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団地の裏山の常世門  作者: 伝福 翠人


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第9話「源さんの剪定」

 紅い空から、雨が降り始めた。


 頬を打つ水滴は、ひどく生温かい。


 鼻腔を突く、強烈な鉄錆の匂い。


 地面に落ちた雨粒が、重力に逆らうようにゆっくりと宙へ浮き上がり、給水塔の頂部へと吸い込まれていく。


 世界の上下が狂っていた。


 アスファルトに這いつくばったまま、湊は薄れゆく意識の中で巨大な影を見上げた。


 給水塔のハッチに前足を掛けた、迷い子の神。


 そのどす黒い瞳が、虚空の『道』を見定めている。


 踏み出せば、終わりだ。


 この団地はコンクリートの根を引っこ抜かれ、丸ごと常世の底へと落下する。


 指一本、動かすことができない。


 圧倒的な霊圧が、湊の肺から酸素を絞り出していた。


 視界の端。


 赤黒い雨のカーテンを裂いて、ゆっくりと歩み寄る足音があった。


 擦り切れたジャージの裾が、水溜まりを踏みしめる。


 一号棟の方向から現れたのは、源さんだった。


 肩には不気味な羊歯の葉が張り付き、顔は土気色に染まっている。


 それでも、その背筋は枯れ木のように真っ直ぐに伸びていた。


 広場の中央。


 数十年前の姿のまま立ち尽くしていた「おかっぱ頭の少女」が、ゆっくりと首を巡らせた。


 ビー玉のように澄んだ瞳が、源さんを捉える。


 老人の足が、ピタリと止まった。


 かつて、彼が常世へ連れて行くことができず、現世に置き去りにした未練。


 源さんの喉仏が、大きく上下に動く。


 だが、その濁った両目に、もう迷いの色はなかった。


 烈火のような決意だけが、深く刻まれた皺の奥で燃えている。


 震える右手が、ジャージのポケットから引き抜かれた。


 握りしめられているのは、刃こぼれした黒鉄の盆栽鋏。


「……長居させちまったな」


 嗄れた声が、雨音を縫って響いた。


 少女へ向けた言葉なのか、それとも己の未練への決別か。


 源さんが、鋏を胸の高さに構える。


 刃先を向けたのは、巨大な鹿でも、帰還者たちでもなかった。


 一号棟と二号棟の間。何もない虚空の隙間。


 団地という巨大な『盆栽』を覆う、見えない枝葉の輪郭。


 彼はそれを、切り落とすつもりだ。


 口から、一筋の黒い血がこぼれ落ちる。


 人間の肉体で、空間そのものを剪定しようとする絶望的な代償。


 源さんが、渾身の力を込めて鋏を握り込んだ。


――チャキ。


 澄んだ金属音が、紅い雨を切り裂いた。


 直後、棟と棟の間の空間に、ガラスが割れたような黒い亀裂が走る。


 ビリビリという破断音が鳴り響き、足元のアスファルトが大きく跳ねた。


 鹿が、給水塔の上から前足を踏み出す。


 常世へ至る道が開かれようとした、その瞬間。


 源さんは血塗れの歯を剥き出しにし、二度目、三度目と刃を打ち鳴らした。


 チャキ。チャキ。


 空に向かって無数の黒い亀裂が走り、鹿の足元の空間がボロボロと崩れ落ちる。


 常世への道が、強制的に断ち切られていく。


 給水塔が悲鳴のような金属音を上げた。


 怒り狂ったような霊圧の嵐が、源さんの細い身体を叩き打つ。


「……これで、仕舞いだ」


 四度目。


 源さんが全てを込めて、鋏の柄を打ち合わせた。


――チャキ。


 世界を繋ぎ止める、美しくも残酷な一音。


 そして。


 キィン、という甲高い悲鳴。


 耐えきれなくなった黒鉄の盆栽鋏が、根元から真っ二つにへし折れた。


 折れた刃が、スローモーションのように宙を舞い、泥水の中に突き刺さる。


 同時に、団地を覆っていた紅い霧が、かつてない濃密さで一気に収束を始めた。

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