも知られる「夜行」とは、戦乱で発生した冥界の難民たちが、生きるため安住の地を求めて彷徨う集団移動。
「うひひ、せっかく生き延びたのに、残念だったな坊や」
しばしば夜行は襲撃され、強奪や誘拐、捕食の対象となっていた。
「食っちまうか、このガキ」
「ん、いやいや見てみろよ。なかなか可愛い顔してるじゃねえか」
「うひひ」
「こら起きろ、ガキ。さあ、俺たちが今からお前を楽しい処に連れてってやるからな」
ドルモン兵たちは、行き倒れの少年を引き起こした。
「うひひ、楽園だぞ、ちょっとは楽しそうな顔しろってんだ」
溶岩から削り出した石で組み上げられた楼閣は、高い壁にぐるりと囲まれた敷地の中にある。黒ずんだ光沢をもつ外観は、砂嵐さえも寄せ付けない威圧感。
「さあ、着いた」
物々しい門が開くと、向こうにそびえる高い煙突から赤黒い煙が濛々と立ち上っていた。
「リジアの楽園。ここはそう呼ばれてる」
少年は引きずられ、石造りの薄暗い小さな部屋に投げ込まれた。
小窓から僅かに差し込む光が少年の乾ききった唇を照らす。ドルモン兵は立ち去ったが、逃げるどころか起き上がる気力も体力も無い。
「水…みず…」
少年はうわ言のように繰り返していた。
ほどなく、ひんやり冷たい石の床に響く足音が近づいてきた。
「こいつか」
半長靴が見える。軍人のそれだ。
「水を…」
少年は咄嗟に、目の前の半長靴を掴んだ。
「くれ…みずを」
「ちっ」
その手を荒々しく蹴飛ばした軍人はフッと一度鼻を鳴らし、汚れた金属製の器を少年の目の前に置いた。
「ほら」
中は空っぽ。少年は懇願するような目で視線を上へ。冷たく見下ろす男、この施設の衛兵のようだ。他にも数人いる。
「欲しいのか」
迷わず首を縦に振る少年。衛兵は笑っている。
「いひひひ…やるよ」
衛兵はズボンを下ろしてせせら笑いながら、器に向かって小便を垂らした。
飛沫が少年の顔にかかる。
「さあ、ぐっと飲めよ」
「…」
少年は器にかぶりつくようにして飲んだ。なりふり構わず飲み干した。
「ぶはははは、飲みおった。こいつ飲みおった」
「まだ欲しそうだぞ、こいつ。ほらお前も出せ」
衛兵たちの笑い声など気にもせず、少年は貪るようにもう一杯、器に注がれた衛兵の小便を飲んだ。
「うひゃひゃひゃ。まだ飲むか、あ?」
「おいおい衛兵ども、そのくらいにしてやれ」
ふと後ろに威圧的な気配を感じた。
「子供だからといってそんな扱いは無いだろう。ほら」
肥えた身体に荒れた肌。ツーンと鼻を差す臭気を漂わせ、ふてぶてしく近づいてきた大男。
「さあ、食え。腹が減っただろう。上物の姑獲鳥の肉だ。最近じゃ手に入れるのも珍しいんだぞ」
大皿に乗った鳥の丸焼き。甘いタレの匂いに思わず腹の虫が鳴った少年、いぶかしげに男の顔を覗き込んだ。
「ふふふ、心配するな。俺がもてなしてやる、と言ってるんだぞ。いいか、俺はここの主、獄卒マブラス様だ」
冥界の中でも南方の辺境地域に位置するエルターブ公国。その西方を占める砂漠地帯には巨大な監獄があった。
かつて隆盛を極めた冥界帝国が約二千年前に建設したこの巨大牢獄は設計技師の名をとって「リジアの監獄」と呼ばれていた。
主に帝国の反乱分子を収監、おぞましい拷問や処刑が繰り返され恐怖政治の一翼を担った歴史を持つこの施設は現在、監獄以外に強制労働による軍需物資の生産拠点としてエルターブ公国の重要な施設の一つとなっていた。
「公国の佐官である俺様に逆らうヤツは、ここにゃいねえ。気兼ねなく食え」
「は、はい…」
少年は目の色を変えて食らいついた。
床に置かれた大皿に顔を近づけ、四つん這いになって犬のように肉をあさった。
「さあ、満足したか?」
