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1日1回、『婚約破棄』するアホ婚約者

作者: 千秋 颯

 私の婚約者ロイク・フェリクス・ドゥ・レセトゥール王太子殿下は非常に優秀な方だ。

 剣術大会では常に首位を維持し、学園の成績も彼の名は必ず上位にある。

 それに加えて誠実で人当たりが良く、人望に厚い。おまけに彼は異性の目を奪う程の美貌を持っていた。

 天は二物を与えないなんていう言葉は嘘だと証明する為にいるような存在。

 そんな彼の優秀さは国王陛下にも認められ、第二王子という立場でありながら王太子として指名された。


 物心つく前から決められていた婚約であったが、私は婚約相手の彼に不満を抱く事は殆どなかった。

 婚約のきっかけは政略ではあったが、私達は幼い頃から時間を共にする過程で段々と仲を深め、やがて恋慕の相手として惹かれ合っていった。




 或る日の昼。

 学園の休日に、私達は王宮の庭園でのんびりと過ごしていた。

 バラ園の前に配置されたベンチに腰を掛け、私は膝の上に本を広げていたロイク様の肩に寄り掛かる。

 麗らかな日差しに見守られる内、私はやがて転寝を始めてしまった。


 ロイク様はそんな私を起こす事もせず、長い間じっとしていたらしい。

 やがて私の意識が浮上し始めた頃。ロイク様は私の頬を指で撫でてはにかんだ。


「も、申し訳ございません。私ったら」

「構わないよ。今日は天気もいいし、眠りたくなる気持ちもよくわかる。それに……」


 ロイク様は甘い微笑みを向けたまま言う。


「普段凛としている君の、可愛らしい寝顔を見れたからな」

「な……っ、んんっ」


 直接的な口説き文句に狼狽えてしまった私は動揺を隠すように咳払いをする。

 ロイク様は素直に……というか、大袈裟に、私へ愛の籠った言葉を紡いでくれる。

 一方で私は彼のように自分の想いを大っぴらにする事は出来なくて、いつも可愛げのない態度を取ってしまうのだ。


「意地の悪い方」

「寝かしてあげていたのに?」

「……冗談ですわ」


 この先、肩を借りることが出来なくなっては困ると、私は前言を撤回する。

 ロイク様は声を上げて笑った。


「――レティシア。君の隣はすごく居心地がいいんだ。明日も明後日も……ずっと、一緒に居てくれ」

「ご心配なさらずとも、婚約関係にある以上私からロイク様のお傍を離れる事はありませんわ。あるとすれば尊き立場にあられるロイク様や、陛下の決定によるものでしょう」

「そんな事する訳ないだろう?」

「わかっていますわ」


 ですから私達はずっと一緒なのです、と続ける。

 するとロイク様は一度は不満げにした顔に再び笑顔を咲かせた。


 これが、私達の関係。

 私達の日常だった。

 しかしそれもこの日限りの事だ。


 翌日、この日常は唐突に崩れ去った。

 ――阿呆になってしまったロイク様のせいで。




「婚約を破棄して欲しい」


 翌日。公爵邸のテラスでお茶を飲んでいた私は、対面に座るロイク様の言葉を聞いて思わずカップを落としそうになった。


「今、何と……?」

「婚約を破棄して欲しい」


 聞き間違いを疑い、念の為と聞き返すも、全く同じ言葉が戻って来た。

 私は動揺したが、深呼吸する事で何とか気持ちを整える。

 落ち着くのよレティシア、と自分に言い聞かせた。


 昨日までの私達は間違いなくラブラブだった。

 ラブラブのいちゃいちゃカップルだったはずだ。

 ロイク様に比べて、私の反応は素直ではなかったかもしれないが、それは十年以上に渡る時間で共通している事。昨日急に婚約を破棄するという判断になるような要因ではないだろう。


