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団地の裏山の常世門  作者: 伝福 翠人


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第3話「禊ぎの代行者」

 指先を、冷たい流水で何度も擦る。


 石鹸の泡がピンク色に染まっているような錯覚。


 あのコールタールのような黒い澱みの感触が、皮膚の裏側にへばりついて取れない。


 深夜の団地。


 洗面所の鏡に映る湊の顔は、ひどく青ざめていた。


 窓の隙間から、低い唸り声のような音が忍び込んでくる。


 ブゥン、ブゥン……。


 敷地の中央にそびえる巨大な給水塔が発する、ポンプの駆動音。


 普段なら気にも留めないその音が、今は巨大な心臓の鼓動のように聞こえた。


『高天原の出島』


 源さんの嗄れた声が、耳の奥で反響する。


 ここはもう、ただのコンクリートの箱の集まりではない。


 寝不足のまま迎えた朝。


 制服のシャツに腕を通し、カバンを持ち上げる。


 いつものように、作業机の上にあったラジオ修理用のウエス(布切れ)と、緑色の基板をポケットに滑り込ませた。


 玄関のドアノブに手を掛けた瞬間。


『……ザーッ……』


 右のポケットが、微かに熱を持った。


 鼓膜を直接揺らす、あの砂嵐の音。


 湊は動きを止め、息を詰める。


『――四号棟一階、入り口の手すりに付着した「あか」を拭え』


 抑揚のない、気象予報のような事務的な声。


『……言霊を込め、三度。淀みを残すなかれ』


 ノイズが唐突に途切れる。


 直後、上の階からドタバタと小学生が階段を駆け下りる音が響いた。


 日常の音が戻ってくる。


 湊は乾いた唇を舐め、ゆっくりとドアを開けた。


 四号棟の一階。


 入り口の郵便受けの横にある、古い鉄パイプの手すり。


 住人の誰もが触れるその場所に、それはあった。


 一見すると、ただの手垢や泥汚れにしか見えない。


 だが、湊の目には、その部分だけ周囲の空気が歪んで見えた。


 油膜のように虹色に濁り、微かに生臭い息を吐き出している。


 通り過ぎる主婦が、怪訝な顔で湊を見た。


 狂っている。ただの汚れだ。そう自分に言い聞かせる。


 それでも、足はその場から動かない。


 湊はポケットからウエスを取り出し、手すりの「あか」に押し当てた。


 ズン、と。


 肩の関節に、鉛をぶら下げられたような重みが走る。


 雑巾がけ程度の動作。それなのに、泥の沼を全力で掻き分けるような抵抗感があった。


「……っ」


 歯を食いしばり、一回、拭う。


 腕の筋肉が悲鳴を上げ、額からどっと汗が噴き出す。


 ウエスの裏側が、ぞっとするほどの冷気を帯びた。


 二回目。


 視界の端で、団地の輪郭がブレる。


 呼吸が浅くなり、膝がガクガクと震え始めた。


 あの放送の声が、脳裏に蘇る。言霊を込め、三度。


「……消えろ」


 声に出し、三回目を強く擦り付ける。


 パリン。


 耳の奥で、薄いガラスが割れるような音がした。


 腕を縛り付けていた重みが、嘘のように消え去る。


 湊は勢い余って、コンクリートの壁に肩をぶつけた。


 荒い息を吐きながら、手すりを見下ろす。


 濁っていた鉄パイプは、新品のように白銀の輝きを取り戻していた。


 いや、手すりだけではない。


 四号棟の入り口を覆っていた、見えない淀んだ空気の層が、綺麗に晴れ渡っている。


 肺に吸い込む空気が、驚くほど冷たく、甘い。


「……へたくそな禊ぎだ」


 頭上から降ってきた声に、湊は肩を跳ねさせた。


 見上げると、一号棟のベランダから源さんが見下ろしていた。


 手にはあの盆栽鋏。


 老人は鼻を鳴らすと、興味を失ったように部屋の奥へ引っ込んだ。


 冷ややかな評価。


 だが、湊の胸の奥には、確かな達成感が燻っていた。


 自分がこの世界の「歯車」に触れ、少しだけ回したという実感。


 ウエスをポケットにねじ込み、学校へ向けて歩き出す。


 敷地の出口、一号棟の角を曲がろうとした時だった。


 朝の光を背に受けて。


 巨大な、見上げるほどに巨大な「鹿のような影」が、一点をじっと見つめて立っていた。

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