背後からマブラスのしゃがれた声が聞こえた。同時に少年は背中に電撃のような鋭い痛みを感じた。
「う、うがっ」
マブラスは少年の真後ろに立ち、鞭を振り下ろしていた。
「うあっ」
衣服と一緒に背中の皮膚も剥がされる。
「うひひひひ」
「なっ、何を…」
顔をしかめる少年の首根っこを、マブラスは大きな手で乱暴に掴んだ。
「ひひ、高価なもんを食わせてやったんだ。今度はお前が俺に奉仕する番だ」
マブラスはニヤニヤしながら吐き気を催すような臭気と共に、その巨体を押し付けてきた。
「えっ、えっ…」
戸惑う少年の衣服はあっという間にすべて引き剥がされた。
「い、いやっ、あっ」
いくら手足をもがいても、マブラスの力に抵抗する事はかなわなかった。
鼻息を荒くして、少年に後ろから覆いかぶさるマブラスの涎がボタリ、ボタリと少年の背に落ち、鞭で擦れた傷に染みこむ。
「ああっ、ああああっ」
痛み、そして悔しさ、無力感が、ただひたすらに少年を貫いた。
薄明かりの中、吹き込んでくるすきま風に冷やされた頬を、生温かい涙が滴り落ちる。
折れてゆく心がそうさせるのか、少年の意識は遠のいてゆく。冷たく笑う衛兵たちの笑い声もいつしか聞こえなくなった。
「あうっ、あうっ」
ひんやりと冷たい石造りの床の上で両膝がリズミカルに擦れる痛みだけがやけに気になる。
「父さん、母さん…」
どれだけ時間が経ったのだろう。
幸せだった家族の団欒、温かい思い出を映し出しながら閉じていた少年の眼は、再び鼻を刺すような悪臭で開かれた。
「おい、ガキっ」
「ひいっ」
少年の目の前には、ニヤニヤとわらうマブラスの顔。
「どうだ、ここはいいところだろう。いひひ」
舌なめずりするマブラス。その背後で、衛兵たちが急に姿勢を正し、敬礼した。
「ん、あ、あっ」
慌てて股引に脚を通すマブラスに向かって、暗がりから一際張りのある声。
「またやってるのか。お前ってヤツは」
真紅のマントを翻して近づいてくるその男に対しマブラスは襟を正して直立不動、最敬礼した。
「はっ、あの…突然の視察でいらっしゃいますか、あ、あの。はい、任務はきっちりと遂行しております。先日仰せつかいました兵卒用の防具三千と、槍一式…」
「まあいい。お前がここで何をしようと俺は構わん。仕事さえキッチリこなしてくれれば、な」
「はっ、心得ておりますクラド・エルターブ閣下」
没落しつつあったエルターブ家を短期間で再興、富国強兵策の元で強大な武力国家「エルターブ公国」を築いた武闘派の冥界卿、クラド・エルターブ。
その力強い暗黒のオーラの前には、リジアの獄卒マブラスですら額に汗を滲ませる。
「我らがこうして生きていられるのも、閣下の庇護のお陰…」
「もういい。阿諛は好まぬ…今日もお楽しみ、か。下衆な野郎め…」
恐縮するマブラスの前を通り過ぎ、エルターブ卿はしゃがみこんで少年の顔を覗き込んだ。
「小僧、名は何と言う?」
振り返った少年は、魂まで吸い取られそうな何かを感じて震え出した。
「怖い、か…無理もなかろうが」
そのマントには勇猛さで知られた古代ヘウア族の用いた海馬の文様、そして槍先の紋章。
少年は鋭い眼に射抜かれたように身動きが出来ない。
「あ、あの…」
すでに覚悟していた死よりもさらに強い恐怖に駆られ、数度身震いさせた後、慌てたように口を開いた。
「フィオン。フィオンと言います…」
「いい名じゃないか。覚えておこう」
少し口元を緩ませたエルターブ卿は、サッと立ち上がった。
「ともあれお前はここで一生を暮らす。この時代、生き永らえていられるだけ幸せと心得よ」
少年・フィオンは、何も考えられないのか、何も考えたくないのか。
冷たい石床の上にただ涙を滴らせながら、眠りに就いていた。
つづく