 と、ここまで考えたは良いが、彼が何故婚約破棄を申し出たのか、その理由については皆目見当もつかない。

 わからなければ謝罪も説得も、改善もできない。

 仕方なく、私は恐る恐る彼へ聞いた。


「一体、私の何が至らなかったのでしょうか」

「そんな事も分からないのか」

「は、はい」


 返事の際に、少しだけ声が震える。

 どうやら彼にとっては当然と言い張るような理由であるようだった。


「いいか。それはな」

「それは……?」


 私は腹を括り、ロイク様をじっと見つめる。

 そして彼は真剣な面持ちのままこう言ったのだ。


「君が淹れるお茶は、あまりおいしくないからだ」

「………………はい?」

「君が淹れるお茶は、あまりおいしくないからだ」


 自分の耳を疑い、真っ白になった頭に容赦なく同じフレーズを叩きつけるのはどうかやめて頂きたい。

 とにかく、訳の分からないというか、しょうもないというか……そんな理由をロイク様は二度述べたのだ。


「……何を仰っているのですか?」

「君のお茶は」

「ああ、もう、そうではございませんわ。私が言いたいのは、何がどうなればそれが婚約破棄に至るだけの理由になるのかという事です。私は公爵令嬢。お茶は基本使用人に入れさせています。確かに、ロイク様には何度も淹れましたし、私自身もそれが渋……そこまで美味しくはない自覚はあります。けれどそもそも公爵令嬢としても、未来の妃としても、この技術は会得する必要がないはずです」

「で、でも……俺は婚約者が淹れる上手い茶が飲めないと嫌だ」


 「な~~~~にを言っているんですこのお方はっ!?」と叫ぶのは心の中に留める。

 昨日までとはあまりに異なるロイク様の様子には翻弄されるしかなかったが、ここではいそうですかと折れる訳には勿論いかない。

 そもそもこんなふざけた話を切り出すに至った理由が彼にはあるはずなのだ。

 ある……はずなのだが。普段のロイク様の言動とはあまりに掛け離れた発言はどうにも彼には結びつかず、私は内心で頭を抱えた。


 考えるのよ、レティシア。彼がこのような発言に至った経緯を導き出すの。

 そう言い聞かせ、頭を働かせた時。

 私の脳裏で昨日の庭園での記憶が過る。

 ロイク様はあの時、本を読んでいた。

 目を通していたのは私が勧めた最近流行りのロマンス小説――『婚約破棄もの』という新ジャンルの一つ。

 その名の通り、婚約を結んでいた男女どちらかが婚約破棄を申し出ることで物語が進行していく話だ。


 そこまで思い出した時、私の中に一つの仮定が生まれる。

 ――この方……ものすごく小説に影響されているのでは?


