第12話「新しい朝のさざめき」
カーテンの隙間から、容赦なく朝の光が差し込んでくる。
まぶたの裏が赤く透け、湊はゆっくりと目を開けた。
四号棟、三階の自室。
天井の隅にある小さなシミ。机の上に散らばったままの工具箱。
鼻をすすると、台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。
布団から這い出し、ベランダのガラス戸を開ける。
むわっとした初夏の空気が、カビとアスファルトの匂いを運んできた。
広場の中央には、巨大な給水塔がそびえ立っている。
白銀の輝きなど欠片もない。剥がれかけたペンキと、無骨な鉄骨を赤茶色の錆が覆う、いつもの見慣れた姿だった。
下の階から、出勤するサラリーマンの革靴の音が響く。
集積所へゴミ袋を運ぶ主婦たちが、立ち話をしていた。
「……なんか昨日の夜、すっごく変な夢見たのよね」
「あら、私もよ。団地ごと空飛んでるみたいな……変な寝汗かいちゃった」
笑い合う声が、朝の空気に溶けていく。
誰も、あの眩い光も、紅い雨も覚えていない。
すべては「変な夢」として、分厚いコンクリートの壁の向こう側へ押しやられていた。
湊は制服に着替えることもせず、部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、一号棟へ向かう。
角部屋のドアは、鍵もかかっておらず、あっさりと開いた。
玄関で靴を脱ぎ、恐る恐る奥の和室へ足を踏み入れる。
誰もいなかった。
老人の姿も、部屋を埋め尽くしていたあの不気味な羊歯のジャングルも。
ただ、生活の匂いがすっかり抜け落ちた、清潔でひどく寂しい畳の部屋があるだけだ。
源さんは、あの折れた鋏と一緒に、常世の隙間へ落ちてしまったのだろうか。
窓際の縁側に、一つだけ小さな植木鉢が残されていた。
土の表面から、鮮やかな緑色の「芽」が、二葉だけ顔を出している。
湊はしゃがみ込み、その小さな命をじっと見つめた。
型で縛り付ける盆栽ではない。これからどんな形に育つかもわからない、ただの植物の芽。
老人が残した、写し世へのささやかな贈り物のように思えた。
一号棟を後にし、団地の敷地の外れ、裏山へ向かった。
斜面にへばりつくように建つ祠。
鳥居は相変わらず腐りかけ、注連縄は千切れたままだ。
木々の間を吹き抜ける風が、ざわわざわわと葉を揺らす。
もう、耳鳴りがするようなあの不自然な静寂はなかった。普通の、ただの古い山だ。
湊はポケットから、粉々に砕けた緑色のプラスチックの破片を取り出した。
あの時、手のひらの中で弾け飛んだ基板の残骸。
祠の根元の土を少しだけ掘り返し、破片をそっと埋める。
泥だらけの手を合わせ、目を閉じた。
もう二度と、あの『あまのさざめき』を聞くことはないのだろう。
狂おしいほどの恐怖と、同時に感じていた世界の歯車に触れるような高揚感。
そのすべてが失われたことへの、ぽっかりと穴の開いたような寂寥感が胸をよぎる。
目を開け、膝についた土を払って立ち上がった。
振り向いて、団地を見下ろす。
同じ形の箱が、無数に並んでいる。
煤けていて、錆びついていて、どうしようもなく泥臭い、俺たちの世界。
風が吹いた。
『……ザーッ……』
湊はピタリと足を止めた。
右のポケットには、もう何もない。
しかし、耳の奥で、いや、肌を撫でる風の音に混じって、確かに微かなノイズが鳴った。
砂嵐の奥から、くぐもった声が浮上してくる。
神々しくもなく、冷酷でもない。
町内会のスピーカーから流れるような、ひどく平凡で事務的な声。
『――明日の可燃ゴミの回収は、平常通り行われる』
湊は息を呑み、そして、ゆっくりと口角を上げた。
『……四号棟、三階。廊下の蛍光灯がまもなく切れる。足元に注意せよ』
基板はもう必要なかった。
この世界そのものが、かすかな息遣いとともに、湊に語りかけてきている。
それは高天原からの命令ではなく、写し世の神々がささやく、愛おしい日常の確認作業だった。
「……ああ、わかったよ」
湊は青空に向かって短く答え、足取りも軽く、カビ臭い四号棟への帰路についた。




