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2-21 方向なき疾走者 1

アッシュズブルックの街は、灯りも生命の気配もない夜の通りだった。

そこに、黒髪の少女の姿が現れる。

エスタは激しく複雑な感情に突き動かされていた。

これまでの出来事が、すべて自分の制御を超えた場所で起こってしまったからだ。

まるでゲームを始める前から負けが決まっていたような感覚。

腰のベルトに結びつけられた四本の剣が、歩くたびにぶつかり合い、

まるで猫の首輪についた鈴のような音を立てる。

もしエリーゼの物語が、悪役令嬢のせいで予定より早く狂い始めたのだとしたら――

解決策はシンプルだ。

その悪役令嬢を、方程式から消してしまえばいい。

エスタはそう確信していた。

(これは私の戦いよ。リースもエリーゼも、絶対に守ってみせる!)

彼女はそっと息を吐き、もう一度目を閉じて気持ちを落ち着けた。

確かに、出来事は彼女が知っているゲームの世界から大きく歪んでしまっている。

それでもエスタは、まだガイドブックの内容を信じていた。

もしエリーゼに何かあったら――最悪の場合、世界そのものが滅びてしまう。

だからこそ、まだ潜在能力が目覚めていないヒロインを守らなければならない。

リースに関しては、もう物語の主軸から外れてしまったからこそ、エスタは世界の強制力が彼を灰色の髪の悪役へと押しやってしまうのではないかと恐れていた。

隠しボスとして残酷に、結局は倒される運命の――そんな存在に。

だからこそ、もう物語の本筋にいない自分こそが、最も適した実行者なのだ。

リースが闇に落ちる前に。

先がどうなっているのかわからないけれど、エスタはもう、怖いという気持ちを忘れていた。


屋敷の門は固く閉ざされたままだった。

魔導灯の淡い光が、静寂に包まれた銀色の門扉に反射している。

門の前には、いつものように四人の衛兵が立っていた。

エスタは静かに身を潜め、手を伸ばして腰の四本の剣を固定したベルトをきつく締め直した。

あの衛兵たちはリースと親しい。

以前、エリーゼを送り届けたときに彼女を助けてくれたこともある。

だが今回、もし戦うことになったら――エスタはためらうことなく、彼らを殺すつもりだった。

彼女は視線をぼんやりとさせながら、二本の剣をゆっくりと抜き、鞘を地面に落とした。

これで動きながら剣同士がぶつかり合う音が出ない。

しかし、近づいた瞬間、彼女を迎えたのは衛兵たちではなかった。

地面からいくつもの模造魔獣が突如として湧き上がってきたのだ。

それでも衛兵たちは、微動だにしない。

エスタは目を細めて状況を冷静に分析した。

彼女はリースに見せないよう抑え込んでいた野性の本能を解き放ち、一瞬にして模造魔獣たちの首を斬り落とし、地面に転がした。

戦闘が目の前で繰り広げられているというのに、衛兵たちは異常なほど微動だにせず立ったままだった。

エスタはさらに近づき、そして恐ろしい真実を目の当たりにした。

彼らの体は魂の抜け殻のような人形のように固まっていた。

大きく見開かれた瞳は虚ろに前方を見つめ、生命の光は完全に失われている。

体は冷たく凍りついているのに、顔色だけはまだ血の色を保っていた。

「成功するかどうかは保証しないけど……まだ死んでないなら、急いで死なないでね。

私がこの問題の元凶を片付けてくるから」

彼女はそう宣言すると、門扉を押し開けて中へと足を踏み入れた。


だが、屋敷前の石畳に足を踏み入れた瞬間、まるで盗難防止システムのように模造魔獣が次々と地面から湧き上がってきた。

「はぁ……魔法が遅れてる世界だってのに、こんなシステムは作れるんだ?