 元のロイク様は阿呆ではない。

 しかし素直で純粋な節はあった。

 そんな彼は私が好んでいる小説を読み、自分自身も楽しんだ後……私と小説の中の世界観を共有してみたいのだとしたら。

 これは一種のコミュニケーションであり、遊びのつもりなのだとしたら。


 普段ならばこのような考えも抱かないのだが、如何せんもう一つの可能性が『本気で婚約破棄を考えている』というもの。

 真剣な顔を作り続けているロイク様には悪いが、その線はないだろうと私は踏んだのだ。


 とはいえ、正直私にとっては面白くも何ともないごっこ遊びだった。

 私は本当にロイク様を愛している。そしてロイク様が私を愛してくださっている事も知っている。

 その気持ちを遊び道具のように弄ばれているような心地がしたのだ。


 だから私は――「『婚約破棄もの』ジャンル鉄板の反応はしてやらない」と心に決めた。

 私は笑顔を貼り付けてこう言う。


「ロイク様は、私が淹れるお茶が美味しくないから婚約を破棄したいのですね」

「ああ。そう言っている」

「では……私が、美味しいお茶を淹れられるようになれば婚約を破棄する理由はなくなりますわね?」

「え?」

「そういう事でしょう? ロイク様がおっしゃっているのは」

「あ、ああ……うん、そうだ」

「畏まりました。では……明日、ロイク様を納得させるだけのお茶を振る舞わせていただきますわ」

「え? あ……レティシア……!?」


 私は席を立つと颯爽とその場を去った。

 そして即帰宅し、使用人を搔き集めて茶を淹れる特訓を重ねた。




 翌日。

 学園の昼休憩に屋外のテラスを借りた私はロイク様を座らせて、お茶を振る舞った。

 彼は渋い顔をしながらカップに口を付ける。

 直後。その目が見開かれたのを確認した私は勝利を確信した。

 ロイク様は公務が絡んだ場では上手く感情を隠せる癖、私と二人きりの時は思っていることを顔に出しやすかった。


 自分の考えが漏れていたことに本人も気付いていたのだろう。

 彼は咳払いをして私から目を逸らした。


「まあまあだな」

「少なくとも不味くはありませんよね? では婚約破棄の件はなかったことに」

「いいや」


 すかさず挟まれた否定に、お茶の味へ難癖が付けられるものと私は考えていた。

 しかしロイクが言い始めたのはお茶とは全く別の事だ。


「君は俺より歩くのが遅い。俺は俺と並んで歩いてくれる女性でないと許容できない」

「ロイク様は男性の中でも長身である事をご理解ください」


 ロイク様は身長が高く、足も長かった。彼と同じ歩幅、速度であるから女性などどこにいるというのだろう。

 それを理解していたからこそ、ロイク様は私と共に歩く時、必ず私の歩く速度に合わせてくれたし、手を握ってエスコートもしてくれていたというのに。


 私は神妙な面持ちのロイク様を見据えた。


「そうですか。私はご迷惑をお掛けしておりましたか」

「……ああ」


 例えごっこ遊びであったとしても否定くらいして欲しかったものだ。

 私は社交界で鍛え抜いた作り笑いを顔に貼り付けて頷く。


「わかりました。では今からお好きに行動なさってください。私は必ず、貴方の隣から離れないよう努めます」

「え?」

「さあ早く」


 こうして私達の昼休憩は、王族と上級貴族に有るまじき競歩大会によって潰れる事となった。

 ずんずんと真顔で廊下を突き進むロイク様と、息が上がりながらも笑顔を崩さず真横に引っ付く私。


「お二人ともあんなに急がれてどうなされたのかしら」

「相変わらず仲がよろしい事」


 そんな声が聞こえ、貴女達の目は節穴なのかと問い質したくなった。

 しかしそうするだけの余裕はなく、仕方なく口を噤む。


 さて、暫く競歩していると、足が痛くなってくる。

