2-18 物語の後半 2
冒険者のギルドの馬車は、馬二頭が限界まで疾走できる速さで駆け抜けていた。
車輪が激しく回るたびに舞い上がる土煙が、道のりを埋め尽くしていく。
ハンスは御者台の隣に移り、時折大声で「道を開けろ!」と叫びながら周囲に警告を発していた。
車内では、仲間がかなり具合の悪そうな様子だった。
エスタは膝を抱えて体を丸め、座席に縮こまっている。
瞳が細かく震え、眉間に深い皺が刻まれ、恐ろしいほど険しい表情を浮かべていた。
彼女は革手袋をはめた親指を強く噛みしめている。
どれだけ強く噛んでも、痛みなどまるで感じていないようだった。
(どの悪女が……闇に堕ちたというの!?)
頭の中では、『ランドールのパラダイス』の一節がぐるぐると回り続け、集中を妨げている。
物語に登場した悪女は、すでに一人現れている。
『ミトラ』だ。
だが今、そのミトラは消され、エスタという存在に置き換わってしまっている。
(……だったら、残っているのは……)
ランドールにいるはずの二人 フィオナとオーレリアの動向は、まったく掴めていない…。
エスタの息は荒く、激しく上下していた。
肩も両手も、まるで高熱を出しているかのように震え続けている。
「エスタさん、大丈夫ですか?」
牙猪牙パーティの弓使いの少年が、心配そうに声をかけた。
「ううん、大丈夫。平気よ」
「でも、様子が……」
そう言われて、ようやくエスタは我に返った。
いつの間にか、不安に飲み込まれていた自分に気づく。
彼女はゆっくりと呼吸を整えようとしたが、両手はまだ固く握りしめたまま離せなかった。
「早くギルドに報告して、準備をさせないと……。
あの呪いを広めるモンスターたちが、もし街に入ってきたら……もう終わりよ……」
エスタは低い声で呟いた。
その言葉に、少年弓使いも一緒に震え上がった。
「それじゃ、この二人たちは……?」
「この二人はマリーナの教会がなんとかしてくれるはず。
でも、街の人が襲われて呪いにかかったら……もう手に負えないわ」
そう言い終えると、エスタは視線を窓の外へと移した。
馬の疾走で巻き上がる土煙に遮られ、何も見えない景色だった。
そして、再び体を折り曲げて縮こまってしまった。
馬車が冒険者のギルドの前に止まると、エスタはドアを開け、外から開けられるのを待たずに飛び降りた。
彼女は御者台の隣にいるハンスに向かって大声で叫ぶ。
「ハンス、今すぐ一緒に来て!」
「ひぃぃっ!!」
名前を呼ばれた男は甲高い声を上げ、慌てて転げ落ちるように馬車から降りてきて、エスタの足元にへたり込んでしまった。
「残りの人たちは、マリーナの教会の治療施設に運んでくださいね」
彼女は御者に向かって丁寧に言ったが、声はやはり固く鋭かった。
おじさんの御者は頷き、短く答える。
「任せとけ」
その言葉が終わると同時に、馬車はすぐに走り出した。
馬車が去ると、エスタは体から埃を払っているハンスの方を振り返った。
「行くわよ、ハンス。時間がないわ」
「は、はいっ!!」
ハンスの声は完全に緊張で上ずっていた。
それにエスタは小さく舌打ちした。
(さっきまであんなに頼もしかったパーティリーダー、どこ行ったのよ……?)
ところが、冒険者のギルドの扉をくぐった瞬間、そこはもう大混乱の渦だった。
テーブルも椅子もすべて片付けられ、代わりに負傷者たちがずらりと並んで横たわっている。
マリーナの教会の神官たちや街の診療所の医者たちが、あちこちを慌ただしく走り回っていた。
「何これ……どうなってるの?」
エスタとハンスは同時に声を上げた。
目の前の惨状に呆然とする中、黒髪の少女は素早く視線を部屋中に走らせ――震えるように立っているエリゼを見つけた。
「エリゼ!」
エスタはすぐに駆け寄りながら呼びかけた。
エリゼはビクッと体を震わせ、慌てて振り向く。彼女もまたエスタに向かって足を踏み出した。
「私が留守の間に一体何があったのよ!!」
エスタを見つめるエリゼの瞳は震え、唇も小刻みに震えながら、言葉を絞り出すようにしてやっと発した。
「アル……アル……アルティシアが暴れ出して……逃げて行っちゃったんですっ!!」
「何ですって!?」
エスタはエリゼの言葉が終わると同時に叫んだ。
彼女は歯を食いしばり、両手を強く握りしめて腕を震わせている。
その間も、エリゼは言葉を続けた。
「突然アルティシアが立ち上がって……瞳が真っ赤になって……『アッシュズを殺しに行く』って、それだけ言って……」
「うそでしょ……どうしてこんなことに!? アルティシアって目が見えないはずじゃないの!?」
エスタは自分の頭を強くかきむしりながら叫んだ。
だが、すぐに何かを思い出したように動きを止める。
(さっき……瞳が真っ赤だって言ったわよね……まさか、あの子たちと同じように……呪いに操られてるの?)
