第7話「回路の森の主」
開け放たれた一号棟の角部屋。
その異様な光景に、湊は足を踏み出すことができなかった。
整然と並んでいたはずの盆栽。
松や梅の枝は茶色く干からび、葉は全て落ちている。
代わりに、鉢の土から異常な速度で羊歯の類が芽吹き、畳を這い、土壁を覆い尽くそうとしていた。
むせ返るような、濃密な緑の匂い。
源さんは背を向けたまま、畳の上に座り込んでいる。
「……源さん」
声を絞り出す。
老人の肩が、微かに跳ねた。
右手から、あの黒鉄の鋏が力なく滑り落ちる。
チャキ、といういつもの澄んだ音は響かない。ただの鈍い金属音が、畳に吸い込まれた。
「帰れ」
嗄れた声。
振り向こうともしない。
「お前が招いた客だ。俺の型は、もう通じねえ」
冷たい拒絶。
目の前で、古びたドアがピシャリと閉ざされる。
コンクリートの廊下に残された湊を、薄暗い絶望感が包み込んだ。
自分のせいで、この団地は狂ってしまった。
逃げるように、四号棟の自室へ戻る。
机の上に散らばる工具類。
震える手で、ポケットからあの緑色の基板を取り出した。
諸悪の根源。これを叩き割れば、あの化け物たちも消えるのか。
マイナスドライバーの硬い柄を握りしめる。
振り下ろそうとして、腕がピタリと止まった。
失うことへの、直感的な恐怖。
基板を手放せば、自分は本当に狂った世界で「ただの迷子」になってしまう。
ドライバーを置き、代わりに作業用のルーペを引き寄せる。
息を詰め、基板の表面を覗き込んだ。
緑色の盤面。規則正しく走る銅箔のライン。
何百回と見てきた、馴染み深い幾何学模様。
しかし、焦点が合うにつれ、その景色が不気味に変質し始めた。
ただの金属の線が、鬱蒼とした木々に囲まれた、果てしなく続く石段に見える。
銀色のハンダの山が、苔生した古い灯籠と重なる。
指先から、基板の熱が這い上がってきた。
繋がっていないはずの真空管が、カッとオレンジ色に焼け焦げる。
部屋の空気が一瞬で沸騰した。
汗が目に入り、視界が歪む。
スピーカーなど繋がれていないのに、空間そのものがびりびりと振動し始めた。
『……ザーッ……』
いつものノイズではない。
鼓膜を通り越し、内臓を直接鷲掴みにするような、物理的な質量を伴った響き。
肺から空気が押し出される。
湊の意識が、ルーペ越しの小さな参道へと、真っ逆さまに吸い込まれていった。
風が吹いた。
埃っぽい四号棟の匂いではない。
高く澄んだ、氷のように冷たい空気。
視界を埋め尽くすのは、緑色のプラスチックではなく、見上げるほど巨大な杉の巨木だった。
ノイズが唐突に鳴り止む。
代わりに、幾重にも重なる神楽鈴の音が、雅楽のような旋律となって降り注いできた。
脳髄に、直接「何か」が刻み込まれていく。
熱く溶けた鉛を流し込まれるような激痛。
声を上げようにも、喉が動かない。
痛みと同時に、それを神々の『型』として理解してしまう自分への恐怖。
『――迷い子を導く者よ』
あの事務的な声ではない。
地鳴りのような、絶対的な意志を持った巨大な響き。
空そのものが、湊を見下ろして語りかけている。
『お前が、次の門番だ』
目の前が、真っ白に弾け飛んだ。




