第4話「迷い子の案内放送」
朝の光が、網膜を白く焼く。
一号棟の影から姿を現したそれは、二階のベランダに届くほどの背丈があった。
半透明の、巨大な鹿。
透き通った体は、水飴のように周囲の景色を歪ませている。
立派な枝角からは、剥がれ落ちる鱗のような光の粒が、とめどなく地面へこぼれ落ちていた。
粒がアスファルトに触れた瞬間、ジュッと微かな音を立てて消える。
登校班の小学生たちが、ふざけ合いながら湊の横を通り過ぎる。
黄色い帽子が、鹿の透き通った前足を、何事もなくすり抜けていった。
誰にも見えていない。
この巨大な異常は、湊の目にしか映っていない。
息を吸い込むことすら忘れる。
動けば、あの無機質な瞳に見つかってしまう。
足の裏がコンクリートに張り付いたように動かない。
『……ザーッ、ピーッ……』
右のポケットが、火傷しそうなほどの熱を持った。
鼓膜を劈くような、鋭い電子音。
それに混じって、あの事務的な声が、これまでにない早口で捲し立てる。
『――迷い子の神、境界を越境。写し世への漏洩を確認』
ノイズが暴れる。
ポケットの上から基板を押さえつけるが、熱は容赦なく掌を焼く。
『……宿を提供せよ。道筋を示せ。さもなくば、この地は常世に呑まれる』
放送が途切れた。
同時に、巨大な鹿が、ゆっくりと首を巡らせた。
向いた先は、四号棟。
湊の家族が暮らす、あのカビ臭い生活の箱。
鹿が、静かに一歩を踏み出す。
蹄に似た足先がコンクリートに触れた瞬間。
ひび割れた地面から、見たこともない極彩色の花が狂ったように咲き乱れた。
毒々しい赤や紫の花弁。
それらは咲いた次の瞬間に枯れ落ち、灰となって風に消える。
一歩、また一歩。
花が咲き、枯れる道を、異形が進む。
このままでは、四号棟が、日常が、あの花の灰のように崩れ去ってしまう。
湊は弾かれたように駆け出した。
鹿の斜め前に飛び出す。
両手を広げ、進行方向を塞いだ。
巨大な頭部が、ゆっくりと見下ろしてくる。
ガラス玉のような、感情の抜け落ちた瞳。
視線が交差した瞬間、氷水に頭まで沈められたような感覚に襲われた。
『……かえり、たい……』
声ではない。
圧倒的な質量を持った思念が、直接脳髄をかき回す。
迷子になった子供の泣き声が、何千人分も重なったような、気の狂うような悲鳴。
膝から崩れ落ちそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。
鹿は湊に興味を失ったのか、視線をすっと外した。
見つめる先は、湊の背後。さらに上空。
振り返る。
鹿が見上げているのは、団地の中央。
朝日に照らされ、赤錆を晒してそびえ立つ、巨大な給水塔だった。