彼女はエリゼの肩に手を置き、強く握りしめた。
相手の顔色が変わるほど強く握りながら、厳しい声で尋ねる。
「エリゼ、アルティシアの瞳から……魔力のオーラみたいなものは漏れ出してなかった?」
「わ、私……わからないんです。魔法のことなんて知らないから……感じ取れなくて……」
「……そっか……ごめんね」
エスタは小さく呟いた。
その答えを聞いて、彼女の手はゆっくりと力が抜けていく。
視線が虚ろになり、空っぽになった。
けれど、ほんの一瞬だった。
彼女は大きく息を吐き、肩を落とし、虚ろな瞳を振り払うように瞬きした。
そしてエリゼの方を向き、恐ろしいほど決然とした声で命じた。
「私、レオ様に報告しに行かなきゃ。ここで待っててね」
エスタは足早に二階へ上がり、ギルドマスターの執務室へと向かった。
ハンスが慌てて後ろからついてくる。
背後では、異常なほど慌ただしく行き交う人々の喧騒が残されていた。
最奥にある執務室の扉が勢いよく押し開かれ、少女の叫び声が響いた。
「レオ様! 大変な報告ですっ!」
エスタはもう礼儀作法など気にも留めず、勢いよく飛び込んできた。
部屋の中にいた三人が、一斉に顔を上げてこちらを見る。
全員が深刻な表情を浮かべている。
最初に目に入ったのは、鉄蜂討伐作戦でグレイモアに敗れた若手の商業議会議長だった。
彼は慌てふためき、顔を真っ青にさせて、ハングリ目尻が落ちきって目尻にくっつきそうなほどだった。
そして、まるで猫に捕まった鶏のように甲高い声を上げた。
「ま……また何かあったのかあああ!!」
エスタは眉を寄せて彼を睨みつけた。
その視線に射抜かれた議長は、慌てて自分の口を手で塞いだ。
残りの二人、 マーラとレオは顔を見合わせ、すぐにこちらを振り向いた。
その顔も瞳も、限界まで張り詰めた緊張感を湛えていて、後ろに立つハンスは思わず口からよだれを垂らしそうになる。
エスタが振り返ってハンスの足を踏みつけた瞬間、彼は慌てて元の姿勢に戻った。
そしてエスタは大きく息を吸い込み、声を張り上げた。
「魔獣はすでに運び出されました。でも私たちは、呪いを広めるモンスターにやられてしまったんです!」
「何ですって!!」
レオとマーラが同時に驚愕の声を上げた。
一方、若手の議長はハンスと同じく、雨の中の雛鳥のように震えきっている。
レオは一目見て、議長とはもうまともに話せないと判断した。
彼は机のそばに立つマーラの方を向き、指示を出す。
「マーラ、議長閣下を応接室へ案内してくれ」
「はい、レオ様」
マーラは即座に返事した。
長年働いているだけあって、相手の精神状態をある程度読み取れるようになっている。
レオと同じく、彼女も状況を瞬時に理解していたのだ。
マーラが優しく手を差し伸べると、議長は一言も発さず、素直に立ち上がってついて行った。
扉が閉まる音が響くと同時に、エスタは机のすぐ前に歩み寄った。
ハンスはその後ろに控えるように立っている。
レオが小さく頷くと、エスタは即座に報告を始めた。
「先ほども申し上げましたが、私たちが到着した時には魔獣はすでに運び出されていました。
代わりに待ち伏せしていた者が笛を吹いてモンスターを呼び寄せ……
あのモンスターたちは噛みつきや体液を吐き出すことで呪いを広めるんです。
ハンスさんの仲間二人が呪いに感染してしまい、今はマリーナの教会へ搬送しました」
報告を終えたエスタの言葉に、レオは眉間に深い皺を寄せた。
「もしあいつらが街に入り込んだら……もう手遅れだ」
短く呟くと、彼は鼻から熱い息を強く吐き出した。
その息の熱さは、部屋にいる者全員に伝わるほどだった。
レオは片手でこめかみを押さえ、もう一度声を絞り出す。
「こんな時に限って、エリアスめ……どこに消えてやがるんだ!!」
「エリアス伯爵……」
エスタは小さく呟いた。
