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サイレント・デイ


 教室の隅で女の子が虐められている。

 数人の男子生徒が囃し立てるように彼女の周りを取り囲んでいた。悪意ある言葉と侮蔑を込めた視線が少女を責め立てる。

 “俺達はお前とは違う”

 そんな心の声が聞こえてくるかのような、それは一方的な迫害だった。子供特有の残酷さに支配され、彼等の口元は一様に三日月型につり上がっている。

 苦し紛れの反論として彼女の口から洩れた言葉はしかし、意味を成さない音の羅列だった。ますます増長する少年達。ついに少女は俯いて悔しそうに唇を噛みながら涙を流し始める。

 その光景をただ傍観しているだけの僕。先生の登場を合図に蜘蛛の子を散らすようにいなくなる男の子たち。

 取り残される彼女。

 声にならない慟哭。



「…………っ!」

 左腕に感じた腕時計の振動で目を覚ます。

 いつまで経っても慣れない起床合図に舌打ちを漏らしながらベッドから身を起こす。すると、ついさっきまで見ていた夢の残滓が頭をよぎった。それは悔恨の記憶。決して忘れることのできない、いや、忘れることの許されない過去の一場面だった。

 時刻は午前七時、いつも通りの時間だ。寝ぼけた目を擦りつつ洗面所に向かう途中で母親とすれ違う。声こそ聞こえなかったが、口の形で何と言ったかは読み取れた。一応挨拶を返しておく。

『おはよう』

 顔を洗って、食パン半分とヨーグルトという簡素な食事を済ませてから学校に向かう。そのあまりの早技を見て母親は呆れた顔をしていた。

 目的地まで後半分ほどの場所に位置する公園に足を踏み入れたところで彼女――千尋の姿を視界に捉えた。ちょうど公園のブランコと滑り台の真ん中に位置するのっぽな時計。そこが僕らのいつもの待ち合わせ場所だった。

 肩にかかる程度の長さに切り揃えられた黒髪に、同じく黒のカチューシャをつけている。服装は当然のように制服だが、西洋の人形を思わせる顔立ちの彼女が着ると一層様になって見えた。

 所在無げに手を後ろに組んで僕を待っていた彼女に挨拶代わりの軽いジェスチャーを交わし、そのまま何も言わずに二人並んで歩き出す。この公園を抜けると学校へのちょっとした近道になる。

 日の当たらない木陰を二人並んで歩く。無人の公園を行く僕らの間に会話はない。お互いのことは自分のこと以上によく知っている二人の間に、言葉は必要なかった。むしろ、無言でいてなお伝わってくる相手の感情がひどく心地よい。

 どちらからともなく手を繋ぐ。お互いの存在を確かめ合うように。

 千尋の体温は冷たい。まるで靄に包まれたかのような蒸し暑さの中、繋いだ手のひらから伝わる彼女の温度だけが確かな実感を持って感じられた。

 芝生を踏みしめる靴の音も、周りの木で鳴いているであろう蝉の声も僕らには聞こえない。いや、正確にはそこに本当に“音”が存在しているのかどうか確認する術をもはや人類は持っていない。



『サイレントデイ』

 約一年前の夏の日のことを、僕らはそう呼んでいる。

 人類の生活様式を一気に変えてしまうきっかけになった一日。

 その日、地球上からあらゆる種類の“音”が消滅した。


 音とは空気の振動だ。それが聴覚を通じて知覚されることによって初めて音として認識される。では人の聴覚に異常が生じたのか? 答えは否だ。あらゆる検査を通して、『サイレントデイ』の前後で人体には何の変化もないことが明らかになった。

 なら、人間の知覚できないレベルにまで音の周波数が変化してしまったのか? これも違う。人間に限らず、どんな計測機械をもってしても“音”の存在を確認出来なかったからだ。

