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団地の裏山の常世門  作者: 伝福 翠人


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第5話「錆びた給水塔の神殿」

 半透明の鹿が、ゆっくりと給水塔の根元に鼻先を寄せた。


 コンクリートの土台に、透き通った枝角が触れる。


 金属が軋むような、耳障りな高音。


 次の瞬間、赤錆に覆われていた給水塔の鉄骨が、内側からカッと黄金色に発光した。


 剥がれかけたペンキの表面に、目に見えないほどの細かな金色の産毛がびっしりと生え揃っていく。


 鼻腔の奥を、濃厚なアルコールの匂いが殴りつけた。


 熟成された、芳醇な酒の香り。


 咽喉が焼けつくように熱くなり、足元の地面がぐにゃりと歪んだ錯覚に陥る。


 鹿の姿は、黄金の光の中に溶けるようにして消えていた。


 後に残ったのは、脈打つように淡く発光する、巨大な給水塔だけ。


 学校へ行く足は、すでに止まっていた。


 踵を返し、四号棟へ走り出す。


 胸の奥で、警報が鳴り響いている。


 あれは団地の全ての蛇口に繋がっている。


 三階の自室。


 玄関を飛び込むと、台所から水の流れる音がした。


 流し台の前に、母が立っている。


 コップを手に、じゃあじゃあと出しっぱなしの水道水をじっと見つめていた。


「母さん、水、飲んじゃだめだ!」


 叫びながら駆け寄る。


 流し台に溢れる水は、もはや無色透明ではなかった。


 とろりとした、蜂蜜のような薄い琥珀色。


 狭い台所が、あの濃厚な酒の匂いで満たされている。


 母が、ゆっくりと振り返った。


 両目が、ひどく虚ろだった。


 焦点は湊を通り越し、はるか遠くの虚空を結んでいる。


 その口元には、張り付いたような、穏やかで幸福そうな微笑。


「……おいしいわよ、湊。一口、どう?」


 差し出されたコップ。


 中の液体が、わずかに発光している。


 湊は息を呑み、後ずさった。


 背中が、冷たい冷蔵庫の扉にぶつかる。


 逃げるようにベランダへ出た。


 空気が狂っている。


 朝の九時前だというのに、空が血のような赤色に染まっていた。


 夕暮れよりも深い、不吉な茜色。


 向かいの二号棟。


 ベランダに干された洗濯物が、風もないのに奇妙なリズムで揺れている。


 いや、違う。


 洗濯物を干す手を止めた主婦たちが、一様に手すりに縋り付き、広場の給水塔を恍惚とした表情で見上げているのだ。


 誰も喋らない。


 カラスの鳴き声も、車のエンジン音も消え失せた。


 ただ、団地のあちこちの部屋から、水道の蛇口を全開にしたじゃあじゃあという水音だけが、不気味な合唱のように響き渡っている。


 このままでは、団地ごと常世に沈む。


 あの『迷い子』が、給水塔を自分の「宿」に書き換えてしまったのだ。


 右のポケットで、基板が微かに振動している。


 宿を提供せよ。道筋を示せ。


 放送の言葉が脳裏に蘇る。


 湊は左のポケットから、油汚れにまみれたウエスを引き抜いた。


 手にした瞬間、薄汚れた布切れが青白い光を帯びる。


 やるしかない。


 あの時と同じように、淀みを拭い去る。


 それが、放送を受信してしまった自分に課せられた「禊ぎ」。


 部屋を飛び出し、広場へ走る。


 黄金色に発光する給水塔に近づくにつれ、空気の粘度が増していく。


 水の中にいるような息苦しさ。


 塔の真下まで辿り着き、上を見上げた。


 呼吸が止まった。


 地上三十メートルの頂上付近。


 タンクの点検用ハッチが、半開きになっている。


 その細い隙間から。


 何十、何百という「人間の手」が、外に向かって蠢きながら伸ばされていた。

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