2-19 物語の後半 3
エスタは冒険者のギルドの一階へと駆け下りてきた。
彼女はエリゼの目の前で足を止め、震える両手をその肩に置いた。
真剣な眼差しで高貴な少女の顔をじっと見つめ、ためらいながらも口を開き、残酷な事実を告げる。
「エリゼ……今のアッシェンブルクは、もう安全じゃない……」
「えっ? どうしたの、エスタ? なんで?」
エリゼが驚きの声を上げた。
「エリゼを狙う人間は……もうアッシェンブルクの中にいる可能性が高い……」
エスタは真剣な声で言った。
だが、彼女は全ての真実を明かすことはできなかった。
自分が狂人扱いされることを恐れているわけではない。
ただ、世界の秘密――転生者であるという事実が漏れてしまえば、それを己の都合のいいように利用しようとする者たちが、必ず姿を現してしまうからだ。
彼女はもう一度大きく息を吸い込み、不安げに唇を動かした。
「エリゼ……絶対に、冒険者のギルドから一歩も外に出ちゃダメ。誰に誘われても、絶対に行かないで……」
「リースと一緒でも……?」
「うん。リースと一緒でも、絶対にダメ!」
「……わかった……」
エリゼは小さく頷いた。
声はとても弱々しかったけれど、エスタはほっとしたように微笑んだ。
「私が留守の間……どうか、気をつけてね」
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エスタは冒険者のギルドからまっすぐ飛び出してきた。
彼女の目指す先はただ一つ――リースがいるはずの場所、マリーナの教会付属の治療施設だ。
足を運ぶたびに、頭の中ではゲーム内の出来事がよみがえっていた。
(悪役令嬢はしばらく姿を消し、再び現れた時にはアッシュズ公爵と一緒にいた……。もしかしたら、彼女たちが逃げ込んだ場所が、このアッシェンブルクかもしれない。もし悪役令嬢が灰色の髪の男に触れたら……二人は転落してしまう……)
エスタはさらに足を速めた。心の中で祈るように呟く。
(お願い……あの公爵が……リースじゃないであってくれ……!)
そして、ついに到着した。
治療施設の扉を勢いよく押し開けると、薬草の香りと魔法による治療の温かな気配が一気に広がった。
エスタは視線を巡らせ、八つのベッドすべてが負傷者で埋まっている様子を確認する。ベッドが足りず、床の上にまで傷ついた人々が横たわっていた。
そして、その瞬間――彼女は見た。
「リース!!」
「エスタ!!」
神官服姿のリースが、呼び声に反応してすぐに駆け寄ってきた。
エスタはそれを見て、灰色の髪の少年のもとへまっすぐ向かう。彼女は彼をぎゅっと抱きしめると、すぐに言葉を漏らした。
「リース……君、大丈夫だった……?」
抱擁が解けると、リースはこちらが尋ねるのを待たずに、すぐに口を開いた。
「すみませんでした……戻れなくて……アルテシア様が街で暴れて、そのまま行方不明になってしまって……。僕も、負傷者が多すぎて、ここに足止めされてしまって……」
エスタはその言葉を聞いて、大きく息を吐き出した。
彼女は大きく笑顔を咲かせて彼から少し離れ、肩の力が抜けていくのを感じた。胸にのしかかっていた巨大な山が、ようやく消えたような感覚だった。
(これで……リースのことは安心できた……。マリーナの教会の人たちと一緒にいるなら、悪役令嬢もきっと近づけないはず……)
彼女は純粋すぎて世間を知らない少年の瞳をじっと見つめ、わずかに震える声で言った。
「リース……一つだけ、約束してくれる?」
「はい」
「私が留守の間……ここから一歩も外に出ないでね」
「エスタ、どこに行くの?」
リースは眉を寄せて、すぐに聞き返した。
だがエスタもまた、ほとんど間を置かずに言葉を返した。
「今、すっごく機嫌が悪いんだよね。あの元凶を、思いっきり踏み潰してやりたい気分!」
エスタの言葉は、歪んだ唇から吐き出された。眉はきつく寄せられ、こめかみに血管が浮き上がり、歯をギリッと鳴らす音が小さく響く。
「でもエスタ、君はさっき……」
「心配しないで、リース。まだ戦えるよ」
リースが制止しようとしても、エスタは恐ろしいほど低い声で即座に切り返した。
もう彼女の感情は抑えきれず、暴走寸前だった。
「……じゃあ、僕も一緒に行きます」
「ダメ、リース。一緒には行かせない」
「どうして……エスタ」
「だって……今回は、殺すつもりだから」
エスタの声は確かに激しかったが、そこには深い苦々しさが滲んでいた。
リースはその苦しみを確かに感じ取り、静かに頷いた。
「わかったよ……僕じゃ、エスタを止めることはできないから……」
彼はそう言って背を向け、夜勤担当の机の方へ歩いていく。そして、そこから一つの物を手に取った。それは、ポーション治療用のガラス管を挿すためのスロットが付いたベルトだった。透明な管の中には、回復薬が五本ともぎっしりと詰まっている。
「どうか、無事に帰ってきてくれ……」
エスタはそのベルトを受け取り、胸のあたりにしっかりと締めた。
彼女の視線がリースに向けられると、彼は温かく、自信に満ちた笑みを返した。
「心配しないで。絶対に戻ってくるから!」
そう言い切ると、エスタはくるりと背を向け、マリーナの治療施設から勢いよく出て行った。
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「ひどいわね、後輩。
分かっていてあんなことを言うなんて……彼女が一緒に行くのを絶対に許さないって知っているくせに」