レオの苛立ちを聞いた瞬間、彼女は苦々しい表情を浮かべ、言葉を飲み込むような顔になった。
(エリアス伯爵は信用できない……)
アズアラと一緒に届いた手紙の文面が、頭の中に蘇った。
(エリゼはこの章のヒロインなんだもの……彼女がいなくなったら、この世界だって滅びてしまうかもしれない……)
不安が一気にエスタを飲み込んだ。
敵の正体がだいたいわかっているのに、問題は――そいつらがどこにいるのか、わからないことだ。
「エスタ!」
レオの声が、エスタを思考の渦から引き戻した。
彼女がギルドマスターの方を振り向くと、彼はすぐに口を開いて尋ねた。
「それで、どういう特徴で区別できるんですか?」
「はい……瞳が紫がかったピンク色に輝いていて、魔力のオーラが漏れ出してるんです」
エスタの答えが終わった瞬間、レオは目を閉じた。
部屋に重い沈黙が広がり、彼は頭の中でこれまでの情報を一つ一つ繋ぎ合わせていく。
やがて目を開くと、レオはエスタが信じがたい言葉を口にした。
「エスタ……そのような瞳のモンスターの報告は、何度も上がってきている」
「えっ!? だったらどうして、そんな大事な警告が出なかったんですか!?」
エスタは即座に声を荒げ、両手をバンッと机に叩きつけた。
だがギルドマスターのレオは動じず、片手を上げて「待て」という合図をする。
エスタは唇を噛んで黙り、再び姿勢を正した。
「その瞳のモンスターは、通常より凶暴になる……それが最初に出てきた報告だった。
だが、呪いを広めるという報告は一度もなかった」
レオは一瞬言葉を切り、エスタとしっかりと目を合わせた。
真剣そのものの視線を向けながら、ゆっくりと口を開く。
「もし君の言う通り、それが呪いだというなら……奴らはさらに進化してしまったということだ」
レオが話し終えると、少しの間沈黙した。
彼はハンスの方を向き、言葉を続けた。
「ハンス、お前が最初に報告したんだな。
もう一度、その詳細を話してくれ」
「え、俺ですか?」
そう言われて、ハンスは自分の鼻を指さしながら、泣きそうな顔をした。
だがレオに睨まれると、途端に態度を変える。
先ほどまでの戦う気満々のハンスに戻り、めちゃくちゃだるそうな声で答えた。
「はぁ~い、わかったわかった」
彼はエスタの方を真剣な目で見つめ、話を続けた。
「俺が初めてその瞳のモンスターを見たのは、リースと一緒に下水管の掃除してた時だよ。
最初は鉄蜂の影響かと思ってたけど、今回また出てきて……あ、やべ、何すんだよ」
エスタが振り返り、ハンスの襟首を両手でガッと掴んだ。
彼女は大声で問い詰める。
「いつからだよ!!」
彼女の手が完全に震え出し、息も荒く乱れていた。
ハンスは初めて、彼女の唇が焦燥で震えているのを見た。
何がそんなにエスタを慌てさせているのかはわからないが、彼は答えた。
「鉄蜂討伐作戦が始まる三週間前だよ……」
ハンスは苦しげに言葉を絞り出した。
エスタはその答えを聞くと、ハンスの襟を離した。
彼女は再び指を口に持っていき、強く噛みしめる。顔は歪み、眉がほとんどくっつきそうに寄せられていた。
(くそっ!! もし悪女がそんなに前から落ちていたとしたら……彼女はもうエリゼを殺す準備ができてるはずだ。
それとも……この世界の強制力で、リースを落とすために来たのかも……)
「レオ様、私、もう時間がないんです。残りの報告はハンスから聞いてください」
言い終えると同時に、彼女は嵐のように部屋を飛び出していった。
エスタのストレスは限界まで高まっていた。
不意打ちの襲撃が彼女を完全に混乱させ、気が狂いそうになっていた。
首都から来た悪女が、アッシュズブルックにやってくるというのか。
あの女の標的は……リースなのか、それともエリゼなのか?
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