第1話 アトランティスのひみつ
気がついてみれば、部活のある日はいつも二人きりだ。
そのことを、思わせぶりな筆致で日記に書きつづったなら、愛すべき人と充実した時間を過ごしているのだな、と他人には見えるかもしれない。
しかしそうロマンにあふれた時間が、高校生などという取るに足りない者に、簡単にありはしない。これは二人きりのお話ではあるが、そんななかにさえ、なんでもないような、くだらない時間が多分に流れているものだ。
「おい聞いているのか? 春木」
春木泉太朗が顔を上げると、怪訝な目をした女子が視界に入った。
つややかな前髪の下に据えられた眼鏡の奥の瞳は真剣そのもの。ほんの一時物思いに沈むことも許さないような、いかにもすばらしく内容のある話をしているのだぞ、といった顔つきだ。
疑いの光輝く視線の持ち主・上級生の武城一葉が誇らしげに立っている。
彼女の前にある長机には、分厚い一冊の本と、彼女のメモがびっしり書かれたルーズリーフ。
彼女の後ろには、殴り書きの割にはバランスのとれた字と地図が書かれたホワイトボード。
なるほど彼女は確かに、「すばらしく内容のある話」をしているに違いない様子だった。あくまでも、様子は、だ。
様子という言葉は実に勝手がよい。
「ああはい。聞いておりますよ」
春木はへらっと柔和な笑みを浮かべ、ほどよく間をとってから、続けた。
「で、何の話でしたっけ」
「聞いていないではないか!」
武城は、駄々をこねるような声をあげた。その声は、大人びた容貌にはちょっと似合わない。
「いえいえ、一瞬物思いにふけっただけですよ。ほら、高校生といえば、物思いにふけることのかっこよさを知る年ごろじゃないですか」
「そんなものは中学生で卒業しておけ」
「大器晩成なんですよ。さあさあ、武城さんのお説をもっと聞かせてください」
「しゃらくさいやつめ」
「しゃらくさい、って最近聞かない言葉ですねえ。教養~」
きょうようー、と全けき馬鹿にした春木の声が部室に響いた。
「ふん。その手には乗らんぞ。くだらない話で時間をつぶしてわたしの話を聞かないで済まそうというのだろう。さあ、さっきの続きだ」
春木からすれば、どちらの話にしても、おそらくくだらないし無駄だし時間つぶしにしかならないであろうところだ。何しろ彼女がしているのは、謎の古代国家アトランティスがどこにあったかという話なのである。
「どうせ春木はアトランティスなんてうさんくさいオカルト話だと思っているんだろう」
「はい」
と、春木は明瞭な発音で答えた。
「……正直だな」
「素直に育ったもので」
「しゃらくさい。いいか、もう一度言うぞ。春木はアトランティスをムーやレムリアと似たようなものだと思っているのかもしれないが、これはちゃんと確実性の高いものなんだ。何しろ古代ギリシャの自然哲学者プラトンが記したことなんだからな。プラトンだ、倫理の授業で習っただろう」
「ええまあ……」
それ以前の問題として、なぜいまこの現代にアトランティスを云々せねばならないのか、春木からすればそちらのほうが大いに疑問だった。
クラスのやつらに「アトランティスって聞いたことある?」と聞いて回って、どれだけイエスという回答が集められるだろう? ひと昔かふた昔前には、こういう「未知の大陸」だかなんだかという話題が隆盛を誇っていたというけれど。
買った本は何でもかんでも溜め込む父の蔵書の整理を仰せつかった際、そういうことが書かれた雑誌を見たことがある。ずいぶん古い雑誌だった。もちろん盗み読みした。
おもしろくなかったといえば嘘になるが、その雑誌はいかにもうさんくさい話題で山盛りであり、どうせアトランティスなんていうのは嘘っぱちなんだろうと思ったものだ。
武城さんは、そういう要らぬ知識があった俺に感謝すべきである、と春木は思った。
「プラトンがえらーい学者なのはわかりますけど……えらーい学者さんでも、ちょっとしたジョークってことで書いたのかもしれないじゃないですか」
「そういうふうに言うやつもいる。プラトンがふとホラ話を書きたくなったんだと」
「でしょ」
「しかしそれはない。なぜかというと、プラトンは、国家のあり方を論ずる際の参考に、過去にあった理想的な国家としてアトランティスを挙げているに過ぎないからだ。主題はあくまで国家論のほうなんだ。ついでに言うと、超古代文明があって、とんでもなく技術が発達していたとかいうことも書いてない」
「え、そうなんですか?」
春木の頼れる知識によれば、アトランティスでは、たいへん便利な超古代文明により飛行機とかが飛んでいるはずであった。潜水艦もあったはずである。
「そのへんは後世に作られた映画とかが勝手に想像で付けたものだ。プラトンが書いたのは、せいぜいプラトンの時代より少々発達していた、というぐらいだ」
「過去の文明なのに発達していたんですか? おかしくないですか」