 空気、または音。どちらかの性質そのものが変化してしまったのだという結論に、人類は辿り着いた。辿り着かざるを得なかった。

 物理学的にはありえないことだ。だが、実際に起こってしまった以上、それはもはや起こり得ないこととは呼べなくなった。

 そして、その日を境に人々の生活は一変した。


『サイレントデイ』

 名前の由来は音が消えたこともさることながら、その日だけは唯一世界中で戦闘行為が停止した日である、という認識に基づいている。

 だが、その後で起こった混乱は戦争の比ではなかった。

 まず、一日目。多くの人が寝坊をした。目覚まし時計の音が聞こえなかったからだ。

 慌てて寝床から這い出して洗面所に行き、蛇口を捻る。あるいは朝食の支度をする。その時になって初めて気付くのだ。耳が全く聞こえなくなっていることに。

 一人暮らしの人は当然自分一人の異常だと思っただろう。だが、僕を含めた家族暮らしの人たちは皆が同じ症状を患っていることを知ってさらに首を傾げることになる。

 これは一大事だ! と思って救急車を呼ぼうとした人もいただろう。しかしあろうことか電話を使える人が一人もいない。必然的に病院に人々が押し寄せることになった。

 早起きの人から順に、パニックはまるで津波のように広がっていった。恐慌に駆られた人々が病院へと殺到する。だがあらゆる音が聞こえないのだ。クラクションも、自転車のベルも、背後から近づいてくる物音も、何もかも。

 その日一日で起きた事故の死傷者だけで、年間のそれを遙かに凌ぐ勢いだった。そもそも病院自体がまともに機能していなかった。言葉による意思の伝達が出来ないのだから無理もないだろう。

 結果的に、僕や千尋の家族のように冷静になって状況を整理してから、これから起こるであろう事態を予測して、家で待機していた人達が最も安全だった。


 その後の出来事はまるで悪い夢を見ているかのようだった。

 治療方法がないと分かるや、正気を失う人が次々に現れ出した。彼ら狂人の手にかかって命を落とす市民も大勢いた。だが彼らは周りの人々を巻き込みながらも、最後には必ずといっていいほど自分自身の命を絶った。だから時が経つにつれて自然と狂人の数は減っていった。

 次に待っていたのはより現実的な問題だ。

 最も割を食ったのは歌手、タレント、芸能人に映画スター。皮肉なことに、ついこの前まで誰もが知る有名人だった人々が真っ先に職を失った。音の消失と共に音楽やテレビといった娯楽もまた消えてなくなったからだ。

 生活がおぼつかなくなって、おかしくなった世界に絶望して。自殺する人が後を絶たなかった。

 音のない世界で恐慌に駆られる人々、暴れる狂人、増える自殺者、声なき悲鳴。それはひどく滑稽なようでいて、地上に具現した地獄そのものだった。

 まるで、世界が新しい秩序に順応できない人々を切り捨てていくかのように、僕には感じられた。

 だが、僕に何よりも堪えたのは世界が変質したことで生じた千尋の異変だった。


『昨日の夜は眠れた?』

『うん。もう“あの声”も殆ど聞こえなくなったよ。紘君のおかげ』

 指文字と片手だけで出来る手話を織り交ぜて千尋と会話する。二人で小学生の頃から続けている手話は、何も知らない人が見ても指の形さえ分からない程のスピードに達していた。

 彼女の言葉を受けて、親指を立てながら頷いた。よかった、そう気持ちを込めて。

『それにしても今日は暑いよなあ。いまさら高校で手話教えてもらわなくても僕らは全部知ってるっつーの』

『まあまあ。わたし達が特殊なんだからしょうがないよ』

 千尋の言葉は尤もだが、既に知っていることを再び教わることは苦痛以外の何物でもない。これは今日も睡眠学習になりそうだと思いながら、二人並んで太陽光の反射したアスファルトを歩く。背の低い千尋に合わせるように小さな歩幅で、それでも数年前から変わらないリズムを刻みながら。