エスタの姿が視界から消えた直後、アルテシアの声が響いた。
彼女はゆっくりと後ろから姿を現す。瞳にはまだ呪いの刻印が残っているが、今はもう機能していない。グレイモアの封印のおかげで。
「……はい。今回のエスタの戦場は、僕にはついていけない場所なんです」
リースは振り返り、数時間前に知り合ったばかりの先輩――アルテシアを見つめた。
だがその視線には、わずかな不安の色も浮かんでいなかった。
今回はアンダーアイゼンの時とは違う。
エスタが一人で決断して出ていくなら、リースにも同時にやらなければならないことがある。
そしてそれは、エスタに絶対に首を突っ込ませてはいけない賭けだった。
「そんな言葉、よく使えたわね?」
彼女がからかうように言うと、リースは自信たっぷりに微笑んで返した。
「はい。僕、冒険者ですし」
その答えを聞いたアルテシアは、大きくため息をつき、わざとらしくぼやいた。
「はあ……本当にわからないわ。どうして君たちみんな、首を縄にかけられるのをそんなに楽しそうにするの?」
「冒険者ってのは、僕たち賢者とは考え方が違うんですよ。自分で自分の手で問題を終わらせないと、安心できないんです……アルテシア」
だが、その質問に答えたのはリースではなく、背後から現れたグレイモアだった。
彼は後ろからゆっくりと姿を現し、その後ろをレナが老練な神官ランタンを乗せた木製の車椅子を押しながら続いてくる。
三人が揃って出てきたのを見たリースの笑みは、さらに自信に満ちたものになった。
しかしその時、グレイモアが口を開いた。
「それにしても、師匠ランタン。こうしてエスタの顔を見せないままって、少し冷たくないですか?」
グレイモアの鋭い視線が、まるで狐の牙のようにランタンに向けられる。
「まだその時じゃないだけだ」
「へえ?だったらさっさと出てきて、あのガキを止めるべきなんじゃないですか、ジジイ?」
それを聞いたランタンは、大きくため息をついた。視線を隣に立つレナへと移す。
「では、レナ。頼んだぞ。あの娘が危なくなったら、すぐに連れて逃げてくれ。戦闘はなるべく避けるように」
「そんなレベルの仕事なら、結構高い料金いただきますよ?」
「わしが払わなかったことなどあったか?」
「ええ、ありませんです。グレイモア団長みたいに、私の給料を踏み倒すのが日常茶飯事の人とは違いますもんね」
レナの冷たい視線と、ランタンの嘲るような目が一斉にグレイモアに向けられた。
アルテシアもリースも、同じように軽蔑混じりの視線を投げかける。
しばらくグレイモアを睨みつけた後、リースは視線を外し、レナの前に歩み寄って立ち止まった。
彼は腰を深く折り、声を張り上げて言った。
「レナさん、エスタのこと……どうかお願いします!!」
それを聞いたレナは、鋭い鷹のような目で強張った笑みを浮かべた。
彼女はリースの襟首をつかみ、頭を上げさせて顔を合わせると、静かに口を開く。
「君もだよ、リース。でも一つだけ忠告しておくね。君はずっとまっすぐ前だけ見て突っ走ってきたけど、これから向かう戦場じゃ、敵はモンスターみたいに正面から戦ってくれないよ。どんな汚い手でも使ってくる。だから……昔ながらの単純な戦い方は忘れて、賢く戦いなさい」
言い終えると、彼女はリースを下ろし、肩を力強く叩いた。
「エスタは私が預かっておくから、心配しないで」
「ありがとうございます」
そう言い終えると、レナは風のように素早く歩み去っていった。
リースは残った皆の方へ振り返り、もう一度深く頭を下げて言った。
「それじゃあ、僕も自分の戦場に向かいますね」
「よしよし、よく言ったぞ、弟子!」
グレイモアが大声で応じた。
「無事に帰ってこいよ」
ランタンが、腰の痛みで声を長く引きながら祝福の言葉をかける。
「すべてがうまくいくように……そしたらようやく、あの汚い連中を一掃できるわね」
最後にアルテシアが、不満げな声で呟いた。
そして、リースは一人でその場を後にした。
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冒険者のギルドの前で、マリーナの神官服を着たリースが、まっすぐ歩み寄る。
そこにはまるで彼を待っていたかのように立っている少女がいた。
「少し、散歩しませんか? エリゼさん」
「はい」
リースが声をかけると、エリゼはためらうことなく彼のもとへ歩み寄った。
二人は夜の街路を並んで歩いていく。
アルテシアとの激しい衝突で半壊した街の惨状に、エリゼは何度もため息をついた。
「かなり激しい戦いでしたね」
「ええ……まさかアルテシアがあそこまで暴れるなんて、思ってもみなかったわ」
リースもまた、エリゼに負けず劣らず何度もため息を漏らしていた。
彼の声は長く静かで、半壊した大通りを惜しむような響きを帯びている。
だがその時、彼は隣を歩く高貴な少女に視線を向け、静かに呼びかけた。
「エリゼさん」
リースが向けた笑みは温かく、微塵も揺らぎがない。
優しい瞳にも、迷いの色は一切なかった。
「そろそろ、本当のことを話しましょう、エリゼさん」
「ええ、リース。……本当のことを、話しましょう」
エリゼもまた、同じような穏やかで揺るぎない眼差しを返した
リースとエスタ、二人はそれぞれ自らの戦場へと足を踏み入れた。
しかし、リースの戦場はエリゼだというのか? 二人が語る真実とは一体……。
次回をお楽しみに。
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