「文明は一直線に発展していくものじゃないのだよ。考古地理学的調査によれば、例えばギリシャで、大洪水があって都市が滅んだ形跡が見られるという。その跡地にできた都市は、前の時代よりずっと低い文明レベルだったそうだ。そうやって、ある程度発展したと思ったら失われ……、ということを繰り返していたのが古代なんだ」
「う~ん、そうですか…………。あ、でも、自分の論に都合のいいように、ありもしない国をでっちあげて語ったということはあるのでは?」
「いい疑問だ。だがそれもおかしい。プラトンの筆致は、他の著作も見てみれば、基本的に事実に沿っていて、当時の知識水準からすれば正確そのものだという。わざわざここでだけ壮大な嘘を書くというのは変だろう?」
「ふむむ」
春木は、椅子の背もたれに体重を預けて唸った。
ホワイトボードの、武城の手書きの地図が目に入った。
上のほうから、ヨーロッパ、地中海、アフリカ大陸の北部。そして左手には大西洋。世界史の授業で嫌になるほど見ている地図だ。
こうして眺めてみると、ヨーロッパと中東、アフリカって結構近いものだ。それに、トルコが結構張り出していて、大きい。東ヨーロッパの半分ぐらいあるんじゃないか。
どうもわれわれの知識は西ヨーロッパに偏っているな、と春木は感じた。
「とりあえずわかりました。で、どこにあるんでしたっけ。海に沈んだ都市なんでしょ?」
「それが目下の問題なのだよ。簡単に言ってくれるな」
武城はなぜか得意げにそう言って、ホワイトボードの地図に向かい、ペンを手に取った。
「あ、ひとつ知ってますよ、場所。大西洋でしょ」
「ほう。なかなかやるじゃないか」
武城は、スペインのやや左下に丸を描いた。
「このへんにあった島なんじゃないか、というのは有力な説だな」
「やっぱり、大西洋って広いですから、島か何かあったほうがバランスがとれるっていうか。空欄があると埋めたくなるみたいなのがあるんですかね」
「……そうきたか。なかなか人間の根源に迫るおもしろ回答だな」
武城は神妙な面持ちで春木を見つめた。
その視線には、なにやら非常に人を馬鹿しているところを感じなくもなかったが、春木は気にしないことにした。
「大西洋にあるといわれるのは、プラトンが、アトランティスはヘラクレスの柱の前にある、と書いたからだ」
「ヘラクレスの柱?」
「それが問題だ。一説には、ここの海峡がそれではないかといわれている」
武城は、スペインの南端と、アフリカ大陸北西部の、いまにも互いに接しそうな箇所をペンで指した。
「さてクイズです。この海峡の名前は?」
「えっ。あー、えーっとえーっと……ジブラルタル海峡!」
「正解。ちゃんと授業を聞いていたようで何より」
「地理は割と好きなんですよ」
「よいことだ。そのまま精進したまえ。さて、ジブラルタル海峡は、古代にはヘラクレスの柱と呼ばれていたらしいのだな」
「なんだ。じゃあ決まりじゃないですか。アトランティスは大西洋にあった! わー。すばらしい。本日の話これで終わり?」
春木は柏手を打ち鳴らし、席を立つふりをした。
「待て待て。さっき言ったように、プラトンは、ヘラクレスの柱の“前”と書いたんだぞ」
「前じゃないですか。アトランティスのすぐ前がジブラルタル海峡でしょ」
「プラトンはギリシャ人だぞ。とすれば、ギリシャから見て“前”と考えるべきだろう。ギリシャといったらここだ」
武城はギリシャの位置にペンで×印を付けた。そこは東も東であり、トルコのすぐそば。中東は目と鼻の先だ。
そこから地中海の真ん中を突っ切って、ジブラルタル海峡の前に至ろうとすると、フランスとイタリアの南を通って、スペインの右隣あたりに来ることになる。かなりの長旅だし、結構狭い海域だ。
「仮にヘラクレスの柱がジブラルタル海峡だとすると、その“前”、地中海西部にあるということになる。そんなところにあったとしたら、もっと簡単に見つかっているんじゃないか? だいたい、このあたりには現在でも島がある。沈んでない」
「ええー。じゃあなんでそんな説が有力なんですか……」
「知らん」
「武城さぁん、勉強してきたんでしょー?」
春木は、長机の上の、武城のメモと本を見やった。
「わたしは真実にしか興味がないんだ。はっはっは」
武城は本をぽんぽんと叩いた。おそらくそれには、そういった「有力な説」をくつがえし、かつしっかりと根拠のある説が書かれているのだろう。
春木からすれば、自分から進んで読みたいとはとうてい思えない代物に見えたけれど。
彼女の持ってくる話は、その話題自体は、うさんくさいか、無駄であるか、くだらないか、馬鹿げているか、役に立たないか――、つまりは雑学だ。
しかしながら、それを調べるにおいては、きちんとした学術書を探してくる。百科事典に書いてあるような、お仕着せの説にも簡単には納得しない。
とはいえ、彼女は高校生。聡明な人物であるに相違ないが、学術書をひょいひょい読みこなせているのかというとそれほどでもない。詰めが甘いといってもいい。
真実にしか興味がないと言ってはいるが、その実は、こうして「春木に雑学話をできればそれでよい程度にしか興味がない」と表現することもできるような筋合いのものだった。