 私はヒールのある靴を履いているのだから当然だ。

 しかし足を気遣えば、ロイク様はあっという間に距離を離すだろう。

 そう考えた私は意を決し、靴を脱ぎ捨てた。


 靴を床へ捨て、裸足でロイク様の横を歩く私。

 その様子を見たロイク様がギョッとした。


「な、何をしているんだレティシア!?」

「競歩……いえ、ただの歩行ですが」

「ただの歩行で裸足になる公爵令嬢がどこにいるというんだ! 早く靴を履いてくれ、怪我をする前に」


 そんな事を言うくせにロイク様は足を止めようとはしない。

 ならば私も止まる訳にはいかない。


「い・や・で・す♡ 婚約を破棄されるような無能ではないことを証明しなければなりませんから」


 そう答えれば、ロイク様は顔を顰めた後、渋々足を止めた。

 そして私を抱き上げると靴があった場所まで移動し、わざわざ履かせてくれた。

 とても、くだらない理由で婚約破棄をしようとする男の行動には思えない。


「もう二度とこんな事はしないように」

「では、私を認めて頂けますか」

「今日のところはそれでいいから」


 今日のところは、という事は明日は同じ事が行われる訳である。

 靴を履かせてくれる彼の優しさに機嫌が直りつつあった私の頭はすぐに冷めてしまった。




 こんなくだらないごっこ遊びは、最初はどれだけ長くとも数日くらいで終わるものだと思っていた。

 だからロイク様の気が済むまで付き合ってあげた後、嫌味をぶつけてチャラにしようと考えていた……のだが。

 結果として、一ヶ月が経過してもロイク様の婚約破棄宣言は繰り返される事となった。


「君は剣が振るえない。よって婚約を破棄する。俺と添い遂げる女性は同じように強く在ってくれなくては」

「では今日から練習してきますわ! まずは剣を買って参ります。ゆくゆくは剣術大会へも出て――」

「やめてくれ! 怪我をしたいのか!?」



「剣はもういい。だが婚約破棄は撤回しない。自分の身も守れないような女性では」

「衝撃を弾き飛ばせる魔法の鎧を買いました! 何と服の下から身に付けられます。歩きが随分とぎこちなくなるのと、私の重量は大幅に増加していますが」

「鎧を身に付けて社交界に現れる令嬢がどこにいるというんだ……!? 返してきなさい」

「ロイク様は服の内側に着るこのタイプと、あとはこのビキニアーマー? とやら、どちらがお好みで――」

「返してきなさいっ!!」



「今度こそ婚約を破棄する。俺の好みの格好をしてくれない女性は――」

「実は、侍女に教わって百種の髪型のパターンを会得しましたの。今から披露しますからどれがお好みか申し上げてください」

「……」

「……全部良いと思っているのなら、素直に申し上げてくださっていいのですよ」

「ク……ッ」




 このような、不毛なやり取りを一ヶ月も繰り返せばロイク様を愛する私とて気疲れの一つや二つはしてしまう。

 しかし同時に、『ある疑問』が浮かび始めていた。

 授業を受けていた私が長い溜息を吐いたその時。私は教壇に立つ講師から指名され、教科書を読み上げる事になった。


「古代魔導具とは、歴史ある建造物などから見つかる特別な魔法の力を秘めた道具の事である。通常の魔法は魔力を消費する事で使用できることに対し、古代魔導具は魔力以外から力を還元するという」


 小難しい文章を読む私の声はあくまで淡々としていて、また私の顔に浮かべた作り笑いも崩れる事はない。

 けれど私の頭の中はロイク様の事でいっぱいだったし、彼へ対する腹立たしさも大きく膨らんでいた。


「例えば、我が国の王宮内に厳重保管された三つの魔導具。『実現の筆』は使用者の寿命を吸うことで描かれたものを実体化させ、『時巡りの時計』は過去へ遡れる代わりに使用者の幸福を奪って不幸にする。『予知夢の鏡』は――」