だったら監視カメラの一つでも作ればいいのにねぇ?」

エスタはため息をつきながら、口の端を歪めて呟いた。

止まることなくうろつく模造魔獣たちを視線で追いながら。

ゲームの中ではいつも、こんな理不尽で非論理的なことが起こるものだ。

そしてこの世界は、まさにそのゲームの世界そのものだった。


模造魔獣は、操る者がいなければ本物のモンスターよりもずっと危険度が低い。

思考も本能もなく、ただ決められた範囲内にいる者を、単調な攻撃パターンで襲うだけだからだ。

それでも、魔法に対する反応は抜群に良い。

隠蔽系の魔法を使っても、術のレベルが本当に高くなければ検知されてしまう。そして、囲まれてボコボコにされるのがオチだ。


「……こうなったら、もう突っ込むしかないよね」


エスタの瞳に、再び鋭い光が宿った。

彼女は一気に駆け出し、狂ったように模造魔獣たちを斬りまくった。

斬り裂かれた体は黒い液体を噴き出し、ゆっくりと魔力の霧となって蒸発していく。

そしてついに、彼女は最初の屋敷――エリアス伯爵の屋敷――の前に辿り着いた。



大きな扉の前で足を止めると、そこには二人の衛兵が、まるで呪いをかけられたかのように微動だにせず立っていた。

エスタは連続した戦闘で刃こぼれした剣をポイッと捨てた。

続いて、噛みつかれてできた傷や引っかき傷に回復ポーションをぶちまけ、傷を塞いでいく。

魔力回復ポーションも一本、グイッと飲み干した。


準備が整うと、彼女は屋敷の扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。

まだ夜も更けていないはずなのに、屋敷全体が灯りひとつなく、真っ暗闇に包まれていた。

(ゲームの悪役令嬢たちって、どうしてこんなに暗いところが好きなの?)

エスタは心の中で毒づいた。

――そもそも自分こそが元々の悪役令嬢だったということを、彼女は今さら思い出したわけではない。


今、この闇こそが自分の王国なのだと。

彼女は暗視の魔法を解放した。

紫がかった青い光が瞳に宿り、前方の闇がまるで昼間のように払拭される。

そのまま、彼女はエリアス伯爵の執務室へと真っ直ぐ向かった。

数日前にリースと一緒に来たばかりなので、道順はよく覚えていた。

道中、屋敷のメイドたちがあちこちに、まるで彫像のように硬直して立っている。

(これって本当に設定なのか、それとも悪役令嬢たちの趣味がクソ悪いだけなのかしら…)

エスタは歯を食いしばりながら、道沿いに立つ彼女たちの虚ろな瞳を睨みつけた。

そしてついに、目的の執務室に辿り着く。


扉を開けた瞬間、彼女の予想を完全に裏切る光景が広がっていた。

部屋は徹底的に荒らされていた。

家具が散乱し、書棚は倒され、絵画はナイフで切り裂かれ、壁は隠し通路を探すように叩き壊されている。

(もしエリアス伯爵が悪役令嬢と手を組んでいるなら、なぜこの部屋がこんなに荒らされているの?)

エスタの頭に、巨大な疑問符が浮かんだ。

彼女は部屋に散らばった物資の中へと歩みを進める。

財務書類、帳簿、高価な収集品――どれも持ち去られた形跡はない。

そして何より、戦闘の痕跡が一切なかった。

(じゃあ……彼女たちは何が欲しかったの?)


エスタはそう思いながら執務室を出て、息づかいすら聞こえない静寂のホールへと戻った。

そのまま音もなく階段を上り、二階の廊下を進み、数々の扉を過ぎて――ようやく一つの扉の前に辿り着いた。

扉の両脇にはメイドが二人、固まって立っている。

扉には金色の装飾が施されており、これが主人の寝室であることを雄弁に語っていた。

エスタは迷わず扉を開けた。

中に入ると、寝室の惨状は執務室と変わらない。

カーテンは引き裂かれ、壁は叩き壊され、部屋は徹底的に荒らされていた。そして、ベッドの上に何かがある。

エスタはベッドに近づき、右手に一本の剣をしっかりと握り、頭上に構えた。

もし布団の下のものが襲いかかってきたら、即座に斬りつけるつもりだった。

左手で勢いよく布団をめくり上げた瞬間――そこにあったのは、ケアルス伯爵が安らかに眠る姿だった。

一瞬、エスタの頭に血が上った。

だが、仰向けに寝ている領主の体に手を伸ばして引き起こそうとした瞬間、彼女は気づいた。

彼の体もまた、屋敷の他の者たちと同じように、完全に硬直してしまっていた。


「くそっ! お前までかよ、この領主!!」


エスタは思わず大声で叫んだ。

自分が立てていた仮説はすべて外れていた。エリアス伯爵は悪役令嬢と手を組んでなどいなかった。

それじゃあ、エリーゼが持っていた手紙は……?

(まずい……! 計画変更! リースとエリーゼのところに急いで戻らなきゃ!)


