第4話 性愛のひみつ
春木が部室のドアを開けると、すでに武城が来ていた。いつものことながら、部活動に熱心でたいへん結構なことでありますね、と不遜な考えが春木の頭をよぎる。
武城は腕組みをして、目を閉じ、むずかしそうな顔をしていた。彼女の前には、例によってメモが書かれたルーズリーフと、一冊の本。
春木は不審に思いつつ、黙って武城の向かいの席に座った。
武城の顔を眺める。口を閉じていれば、人気の出そうな人なんだけどな……と思う。
いや、案外クラスでは、もの静かな人なのかもしれないな、とも思う。その姿は想像がしやすい。
部室でしか会わないし、部活以外での姿をまるで知らないので、実のところ彼女がどういう人物なのか、ろくにわかっていない。
成績はとても良さそうだし、何でもそつなくこなしそうだ。
休日は何をしているのかとか、ちょっと訊いてみようかな。
「春木よ」
「はっ、はい」
突如声をかけられ、春木はしたたかに狼狽した。
「わたしは悩んでいるんだ」
「そ、そうでしょうね。……で、何を?」
「調べてきたこの話を、するべきかどうか」
武城はメモを持ち上げ、ぱんと叩いた。
「一度聞いたが最後、謎の組織に狙われる類のやつですか」
「そういうやつならさっさと話している」
「うわー俺の命軽いなー」
「そんなことはない。丁重に扱っているよ」
「うそぉ」
「貴重な話し相手だからな」
「そですか」
本当にそんなふうに思われているんだろうか。そう疑いつつも、春木は、自分が少しばかり嬉しい気持ちになっていることに気づいて、俺って簡単な人間だなと思った。
「まあ、よかろう。今日の話は、性的な話だ」
突然何を言い出すんだこの人は。いきなりの下ネタか。
都市伝説によると、女性のする下の話は、たいへんに「えぐい」ものであるらしい。男同士で、半分ギャグで言い合うようなものとは一線を画すものであると聞き及んでいる。
そのえぐさにもてあそばれ、帰らぬ人となった男は数知れないという。
春木は身構え、
「ほ、ほう。虚心坦懐にうかがいましょう」
難しい言葉を使って平静を装った。実のところ、ちょっと聞いてみたかった。
「何を期待しているのか知らんが、古代ギリシャの話だ」
「まーたーだー」
春木の心の準備は崩壊した。
そんなことじゃなかろうかと思っていた。
「古代ギリシャ人の、女性観の話だ。女性という存在がどう見られていたか。性的な話だろう? 男はそういう話が好きなんじゃないのか?」
「…………性的という言葉について、たいへんに狭く捉えていたようです。性的な話。ええ、はい。好きです、武城さん。大好きです。ぜひ聞かせてください」
春木は、武城の、あまりに辞書的に正しい言葉遣いに唸った。この人の話を聞くにおいては、迂闊に言葉尻をとらえるわけにはいかないな、と認識を新たにした。
「……うん、じゃあ」
武城はなぜか言いよどんで、メモに目を落とした。
「どうしました?」
「いや。それじゃあ始めるか」
「? はい」
武城はせきばらいをして、話し始めた。
「古代人だから、自分たちの存在は神話と地続きだと思っていたというのが大事なポイントだな。神話の時代、人間には男性しかおらず、不老不死だったという。そして、神によって人間の女性が作られると同時に、神は男性に老いと寿命を与えたと。そのため女性は、老化と死という、いわば苦しみを連れてやってきたと考えられていた」
「うわあ。女性の立場ゼロじゃないっすか。男の人は女性に何か恨みでもあったんですかね」
「そう感じさせる記述はある。いわく、女性は、家の奥にぬくぬくといて、男が戸外で労働して得てきた食物をむさぼるばかりであると。これはヘシオドスという、ホメロスと並び称される神話著述者によるものだな」
