第1話「夕暮れのノイズ」
ひばりヶ丘団地の四号棟は、いつも微かなカビの匂いがする。
コンクリートの壁には無数のひび割れが走り、夕日が当たるたびに錆びた鉄筋が赤黒く透けて見えた。
湊は階段に座り込み、手元の緑色の基板を無意識になぞる。
銅箔の幾何学模様。
トランジスタの冷たい感触。
それは、世界で唯一、彼だけが理解できる規則正しい森だった。
どこかの階から、焼き魚の焦げた匂いが漂ってくる。
赤ん坊の泣き声。
むせるような老人の咳。
同じ箱がいくつも重なったようなこの場所では、他人の生活音が耳の奥にへばりついて離れない。
息が詰まる。
湊は基板をポケットにねじ込み、立ち上がった。
足は自然と裏山へ向かっていた。
団地の敷地の外れ、斜面にへばりつくように建つ朽ちかけた祠。
鳥居は根元から腐りかけ、注連縄は千切れてだらりと垂れ下がっている。
祠に近づくにつれ、背後で騒がしかった団地の生活音が、泥水に沈んでいくように遠のいた。
風が止む。
木の葉一枚揺れない。
耳鳴りがするほどの静寂。
肌が粟立つ。
これ以上近づけば、何かが決定的に狂ってしまう。
背筋を撫で上げるような悪寒が、足を止めさせようとする。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
夕暮れを告げる五時のチャイムが、遠くのスピーカーから間延びした音で響いた。
その音が引き金だった。
ポケットの中の基板が、微かに震えた。
湊は息を呑み、それを手のひらに取り出す。
電源は入っていない。スピーカーすら繋がっていない、ただの回路の残骸。
『……ザーッ……』
耳の奥、いや、頭蓋骨の内側を直接撫で回すようなノイズ。
砂嵐の音。
何かが無数に擦れ合うような、微細なノイズの束。
湊は基板を落としそうになり、慌てて両手で包み込んだ。
金属の冷たさが指先から逃げていく。
ノイズの奥から、くぐもった声が浮上してきた。
抑揚のない、町内会の事務連絡のような声。
『――四号棟、三階。踊り場の澱みを濯げ』
肺に空気が入ってこない。
瞬きすら忘れて、緑色の基板を凝視する。
『……繰り返す。日の昇らぬうちに、禊を了せよ』
声はそこでプツリと途絶えた。
途端に、裏山の木々が一斉にざわめき出し、団地の生活音が堰を切ったように鼓膜へなだれ込んでくる。
手の中の基板は、ただの冷たい部品に戻っていた。
汗が顎を伝い、地面に落ちた。
日が完全に落ち、団地は水銀灯の青白い光に沈んでいた。
湊は四号棟の階段を一段ずつ上る。
三階への踊り場。
普段なら、見慣れた灰色のコンクリートが広がっているだけの場所。
息を詰める。
足音が異常に大きく響いた。
踊り場の隅。
消火栓の赤い箱の陰に、それはあった。
アスファルトにこぼれたコールタールのような、粘り気のある黒。
墨を流したようなその影は、壁と床の境目にへばりついている。
鼻腔を突く、鉄錆と生臭さが混ざったような異臭。
幻覚ではない。
確かにそこにある。
湊は引き寄せられるようにしゃがみ込み、震える指先をその黒い染みへと伸ばした。
指先が触れる直前。
ドクン。
黒い澱みが、心臓のように脈打った。




