第8話「団地一斉禊」
四号棟の廊下に飛び出すと、むせ返るようなカビの匂いが顔を打った。
壁という壁、天井、そしてコンクリートの床。
あらゆる表面を、真っ黒な煤のようなものがびっしりと覆い尽くしている。
指先で触れると、ひどく冷たく、湿っていた。
泥でも、埃でもない。
何十年もこの箱の中に澱み続けた、無数のため息や、孤独な夜の記憶が具現化したような、重く粘り気のある質量。
団地全体が、静かに決壊を始めていた。
隣の部屋のドアから、ノイズ混じりの昭和の歌謡曲が漏れ聞こえてくる。
同時に、上の階からは現代のバラエティ番組の甲高い笑い声が響く。
二つの時代が、薄いコンクリートの壁を越えてグチャグチャに混ざり合っている。
目の前で三階のドアが開き、派手なパンタロンを履いた女と、くたびれたスウェット姿の中年男が、互いを見えないかのようにすれ違った。
生きている者と、帰還した者。
境界線はすでに溶け落ちている。
右のポケットで、基板が火のように熱を持った。
『……ザーッ……』
砂嵐の奥から、幾重にも重なる神楽鈴の音が響く。
脳髄を直接打つ、あの『主』の意志。
身体が、勝手に動いた。
湊は左のポケットから油汚れのウエスを引き抜き、壁を覆う黒い煤へ押し当てた。
肩の関節から、メシリ、と嫌な音が鳴る。
重い。ただの汚れではない。数十人分の人生の澱みを、たった一人でこそげ落とすような絶望的な重圧。
「……っ、あぁ!」
歯を食いしばり、腕を振り抜く。
黒い煤がパラパラと剥がれ落ち、下から元の灰色のコンクリートが顔を出した。
同時に、喉の奥から鉄の味が込み上げてくる。
拭うたびに、自分の体温が急速に奪われていくのが分かった。
それでも、足を止めるわけにはいかない。
四号棟の階段を駆け下りながら、手すりを、壁を、消火栓の箱を、手当たり次第に拭っていく。
息が続かない。
肺が焼け焦げたように痛む。
視界の端が明滅し、耳の中では鈴の音が狂ったような早鐘を打っている。
三号棟の壁を拭い、二号棟の広場へ転がり込む。
膝がガクガクと震え、アスファルトの上に這いつくばった。
擦りむいた掌から、血が滲む。
顔を上げる。
荒い呼吸が、一瞬で止まった。
団地の中央。
黄金色に発光していたはずの巨大な給水塔が、おぞましい色に変異していた。
紅。
乾きかけた血のような、どす黒い赤色。
団地中に蔓延した黒い煤が、大蛇のように地を這い、給水塔の根元へ吸い込まれている。
あらゆる「穢れ」を飲み込み、塔そのものが巨大な呪いの塊と化していた。
ごぽり。
巨大なタンクの内部で、重い液体が煮えたぎるような音が響く。
塔の頂部。
半開きになったハッチが、内側からの圧力で弾け飛んだ。
金属片が空を舞う。
むき出しになったハッチの穴から、あの半透明の巨大な枝角が突き出した。
迷い子の神。
黄金の光を失い、どす黒い紅に染まった無機質な瞳が、虚空を見下ろしている。
巨体が、ハッチの縁に前足を乗せた。
そのまま、何もない空の彼方へ向かって、最後の一歩を踏み出そうとしている。