 私が指定の範囲を読み上げると、講師は「はい、ありがとう」という声と共に授業を進める。

 私はゆっくり席に座り、黒板を眺める。

 しかしいつまで経っても考えるのはロイク様の事ばかり。

 授業には全く集中できなかった。




 私達は元々、仲睦まじい婚約者として有名だった。

 けれど最近のロイク様の言動のお陰で、不仲になったのではなどという噂が立ち始めていた。


「聞きました? 一ヶ月前の泥棒騒動、まだ解決していないようですわ」

「ええ。王宮へ潜り込むなど、随分な命知らずがいたものですね……レティシア様もそうは思いません?」

「え? あ……ええ」


 昼休憩の時間になっても席でぼんやりとしていた私へ、同級生が声を掛けて来る。

 不意を衝かれて我に返るも、同級生たちの話を聞いていなかった為にぎこちない返事を返す事しかできなかった。


「レティシア様、ご気分が優れないのですか? 最近、お元気がなさそうで」

「もしかしてロイク殿下と何かあったのですか?」

「い、いいえ。彼は最近妙な遊びに興じているけれど……喧嘩をしたとかではないのよ」

「遊び?」


 目を丸くする同級生たちへ笑い掛けて誤魔化しながら、私は席を立つ。

 昼休憩は毎日ロイク様と会っている。今日もその約束があった。

 けれど、足取りは重い。


 いつもよりゆっくりな歩幅で進みながらレティシアは屋外テラスへ辿り着いた。

 ロイク様の背中が見えるも、声を掛けるのを躊躇する。

 しかしロイク様は剣士としても優れていた為、私の接近に気付いてすぐに振り返った。

 そんな彼の顔を見て私は驚いた。


 長く抱えた苛立ちとストレスで、私自身上手く笑えているかはわからないと考えていた。

 けれど、それよりも明らかにひどい顔がそこにはあったのだ。

 疲れ切って虚ろな瞳と、目の下に刻まれた隈。

 彼が憔悴している事がありありとわかる。


 ロイク様はそんな自分の状態には目も呉れず、私を見たまま口を開く。

 次に聞くだろう言葉はもう知っている。

 だから私はそれを遮った。


「ロイク様」


 胸が軋んで、目頭が熱くなる。

 彼が弱っている理由はわからないが、彼がそうなっている現状に酷く胸が痛んだ。


「……触れてもよろしいですか」


 この頃には、一ヶ月の間に生まれていた『ある疑問』は確信に変わっていた。

 ロイク様は驚いたように目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。

 私はロイク様の胸へ飛び込み、その体をしっかりと抱きしめる。

 私達は暫く何も言わなかった。

 互いの温もりに浸って緩やかに流れる時に身を任せる。


 そうしてから漸く、私は口を開いた。


「どうして、婚約破棄だなんて言うのですか」


 ロイク様は答えない。

 想定内の反応であった。だから私は続ける。


「最初は小説に影響されたとか、ちょっとした悪ふざけとか、そういう風に思っていました。けれど……途中から思ったのです。『もしかしたら本当に婚約を破棄したがっているのではないか』と」


 ロイク様は決して阿呆ではない。

 聡く、優しい人だ。

 時折お調子者な姿が見える事もあるが、私が嫌がることは決してしないし――ましてや、一ヶ月も結婚破棄を求めるような事はあり得ない。

 そして彼は……殊更、私の事において、素直で嘘が付けない質だった。


 だから私は考えた。

 彼は婚約破棄を本当にしたがっていて、けれど私の事を好いてくれているからこそ、嫌いだと言い張る要素が欠落していて――あのようなふざけた主張しかできなかったのではないかと。