「まだ死なないでね、領主様。すぐ戻ってくるから」


彼女はくるりと踵を返し、部屋から飛び出した。


しかし、階段の踊り場まで来たところで――魔導灯の光が一斉に灯り始めた。

エスタは慌てて暗視魔法を解除するのもやっとだった。

瞳が明るさに慣れるのを待つ間、下に立つ人物の姿がはっきり見えた。

黒いスーツに銀色の仮面をかぶった男。

黒髪は整髪料でぴっちりと固められ、白い手袋をはめた両手のうち片方は胸に、もう片方は体に沿って置かれている。

だが、彼は頭を下げてはいなかった。


「ようこそ、我が屋敷へ。おいでになった大きなネズミさん」


銀色の仮面越しに響く、わざと甲高く歪んだ声が耳に刺さった瞬間、エスタは即座に言い返した。


「ったく……問題児が自分から出てきちゃったら、探偵ごっこする意味ないじゃん?」


「失礼いたしました」


甲高い声がようやく止まり、男はゆっくりと仮面を外した。

その顔を見たエスタは、わざと面倒くさそうな表情を浮かべて、だるそうに言った。


「やっぱりお前かよ、スミス執事」


「やっぱり、ですか?」


「服も態度もあからさまなんだもん。それに、この屋敷の中を歩いてきて、お前が人形みたいに固まってるのなんて一度も見なかったし」


スミスの笑みは、エスタの嘲るような言葉を浴びせられても少しも崩れなかった。

むしろ満足げにくすくすと笑い、まるで気にも留めていない様子で言った。


「なるほどね。実に間抜けなミスでした」


「そーだよ~超間抜け」


エスタはもう一度嘲るように笑った。

そして二人の声が重なり合い、徐々に消えていく。

次の瞬間――

エスタは腰の右側の鞘を掴み、階段の上から投げ捨てた。

ほぼ同時に、スミス執事が凄まじい速さで駆け上がってくる。

投げられた鞘は真っ二つに斬り裂かれた。

鞘が分かれるその刹那、銀色の平らな刃が逆方向に飛んできた。

スミスは腕でそれを軽く払いのけ、まるで剣などではないかのように扱う。

続けて、白い手袋をはめたもう片方の手がエスタを斬りつけた。

だがエスタは体をわずかに傾けて、紙一重でかわした。

彼女はそのまま下の床に飛び降り、転がって体勢を整える。


「体、鉄でも入ってんの?」


「感じ取れたんですね」


階段の中ほどに立ったスミスが、ゆっくりと振り返りながら答えた。


「だって、三発も刺さってるんだよ」


「……おや、本当ですね。私の服が、すっかり破れてしまいました」


両者は互いに笑い合い、威嚇し合うように声を上げた。

だが、エスタの方が明らかに不利な立場に立たされているようだった。

スミスは自らの上着を一気に引き裂き、剥き出しになった上半身を晒した。

そこは全身がくすんだ銅色に変色していた。

エスタはその光景を見て、思わず大声で毒づいた。


「くそっ! この世界に『銅鐘護身』なんて技があったのかよ!!」


スミスはそれを聞いて、指先で顎の先を軽くつかみながら答えた。


「これは僕が独自に編み出した魔法術ですよ。でも、あなたが付けたその名前……なかなか面白いですね。あなたが僕の魔法で死ぬ記念に、その名前をいただきましょうか」


「いらねーよ!」


言葉が終わった瞬間、スミスは信じられない速さでエスタに飛びかかった。

彼の拳がエスタの腹部に深々とめり込み、彼女は血を吐き出した。


「これだけですか」


スミスは嘲るように笑い、目を細めた。

だが、倒れるはずの体は塵となって消え、残ったのは彼女のマントだけだった。


「高度な幻影魔法ですか。なかなかやるじゃないですか」


スミスは気にも留めない様子で呟いた。

そしてその刹那――鋭い刃が彼の後頭部を狙って振り下ろされた。

金属が激しくぶつかり合う音が響き、火花が散った。

刃は衝撃で真っ二つに折れ、破片が床に突き刺さる。

黒い影は素早く身を翻し、数歩離れた位置で止まった。エスタは折れた剣を投げ捨て、苛立たしげに足を踏み鳴らした。


「首だって斬れないってのかよ!?」


「その通りです。この術を使っている間は、目玉に弩を撃ち込んでも通じませんよ」


スミス執事は振り返り、胸に手を当てた。

彼の声は誇らしげにエスタに応える。

(魔力が……もうほとんど残ってない……)

エスタは心の中で呟いた。

表面上はまだ軽口を叩くような態度を崩さないが、それは相手に自分の本当の状態を知られないためだ。

今日だけで、彼女は激しい戦いを二度もくぐり抜けてきた。ほとんど休む間もなく。

魔力回復のポーションを飲んだとはいえ、回復した量はほんのわずかだった。

(ここで一発勝負に賭けるしかない……!)

