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団地の裏山の常世門  作者: 伝福 翠人


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第2話「鋏の音と隠り身」

 指先から数ミリ。


 黒い粘体が、明確な意志を持って膨らんだ。


 ドクン。


 湊の心臓の拍動と、完全に重なるリズム。


 鉄錆の匂いが不意に濃くなり、咽喉の奥を焼く。


 コールタールのようなそれは、壁と床の境目を這い上がり、湊の指先へ向かって蠢き始めた。


 引かなければ。


 頭では分かっているのに、肩から先の感覚がごっそりと抜け落ちていた。


 足が床に縫い付けられたように動かない。


 粘体の表面に、無数の小さな気泡が浮かび上がり、弾ける。


 そのたびに、微かな、しかし耳障りな音が響いた。


 裏山の祠で聞いた『あまのさざめき』と同じ、ノイズの束。


 息ができない。


 黒い波が、爪先に触れる。


――チャキ。


 背後の暗闇から、乾いた金属音が響いた。


 硬質な、何かが噛み合う音。


 その一音で、空気を重くしていた生臭い圧力が、嘘のように霧散した。


 眼前の黒い澱みが、ビクンと痙攣する。


 次の瞬間、それは燃え尽きた紙のようにボロボロと崩れ落ち、ただの灰色の粉となってコンクリートの床に散らばった。


 鉄錆の匂いが消える。


 夜の団地の、カビの混じった冷たい風が吹き込んできた。


 湊は弾かれたように振り返る。


 三階への階段を上りきった所に、人影が立っていた。


 緑色の非常灯に照らされた、見覚えのあるよれたジャージ姿。


「……源さん」


 掠れた声が漏れた。


 一号棟の角部屋に住む、偏屈な老人。源十郎。


 いつも一階のベランダで、背中を丸めて盆栽をいじっている男だ。


 今の彼に、老人の脆弱さは微塵もない。


 深く刻まれた皺の奥で、眼光だけが獣のように鋭く光っている。


 源さんの右手には、使い込まれた黒鉄の盆栽鋏が握られていた。


 刃先が、非常灯の光をぬらりと反射する。


「素人が、素手で触ろうとするたぁな」


 しゃがれた声が、踊り場の静寂に響く。


 源さんはゆっくりと階段を上り、湊の脇を通り過ぎた。


 床に散らばった灰色の粉を一瞥し、鼻を鳴らす。


「見えねえふりをしてりゃ、まだ戻れたものを。よりによって『耳』を開きやがったか」


「耳……?」


 湊は無意識に、ポケットの中の基板を握りしめた。


 緑色のプラスチックが、じっとりと汗で濡れている。


「何が、起きたんだ。あれは、なんだよ」


 問いかけながら、後ずさる。


 理解の範疇を超えた出来事を、脳が全力で拒絶していた。


 これは夢だ。疲れているだけだ。ラジオのいじりすぎで、幻覚を見たんだ。


 源さんは湊の怯えなど意に介さず、踊り場の窓枠に肘を突いた。


 顎で、外の景色をしゃくる。


 湊は恐る恐る窓に近づき、外を見た。


 夜の団地。


 同じ形をした棟が、墓標のように整然と並んでいる。


 その中央、巨大な給水塔が、水銀灯の光を受けて不気味なシルエットを描いていた。


「よく見とけ、小僧」


 源さんが、盆栽鋏の刃先で窓ガラスを小突く。


 カチン、という音が、ひどく遠くに聞こえた。


「ここはただの団地じゃねえ。高天原の出島だ」

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