「私は決して頷きません。けれど……貴方が何か悩んでいるというのなら、解決する方法くらい、一緒に考えますから。だからどうか……」


 それ以降は言葉にはならなかった。

 ここに至って漸く、私は私が思っているよりも彼が口にする『婚約破棄』という言葉が堪えていたらしい事に気付いた。


 ロイク様は暫く黙り込んだ。

 そしてゆっくり私の髪を撫でてから囁く。


「……今日の夜は、家から出ないで欲しい」


 意図の分からない言葉だった。

 けれど彼のその言葉が――私の助力を必要としていないものである事だけはわかる。

 それを聞いた私はゆっくり彼から離れる。

 ロイク様は私から目を逸らし、わきを擦り抜けて去って行く。

 その足取りは覚束なく、虚ろな目はぼんやりと遠くを見ていた。


 私は彼の背中が消えるのを見送ってから肩を震わせた。


「……ふ~~~~~~~ん」


 笑顔を顔に貼りつけつつも、溢れるのは怒りだ。

 私は顔の血管が浮き上がるのを感じた。


 私は言葉を尽くした。自分の想いを伝えた。

 だが彼には必要がないものらしく……彼は一人で悩みを抱え込みたいようであった。


「そういう事なら、こちらだって好きにさせてもらうわ。生憎私はお利口には出来てな――」


 早口で独り言を吐き捨てていた私はすぐにロイク様を追おうと一歩踏み出す。

 その時だった。

 地面に落ちていた何かが爪先に当たった。

 懐中時計だ。

 随分と年季の入ったそれは恐らくロイク様が落とした物だろう。

 彼が落とし物に気付かなかったのはそれだけ疲弊しているという事の裏付けのようにも思えた。


「……時計?」


 私は不思議に思ってそれを拾う。

 ロイク様が普段愛用している物とは、型が異なっていたのだ。

 彼が普段使いしている時計は彼の誕生日に私が送ったもの。

 それに比べて私が拾った時計は随分複雑な仕組みで、大昔の時計と似た構造をしていた。

 また、示している時刻はあまりにも出鱈目だった。

 誤った針の位置に違和感を覚えた私はゼンマイに触れるが、それをいじるよりも先に時計に刻まれた細かな文字に気付く。


 削られた細かな模様に紛れて、日常生活では凡そ見られないような言語が削られている。

 私はそれが何かを知っていた。何故なら日常生活では使わずとも、学園の授業では度々見掛けていたから。


「――古代文字……っ!」


 古代で用いられた言語。これが刻まれている道具は特別な道具である可能性が高い。

 私は記憶を手繰り寄せる。

 授業で見た図解や、文章によって羅列された特徴とその時計の姿はあまりにも一致していた。


「『時巡りの時計』……っ」


 悪寒が走る。

 私は慌ててゼンマイから手を離した。


「……ロイク、様」


 何故彼がこれを持っているのかはわからない。

 だが彼が何を苦しんでいるのかは、わかった気がした。

 私は意を決すると、懐中時計を持ったままロイク様が去って行った方角へ走り出した。




 午後の授業があるというのに、ロイク様は学園を後にした。

 私もそれを追って学園を離れる。

 最近のロイク様の婚約破棄対策によって詰め込まれた荷物たちに囲まれながら私は彼の姿を思い浮かべる。


 私が拾ったものが時巡りの時計だとすれば、ロイク様はこれを使った可能性が高い。

 そしてこれを使ったという事は『代償』が発生しているはずだ。


