第11話「写し世の矜持」
白銀の光が、網膜を焼き尽くそうとしていた。
宙に浮き上がった団地全体が、巨大な釣鐘の中で鳴動している。
右のポケットに突っ込んだ手が、焼け焦げるように熱い。
握りしめた緑色の基板から、プラスチックの溶ける異臭が立ち昇っている。
指先の皮膚が水ぶくれになり、破れる感覚。
それでも、湊は絶対に手を離さなかった。
『……帰還せよ。門番よ、縁を断ち切れ』
脳髄を直接揺らす、美しく冷酷な声。
意識が白く飛んでしまいそうになる。
力を抜いて、この光に身を委ねてしまえば、どれほど楽になるだろうか。
永遠の平穏。穢れのない世界。
奥歯を噛み砕くほどの力で、顎を食いしばる。
口の中に、生温かい血の味が広がった。
倒れ伏した源さんの、掠れた声が耳の奥にへばりついている。
己の言葉で、縁を結べ。
高天原の光には、汚れがない。
純白で、完璧で、隙がない。
だからこそ、この世界を地に繋ぎ止めるための「重り」が必要なのだ。
湊は、血の混じった唾を吐き捨て、喉の奥から声を絞り出した。
「……四号棟の、階段の……カビの匂い」
掠れた声は、地鳴りに掻き消されそうになる。
構わず、基板を握る手にさらに力を込めた。
「夕飯時の、焦げた秋刀魚の煙。……三階の踊り場にある、自転車の錆」
言葉が唇から滑り落ちるたび、それは黒い鉛の塊となって、白銀の空間にドスリと沈み込んだ。
「赤ん坊の泣き声。むせるような老人の咳。……雨の日の、湿った泥の匂い!」
叫ぶ。
薄汚れていて、退屈で、それでも確かに自分が呼吸してきた「生活」の全てを。
神々が忌み嫌い、切り捨てようとした「写し世の美しさ」を、一つ残らず言霊として空へ叩きつける。
手の中の基板が、狂ったようなノイズを撒き散らした。
白銀に輝いていた給水塔の表面に、インクをこぼしたような黒い染みが急速に広がっていく。
『――不浄。不浄。門番よ、何故、地に泥を塗る』
巨大な声が、初めて明らかな「戸惑い」の響きを帯びた。
湊は笑った。
血まみれの唇を歪め、空に向かって吠える。
「俺たちが生きているからだ。ここは、俺たちの箱だ!」
次の瞬間。
空気を満たしていた眩い光の束が、バチン、と音を立てて千切れた。
神聖な上昇気流が消滅する。
代わりに、空から真っ黒な泥水と赤錆の雨が、滝のように降り注いだ。
フワリと浮いていた五つの巨大なコンクリートの塊が、完全に重力を取り戻す。
内臓が浮き上がるような、落下感覚。
空気が一気に圧縮される。
ズッッッドォォォン……!!
天地を裏返すような凄まじい轟音が、ひばりヶ丘団地を揺らした。
引き抜かれていた基礎が、元の場所へと乱暴に叩きつけられる。
アスファルトが砕け散り、巨大な土煙が広場を飲み込んだ。
湊の身体が宙に跳ね飛ばされ、泥水の中へ激しく転がる。
パキン。
手の中で、限界を超えた緑色の基板が、粉々に砕け散った。
脳を支配していた声が、ノイズが、鈴の音が、完全に消え失せる。
舞い上がった土煙が、ゆっくりと晴れていく。
赤く染まっていた空は、いつの間にか、見慣れた鈍色の夕焼けへと変わっていた。
耳が痛くなるほどの、静寂。
倒れた湊の耳に、遠くのスピーカーから、間延びした音が届いた。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
それは、五時のチャイムだった。