エスタは最後の剣を抜き、紫がかった青い魔力を注ぎ込んだ。

以前、アイゼンの穢れた抜け殻を倒したときと同じように。

ただし、あのときほど魔力は多くない。

それでも幸運だったのは、今は魔導灯の光が眩しく輝いているため、剣に注いだ魔力がほとんど目立たないことだ。


「さあ、三回戦といこうか!!」


エスタが大声で叫ぶと、二人は再び激しくぶつかり合った。

エスタは全力で剣を振り下ろし、スミスは腕を大きく振りかぶって迎え撃つ。



だがその瞬間、魔導灯の光が急に弱まり、薄暗い明かりだけが残った。

エスタの突進する体が、何らかの魔法に引きずり込まれ、床に叩きつけられた。

銅色の腕が振り下ろされた一撃は、絶妙に外れて空を切る。


「くそっ……体が……動か……ない……」


エスタは苦しげに絞り出すような声で呻いた。

目の前でエスタが崩れ落ちるのを見たスミスは、踏みつけてとどめを刺すことはしなかった。

代わりに、激昂した声で大声を上げた。


「誰が勝手に口出ししてんだよ!?」


暗闇から黒いマントをまとった仮面の人が三人、姿を現した。

そのうちの一人が、甲高く耳障りな声で言った。


「あの人が撤退しろって命令だ。迎えに来た」


それを聞いたスミスは舌打ちをし、唇を歪めて顔をしかめた。

彼は銀色の仮面を投げ捨てた場所へ歩み寄り、それを拾い上げて再び被った。


「ご主人様の命令は絶対……か」


そう呟くと、スミスは闇の中へ消えていった。

スミスに命令を下した仮面の男は、振り返って残りの二人に指示を出した。


「あの女を片付けて、すぐに追いつけ」


「了解」


二人の手下が頷くと、男もまたスミスの後を追って闇の中へ消えた。


「ぐっ……」


エスタは残った力を振り絞って剣の柄に手を伸ばした。

だが、黒いマントの男が緑色の魔法を放ち、剣を弾き飛ばしてしまう。

彼女は再び力を込めて体を捻り、魔法を放った男の方を睨みつけた。

男は呪文を低く唱えながら、大な緑色の魔力塊を手に集め、荒々しく叫んだ。


「お前が俺たちの仲間を何人も殺したんだ! 今度は俺が仇を取らせてもらうぜ!」


言葉が終わると同時に、緑色の魔法がエスタに向かって投げつけられた。

爆発が激しく炸裂し、彼女の体は吹き飛ばされて階段に激突する。

腕と脚が、不自然な角度にねじ曲がっていた。

(私……もう『ミトラ』じゃないのに……それでもまだ、脆いガラス大砲のままだってこと?)

激痛が全身を駆け巡り、エスタは心の中で叫んだ。

肺さえ息を吸うことを拒否し、意識がぼやけていく。

(リース……)

そして、すべてが闇に落ちた。





黒いマントの男が再び呪文を唱え、魔力の塊が手に集まり始めた。

彼は手を高く掲げ、目の前の少女を粉々に砕こうとした。

だがその瞬間、闇の中から足音が響き、何かが流星のように飛び込んできた。

それは男の顔面に激しくぶつかり、まるでワイバーンの尻尾に叩きつけられたかのような衝撃を与えた。

男の体は大きく吹き飛び、石柱に激突する。口から血を吐き、緑色の魔法は霧のように散らばって消え去った。

現れたのは一人の女性だった。

三つ編みの髪が、素早い動きに合わせて揺れている。

彼女は瞬時に残りのマントの男へと突進した。


「くそっ……結界を張ってるはずなのに……」


言葉を最後まで言い終える間もなく、もう一人の魔術師の体が壁に激突し、めり込んでしまった。

直後、魔導灯の光が一気に明るく灯り直し、ホール中央の青い三つ編みの女性を照らし出した。

まるで舞台の真ん中に現れた王子のように。

レナは戦闘の中心からゆっくりと歩みを進め、エスタの倒れた体へと近づいた。

彼女は苦しげに息を吐きながら、指で鼻から流れ出る血を拭った。


「ああ……結界、結構頑丈だったねぇ。爺さんに追加料金請求しなきゃ」


小さく呟きながら、彼女は瀕死のエスタの体を抱き上げた。

そして、素早く屋敷の外へと脱出した。


現在、僕は多大なる励ましを必要としています。

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