 『時巡りの時計』は過去へ遡れる代わりに使用者の幸福を奪って不幸にする――。

 ならば彼はどんな不幸を抱える事となったのだろうか。


「ロイク様……」


 苦しそうな彼の顔を思い出しては胸を痛める。

 馬車の中で私は彼の心身を案じるのだった。



***



 深夜。

 馬車を走らせてから可能な限り遠くまでやって来たロイクはただぼんやりと窓の外を見ている。

 その時だった。

 ガタンという大きな音と共に馬車が急停止する。


「来たか」


 ロイクは呟きと共に外へ飛び出す。

 そして腰に携えていた剣を抜いた。

 彼の馬車の周りには顔を隠した男達がそれぞれ武器を持って立っていた。


 突然の刺客の襲来にも、彼は驚かなかった。


 自分へと襲い掛かる敵を彼は次々と一掃する。

 ロイクの剣の腕は一流の騎士にも劣らぬものであった。

 彼は次々と敵の武器を弾いては体術を絡めて相手を気絶させ、意識を飛ばす。

 そしてあっという間にその場を鎮圧した、その時であった。


 疲労から眩暈を起こした彼の死角。

 闇に紛れていた男が暗器を握ってロイクへと襲い掛かった。


「――っ!」


 体勢を立て直そうとするも、ロイクは間に合わないと悟る。

 せめて致命傷を避けなければと瞬時に思考を切り替えた、その時。


「ロイク様!」


 ロイクの前に一人の女性が飛び出す。

 外套に身を包んだ彼女は両腕を広げ、ロイクと敵の間に割り込んだ。

 その背中に刃が突き立てられる。

 直後。彼女――レティシアはその場に膝を付いて倒れた。


 その光景が、ロイクのいくつもの記憶と重なった。


「レティ……、な、なぜ……」


 ロイクは唖然としながらもレティシアを抱き上げる。

 その傍から標的を殺し損ねた男が再び攻撃を繰り出したが、怒りに染まった彼は彼の武器を弾くと、相手の顎に肘を入れてその意識を飛ばした。


「レティシア……っ、しっかりしてくれ、レティシア……!」


 そしてレティシアを抱き上げたままロイクは悲痛な声を上げる。

 今にも泣きそうに歪められた顔を見上げながらレティシアは微笑んだ。


「ロイク、様……お怪我は」

「ない。それよりも、君の方が……、……っ」


 ぽつり、ぽつりとレティシアの頬に雫が落ちる。

 ロイクはレティシアを見つめながら嗚咽を漏らした。


「頼むよ、レティシア。生きてくれ。頼むから……。俺と共に生きて欲しいだなんて、もう思わないから、だから」


 子供の用に涙を溢れさせながらロイクは懇願する。


「――もう(・・)、死なないでくれ……っ」

(ああ、やっぱり)


 彼の言葉を聞いてレティシアは彼の『不幸』を悟る。


 それは自分に降り掛かる危険ではなく――きっとレティシアの死だったのだろう。

 『時巡りの時計』の影響を受けているロイクは、きっと何度も今日の様な日を繰り返してきたのだろう。

 そしてレティシアを喪う度に過去へ戻り、何とか事態を好転させようと動いてきたに違いない。


 初めは二人の未来を望んでいただろう彼は何度も失敗を重ねるにつれて、レティシアの生存だけを優先に動いてきたのだろう。

 そして、彼はきっと繰り返しの中で『時巡りの時計』の影響を受けている自分からレティシアを引き離す為、精神的にも法的にも強い繋がりを持つ婚約を破棄し、彼女から距離を置こうと考えたのだ。


