第10話「高天原の呼び声」
真っ二つに折れた盆栽鋏が、泥水に沈んでいく。
金属が泥を打つ鈍い音が、耳の奥でいつまでも反響していた。
紅い雨が止んだ。
狂ったように吹き荒れていた霊圧の嵐が嘘のように凪ぎ、団地を覆っていた茜色の霧が急速に薄れていく。
息苦しいほどの鉄錆の匂いが消え、代わりに、氷のように冷たく澄んだ空気が肺を満たした。
源さんが、糸の切れた人形のようにアスファルトへ崩れ落ちる。
おかっぱ頭の少女をはじめとする帰還者たちも、彫像のようにピタリと動きを止めていた。
静かすぎる。
湊は這うようにして源さんに近づき、その細い肩を揺すった。
反応はない。呼吸はひどく浅く、体温は石のように冷たくなっていた。
勝ったのか。
いや、違う。
首筋を、撫でるような悪寒が這い上がってくる。
広場の中央。
赤黒く煮えたぎっていた給水塔が、不気味なほどの変貌を遂げていた。
どす黒い色は完全に抜け落ち、目も眩むような白銀の光を放っている。
剥がれたペンキも、無骨な鉄骨も、全てが磨き上げられた純銀のように輝き、神聖な気配を撒き散らしていた。
頂部のハッチから前足を出していた『迷い子』の姿はない。
異形すらも呑み込み、依り代は完全に「完成」してしまったのだ。
『キィィィィン……』
右のポケットから、鼓膜を突き破るような高周波が鳴り響いた。
湊は思わず両耳を塞いで蹲る。
いつもの砂嵐ではない。基板そのものが共鳴し、発光している。
やがて、その痛みを伴うノイズがスッと途切れた。
代わりに響き渡ったのは、この世の誰よりも美しく、そして絶対的な冷酷さを孕んだ声だった。
耳からではなく、白銀の給水塔から、空から、団地のコンクリートそのものから鳴動している。
『――出島、ひばりヶ丘。これより高天原へ帰還せよ』
空気が震える。
巨大な釣鐘の中に閉じ込められたような、圧倒的な音圧。
『……写し世の縁を断ち、空の階を登れ』
声が宣告した直後。
ズズズン、と、地の底から腹の底を揺らすような重低音が響いた。
足元のアスファルトが、メシリと音を立ててひび割れる。
地震ではない。
一号棟から五号棟まで。巨大なコンクリートの箱が、一斉に悲鳴を上げたのだ。
建物の根元、地中に深く埋まっていたはずの基礎が、見えない巨大な手で引き抜かれるように、バリバリと土を跳ね除けていく。
一センチ、五センチ、十センチ。
団地そのものが、重力を失ったように宙へ浮き上がり始めた。
ひび割れた大地の裂け目から、星空を濃縮したような眩い光が溢れ出す。
各棟の窓に明かりが灯った。
ベランダに出た住人たちが、誰一人として悲鳴を上げず、ただ恍惚とした表情で眼下の光を見下ろしている。
彼らはもう、恐怖すら奪われ、神々の箱舟に乗ることを受け入れていた。
湊の家族も、きっとあの光の中で微笑んでいる。
「ふざけるな……」
絞り出した声は、地鳴りにかき消された。
家族も、このカビ臭い団地も、誰の記憶にも残らずに空へ消えてしまう。
そんな理不尽な昇天を、認めるわけにはいかなかった。
立ち上がろうと、足を踏ん張る。
眩い光に包まれていく広場の中で、湊の足元だけが、まだ薄汚れた泥とコンクリートのままだった。
彼はまだ、人間としてこの世にへばりついている。
右手に握りしめた緑色の基板。
『門番』として繋がってしまったこの回路を通じて、高天原の圧倒的な光が湊の意識を焼き尽くそうと迫る。
膝が折れそうになった、その時。
『……縁を、結べ』
消え入るような、嗄れた声。
振り返ると、倒れ伏した源さんの唇が、微かに動いていた。
『……お前の言葉で、この重てえ鉄の箱を……地に縛り付けろ』