武城は変わらぬ調子で話を続ける。
「真実以外のことはさておこう。だいたいだな、このころの人類はというと、いまのエジプトあたりのアフリカ北東部、中東、トルコ、東ヨーロッパの南部あたりをうろちょろして、小さな都市をぽつぽつと作っていたぐらいのものだ。古代ヨーロッパなんて、ほとんど全部森林で覆われていて、人が住めるところは多くない」
「へええ。いまだと真っ平らな平原イメージですけどねえ」
「伐採しまくったんだ。だから地盤が緩んで洪水喰らって滅んだりする。はっはっはーざまーみろだ」
武城さんがノってきたな、と思ったので、春木は何か合いの手を入れようと考えたが、うまく思いつかず黙って聞いた。
「で、ましてこんなスペインあたりの西方のことなんて、人々は大して知ることができなかった。そもそも船で地中海を航行するのだって、生きるか死ぬかの大冒険の時代だからな。しかしプラトンはかなり細かく記述している。だから、可能性は、ギリシャより左ではなく、右にあることを考えるべきというわけだ」
武城は朗々と説明し、ホワイトボードのギリシャの位置から、右方向へ矢印を引いた。
さあここからがいいところだ、と言わんばかりの胸の張りようで武城が振り返ったところで、ちょっと寂しげなオルゴール音楽が鳴り響いた。
この音楽が学校中に流れると、文化部のほとんどは部活を終えて帰宅する。運動部はもう少し残ってやっていることが多い。
「ぬ。時間か」
「これ次の部活でも続けるん……ですかね?」
「同じ話を長々しないのがわたしのいいところだ」
さすがにそれは聞き捨てならないので、春木はめいっぱい疑念の視線を送った。
このようなときのため、眉間にしわを寄せる訓練は怠っていない。
「では手短に結論とわかりやすい根拠を言うとだな」
武城は春木の視線をひらりとかわし、メモを持ち上げて淡々と述べた。
「アトランティスの場所はトロイ。トロイの木馬で有名なあれだ。つまり現在のトルコ西端部。根拠はいろいろあるが、わかりやすいのは名前だ」
春木はトロイの場所なんて全く知らなかったが、ふんふんなるほどあれね、という雰囲気を醸し出した。
武城は、ホワイトボードに「アトランティス= 」と書いて、答えを書き入れた。
「アトランティスとはアトラスの娘という意味だ。トロイという都市は、アトラスの娘のひとりエレクトラの一族によって築かれたものだ」
なんともあっさりした話だった。論争の必要性が全部吹き飛んだように思われた。春木は心底感心してしまった。このことで議論してきた過去の人たちは全員馬鹿なんじゃないかとすら思った。
「ただ、アトラスというのは神話上の存在だから、この根拠は、要するに神話というものが現実に起こったことを大いに反映して書かれていたとして……、という仮定に依拠することになるんだけどな」
「……物事にはちゃんとオチがあるものですね…………」
春木はしみじみとし、さきほどの感心は即座に忘却した。
「わかりやすい根拠は、だと言っているだろう。もっと説得的な根拠だってある。それでは今日の部活は終わりにしようか。この本は貸してやるから、読んでおくように」
「うええええええ~」
「さ、戸締まりはわたしがしておくから、先に帰っていいぞ」
こうしていつもの二人きりの時間は唐突に終わる。
春木は、身支度をして部室を出て、ふと、部室の扉を振り返った。
文芸部と書かれたプレートが、外れそうになりながら貼り付けられていた。文字もかすれてしまっている。
……文芸部というのは、世の中的にいって、こういうことをする部活ということでよいのだろうか?
武城が何かしら本を読んできて、それを春木相手に講義する。
春木はできるだけ真面目に、熱心に、興味深そうにそれを聞く。
……やはり間違っているような気がするが、楽しんでいないのかというと嘘になる。
そしてそれは、武城にとっても全く同様なのだった。
春木は帰宅してから一応例の本を読んだ。斜めに。
ギリシャとトルコの間にあるダーダネルス海峡もまたヘラクレスの柱と呼ばれていたとか(古代人は似た地形のところに同じ名前をつけるクセがあったらしい)、
プラトンが書いたアトランティスの話は、実は又聞きの又聞きの又聞きしたものが元ネタだったとか、
トロイも海に沈んだことがあるとか、
プラトンは一万年だか前にアトランティスがあったと書いてるけど、それでは石器時代になってしまうので、太陰暦で考え直すべきだとか、
プラトンは当初、これをトロイの話と気づかず、すごく新奇性のある話だと思っていたとか、
なんだかいろいろ書いてあって、いくらか感心もしたのだが、人は眠くなるものなので、寝た。
古代の話は子守唄だ。そう思えば、古代文明も捨てたものではないのであり、超古代文明の面目躍如というものだろう、何せ現代にまで通ずる良質な睡眠薬を開発したのだか……ら……
と、あらぬ誤解を抱きつつ、大いに眠った。
<参考文献>
エバーハート・ツァンガー著『天からの洪水 : アトランティス伝説の解読』新潮社, 1997.5