「ロイク様は……とんだ阿呆ですわ。どうして、このような大切な事を一人で抱えてしまうのでしょう」


 問いながらも、その答えは何となく悟っている。

 レティシアに真実を話せば、それこそ『時巡りの時計』との繋がりが深まり、影響を受けるかもしれなかった。

 それに、事情を説明したとてレティシアはロイクから離れようとはしなかっただろう。


「……貴方の言いつけを守らなかった私は、婚約を破棄されてしまうのでしょうか」

「する訳ない! 絶対にしないさ。すまない……本当に愛してるんだ、レティシア。だから――」

「そう、ですか」


 何度も頬を撫で、抱き寄せて涙を流すロイクの温もりにレティシアは浸る。

 そうして彼から伝えられる愛に耳を傾けた後……


「よし、では帰りましょう」


 ――レティシアは立ち上がった。


 そう、立ち上がったのだ。

 いとも容易く、いや、多少はどっこいしょという言葉が添えられそうな緩慢な動きで。

 とにかく、大怪我を負った人間とは思えない程簡単に、一人の力だけで。


「え……っ、レティ、シア……え? け、怪我は」

「しておりませんわ」

「えっ」


 レティシアは誇らしげに服をはだけさせる。

 その下には……いつぞや彼女が購入したという魔法の鎧が隠れていた。


「先程の攻撃はこの鎧のお陰で防がれていますから、私には一切の傷がございません。先程は驚いて腰が抜けてしまっただけです」

「な……っ、ど、通りでいつもより重いと……」

「仮にも乙女に……それも婚約者に向ける言葉ではありませんわ」

「す、すまない」


 理解が追い付かず、目を白黒とさせるロイクへレティシアは手を差しだす。


「今日はそちらに泊めさせてください。これまで受けた侮辱の数々に異を唱えるまで、寝かせません」

「お、お手柔らかに頼むよ」

「口喧嘩をしたら、その後はハグとキスを一回ずつして、一緒に眠りましょう」

「……ああ」


 ロイクは頷くとレティシアの手を取る。

 彼は一粒の雫を溢しながらも明るく微笑んだのだった。



***



 帰りの馬車で私が聞いたのは、ロイク様が『時巡りの時計』を手に入れるまでの過程だった。

 一ヶ月前、手練れの盗賊が王宮へ忍び込み、古代魔導具を盗み出そうとした。

 幸い盗賊は捕まったものの、彼が抵抗した際に盗んだ『時巡りの時計』が転がって行ってしまう。

 それをたまたま現場を見守っていたロイク様が拾ったという。

 盗賊が捕縛から逃れるべく時を巻き戻そうといじっていた事もあり、時計のゼンマイは簡単に回ってしまった。

 そして不可抗力で発動してしまった『時巡りの時計』のせいで、ロイク様は長らく時間の繰り返しと、私の死という不幸に見舞われることになった……との事だった。


 この話を聞きながら、『時巡りの時計』というものは意地悪だと私は思った。

 使った方が尤も修正したいと願うはずの未来は『幸福』の象徴として奪われてしまう。

 だからきっと……『時巡りの時計』が齎す不幸から逃れるには、私のように使用者ではない人間の――『時巡りの時計』が直接不幸へ陥れられない存在の介入が必要だったのだ。


 ただ、ロイク様からすれば簡単に人を頼ることはできない。

 自分に刺客が送られて来る事は確定した未来だったらしいし、その未来がある以上、自分の命を狙う存在が身近にいてもおかしくはないのだ。

 暗殺を企てたものをうっかり頼る事で、本来予測が付けられた出来事の流れに狂いが生じれば、その分私を助ける算段も立てられなくなってしまう。それを危惧していたらしかった。


 さて、後日。

 ロイク様の暗殺を企てたのが彼の兄である第一王子や彼を指示していた貴族であったことが明らかとなった。

 王太子の座を狙った犯行だった。

 第一王子を含めた関係者は監禁される事となり、これから罰が下される事となるが――極刑は避けられないだろう。


 『時巡りの時計』については陛下にご報告した上で、返却。

 古代魔導具の保管はより一層厳重に行われる事となった。

 またロイク様はこっぴどく怒られたらしい。

 本人的には仕方がなかったとはいえ古代魔導具を使ってしまうし、私情で持ち出してしまうし、果てには刺客が来るとわかっていながら護衛すら付けなかったのだから当然の事である。


 そんなこんなで忙しない数日を送ってから、私達は漸く日常へ戻ることが出来る。

 王宮の庭園の芝生に腰を下ろした私は、私の膝に頭を乗せて甘えてくるロイク様の頭を優しく撫でる。

 そうして暫く穏やかな時間を過ごしていた時、私はふいに、彼が婚約破棄を申し出る日々を思い出して吹き出してしまう。


「どうしたんだ」

「いえ。今思っても、ロイク様の考える婚約破棄の理由があまりにも拙くて……」

「や、やめてくれ……っ、必死だったんだよ。君の欠点なんて殆どない上に、相当参ってたんだ」

「わかっています。ええ、わかっておりますわ……っふふ」

「…………意地悪だな、レティシア」

「あら。ロイク様」


 私は笑みを深める。

 きっと、意地の悪い顔をしていた事だろう。


「では、こんな意地悪を言う私とは――婚約破棄ですわね?」

「勘弁してくれ……!」



 こんなくだらない理由で手放してたまるかと必死に否定するロイク様に笑いながら、暫くは婚約破棄ネタで揶揄うことが増えそうだと私は思った。

 それからロイク様は体を起こして私に口づけをし、愛してると言葉にしてくれた。


 私を抱きしめて愛を口遊む彼はすっかり元の、誠実で素直なロイク様で。


 ――一日一回、『婚約破棄』する阿呆な婚約者様はすっかり姿を消してしまったのでした。

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