「ホメロスは聞いたことあります。吟遊詩人ってやつ? わけもなく憧れますね、吟遊詩人。いやしかし散々ですね、女性。男尊女卑というやつですか」
「愛憎半ばといったところかな。人間の女性は、美の女神アフロディーテの似姿として作られたとされ、男はその魅力に抗えない。しかし現実の女性には腹立たしいところがたくさんある、と。ある意味、のろけ話でもあるんじゃないか?」
「ふむー。どうしようもなく惹かれてしまうけれど、そう見られるのはなんだかしゃくなので、女性なんてのは――と強がってみせている、という感じですかね」
春木は、自分でそう言ってみて、該当しそうな記憶が二つも三つも思い出され、恥ずかしくなってしまった。
小学校、中学校と、仲良くしたい女子の前でとってしまった馬鹿げた行状が頭をよぎって、思わず死にたくなる。
「ほう? そういう経験があるのかな?」
武城は純然たる興味の目を春木に向けた。
「うえ? いやいやいやいやいや! ……まああの、男たるもの、アホな行動のひとつやふたつやみっつやよっつはええとその。……やめません? この話」
なぜそんな話を要求されなければならないのか。春木は泣きたくなってきた。こういう話は墓まで持っていくべきであると、世の大多数の男と合意できるものと思う。
「はっはっは。そういうものかな。ではやめておいてやろう」
武城は朗らかに笑った。
その綺麗な笑顔にほだされそうになったが、くそう何か弱みを見つけてやりたい、と春木は思い直す。
「さて、そんな女嫌いの古代ギリシャ人だが、一方で同性愛がごく当たり前になされていたらしい」
「男同士ですか」
春木はじわりと嫌な汗を感じた。
「そうだ。浪漫だな」
「いや浪漫ではないです」
「冗談だ。さてその同性愛だが、性愛とはいいつつも、師弟愛というか、教え導く間柄においてなされるもので、女嫌いが高じた結果の歪んだ性欲の表れではなかったようだぞ」
「へええ」
春木は表面上感心しつつ、女性の口から性だの愛だの欲だのといったワードがぽんぽん飛び出してくることに、なんともいえない居心地の悪さを感じていた。
「もちろんそれは建前として、理想的な形としてはそうだというに過ぎず、世の中建前だけで回っているのではないということに思い至るわけだ」
「やめて! やめてください!」
「うぶなやつだなあ春木は」
「うぶって最近聞かない言葉ですね、教養~」
春木は話を混ぜっ返してやろうと試みた。
「師弟愛、親子愛のようなものだから、年上が年下を愛するという形になるらしい。年少の者が十分成長し、肉体的にも精神的にも大人になると関係は終了するという」
混ぜ返せない。
そして武城は、わざわざ極めて明瞭な発音で、ほどよく増したボリュームの声で続けた。
「もちろんそれは建前として、理想的な形としてはそうだというに過ぎず、」
「わーわーわー」
春木は耳をふさいで、武城の言葉をかき消そうとする。
「何がそんなに嫌なんだ」
武城が少々口角を吊り上げながら言う。
「ええとその……いえもちろんそのような嗜好の方に対して何らの悪意もないわけですけれどもその」
「しかたのないやつだ」
「こういう話は他ではしないほうがいいと思いますよ、えぇ……」
「同性愛というのもなかなか含蓄の深い話なんだぞ」
「そうなんですか……?」
別に深くなくてもいいのだが、一応春木は聞いてみる。自分の武城への愛護精神に涙が出そうだと思ってしまう。
「例によってプラトンの言っていることだが。そもそも人間は、二人で一つの生き物だったという。つまり、一つの胴体に、顔が二つ、手が四本、足も四本」
「オゥ。グロテスク」
「その生き物には、男の肉体同士が結合したもの、女の肉体同士が結合したもの、男女の肉体が結合したものがいた。人間たちはそれでまったく充足していた。完璧だった。それがある時、神がその完璧さを恐れ、真っ二つにした」