 千尋は生まれた時から軽度の発話障害を持っていた。聴覚に異常はなかった為、両親の強い希望もあって普通の小学校に入学させたが、周りの子供たちに比べてうまく言葉を話せない彼女は恰好の虐めの対象になってしまった。

 僕はそんな彼女と同じ学校にいた。両親の影響を多聞に受けたのか、同級生が面白がっているお笑い番組も、顔だけで売れたような歌手グループもバカな芸能人も、僕は大嫌いだった。それに加えて友達を作るのが苦手だった僕は、自然とクラス内で孤立していった。

 そんな僕の目に留まったのが、何度目かのクラス替えを経て同じ教室に机を並べることになった千尋だったのだ。

 当時の彼女は既に殆どしゃべらなくなっていた。口を開けばからかわれる。そのことが強迫観念として心に根付いてしまったかのように。

 その頃は僕自身も単に千尋を可哀想な子、くらいにしか思っていなかった。彼女を虐める側に立つことはなかったが、だからといって周囲を敵に回してまで助けるつもりもなかった。

 そんな僕の認識を変えたのはいつもの様にクラスメイトにからかわれた後、千尋が漏らしたたった一つの呟きだった。

「……みんな死んでしまえばいい」

 舌足らずな口調で怨嗟を込めて放ったその一言が、僕が初めて聞いた彼女の声だった。その時思ったのだ。やっと仲間に出会えたって。僕が周囲に限りなく無関心なのと同様に、彼女は自分の周りのもの全てを憎悪していたから。

 その翌日のことだったと思う。授業中に先生が千尋を指名して簡単な問題を答えさせようとしたのだ。震える足で立ち上がった千尋に集まるたくさんの視線。そのどれもが好奇に満ちていた。しかし、震えながら開いた口からこぼれたのは言葉ではなく消化された後の朝食だった。

 みんなが爆笑する中、ただ慌てるだけだった新米教師。その全てを振り払って、気が付いたら僕は千尋を介抱していた。そのまま保健室に連れて行こうとする僕を、クラスメイト達は冷めた目で、教師は怯えたハムスターのような目で見つめていた。

 その日から、僕は傍観者という立場をやめて千尋の理解者になろうと心に決めたのだ。彼女と一緒にいることで受けた様々な嫌がらせも、僕がしつこく接するうちにようやく見せてくれた彼女の初めての笑顔を思い出すだけで耐えられた。

 だが僕とある程度打ち解けてからも、彼女は頑として言葉を話そうとしなかった。短い相槌程度なら答えてくれるが、二人でいても話しているのはもっぱら僕の方だった。

 これには閉口した。そもそも僕自身があまりしゃべる方ではないのだ。そんな折、偶然テレビで目にしたのが手話ニュースにピンと来た。これだ、と。

 千尋の両親はなるべく彼女に普通の女の子として育ってほしいと望んでいたので、手話を教えることを良しとしなかったらしい。だから二人だけで学んだ。定期的に開かれる市の講習会に参加し、二人で持ち寄ったお小遣いで本を買い、録画しておいた手話ニュースをお手本にして。

 途中で僕の両親にはバレてしまったのだが、咎めるどころか逆に応援してくれたのには驚いた。今にして思えば、千尋の両親も薄々感付いていたのだろう。だが、僕らのしていることが咎められることはなかった。

 そうして、中学校に上がる頃には二人とも殆どの日常会話を手話でこなせるようになっていた。手話を使った彼女との対話は楽しかった。今まで伝えられなかったことが、言語以外の媒体に頼ることによってすらすらと表現できた。お互いが赤面してしまうような恥ずかしいこともたくさん言い合った。

 無言の時間を息苦しいと感じない二人。他の誰にも頼らずに一つの事をやり遂げた二人。いつしか、お互い傍にいることが当たり前の存在になっていた。

 相変わらず、他に友達はいなかったけれど。

 彼女さえいてくれれば、僕はそれで満足だった。



次回で完結。

投稿予定日は26日、10時です。

二人の世界がどのように完結するのか・・・・・・お楽しみに!

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