「出たー都合のいい神の処断」
「黙って聞け。それ以来、人間は伴侶である片割れの肉体を追い求めるようになった。同性の肉体と結合していた者は同性を、異性の肉体と結合していた者は異性を。これが愛の起源、誰かと一体になりたいという欲望が生まれる所以であり、そしてまた、同性愛と異性愛が存在する理由である、と」
「まあ……なんかいい話に聞こえますけども。うまく丸め込まれた感もややあり」
「ロマンのないやつだなぁ」
「だいたいですねー。さっき、元々人間には男しかいなくて、あとから女が作られたって言ってたじゃないですか」
「むむっ。それを言われると……い、一応作者は違うし……」
「丸め込まれませんぞワタクシはー」
「は、話を変えよう。――ごほん。春木は色恋の素晴らしい思い出はあるのかな?」
「えー。話戻ってるじゃないですか」
「いやいや。好きな女の子の前でやってしまった悲しい行動について根掘り葉掘り訊きたいというわけではないよ、うん。あくまで良い思い出をだね?」
と言いつつも、武城はどこかにやにやしており、嘲弄の雰囲気を醸し出している。
そんな簡単に素敵な恋愛が発生してたまるか。このまま主導権を握られてはなるまい、と春木は決意した。
「人生経験の浅い俺のことはさておき、武城さんはどうなんですか」
「わ、わたしか?」
水を向けられ、武城は明らかに動揺していた。
いつもの冷静さが崩れたと見て取った春木は、さらに攻勢をかけた。
「博学聡明な武城さんのことですから、俺みたいなガキには想像つかないような、オトナの経験をなさってるんでございましょ?」
セリフがつるつると口から出てくる自分に、内心ちょっと感動した春木であった。
「わ、わたしはそんなじゃないさ。全く身は綺麗にしたまま、清廉潔白だよ」
清廉潔白って言葉はそうやって使うんじゃないんじゃないのか。まだまだ動揺しているとみた。
「なるほどつまり耳年増ってことですね」
「ぐっ」
悔しそうな声を上げ、下を向いて唇を噛む武城。
時にはこんなふうに言い負かせることもあるんだな、と春木はいい気分だった。
さあさあ、いつものよく回る口は何と言ってくれるのかな?
「よし! この話はやめよう!」
武城は勢いよく顔を上げて、唐突に宣言した。
「えええーずるい!」
「ずるくない! わたしは分の悪い戦いはしない主義なんだ!」
「ぶーぶーぶー!」
「そもそも先に質問したのはわたしのほうじゃないか! そっちこそどうなんだ! 彼女がいたことあるのか!」
「ないです! ………………ないです……クッ」
勢いに釣られて断言してから、襲い来る名状しがたき感情に、春木は煩悶した。
わかっていても、どうして悲しくなるのか。
「ほう! そうか!」
勝ち誇ったように武城は言う。
そんなに嬉しいことですかね。
「よ~く了解した。それでは本日はここまでとしよう。さらば!」
武城は突然部活終了を宣言し、手早く荷物をまとめ、さっさと出て行ってしまった。
「へ?」
静かになる部室。どうしてこうなった。
春木は状況がいまいち飲み込めない。
あと「さらば」って言って帰る人、初めて見た。そのこともいまいち飲み込めない。
え~と、まあ、外が暗くなる前に終わったことだし、よかった、のか?
胸のうちに去来する、妙な物足りなさが、理解できなかった。
なんとはなしに部室を見回す。先ほどまでと打って変わって、しんとしている。
体育館のほうから何かの部の掛け声が響いてきた。それを聞いたら、ああいつもの学校だなという気分になってきた。
さて……ここの戸締まりはどうやってするんだろう?
<参考文献>
吉田敦彦 著『ギリシア人の性と幻想』青土社, 1997.2




