2-16 目に血が入る 4
薄汚れたアッシェンブルクの路地裏、一般の人なら決して近づきたくないような場所。
路地二番地の奥にある、みすぼらしい酒場の中に、三人の人物が座っていた。
一人は艶やかな黒髪で、きちんとしたスーツを着ている男。
もう一人は灰色の髪で、豪奢な衣服に身を包んだ人物。
そして最後の一人は、性別すら判らないフード付きのローブをまとった者。
アルトニオは仮面をテーブルに置いた。
現れたのは、整った顔立ちながらもひどくやつれた男の顔。
黒い瞳はまるで下水道の排水口のように、濁った汚物を吸い込むような深さを持っていた。
彼は今、仮面越しに自分をじっと見つめているローブの人物の方へ視線を移すと、
甘く、耳障りなほどねっとりとした声でこう言った。
「ははっ、僕、今とっても上機嫌なんだからさ。
そんなに急いで血を啜ったり肉を貪ったりしないでくれよぉ」
「ほう? お前、俺たちの仲間をそんなに使い潰しておいて、よくもまあそんな呑気な口がきけるな」
ローブの人物は激しい言葉を叩きつけたが、
仮面によって変えられた声は、どれほど怒りを滾らせているのかを他人に悟らせなかった。
アルトニオはそんな言葉など気にも留めず、まるで詩を朗読するような甘い声で返した。
「まあまあ、旦那様。そんな些細なこと、気にしないでくださいよ。
今や全ての勢力が、僕たちの提案を受け入れてくれたんですから」
相手はフンと鼻を鳴らし、苛立たしげにテーブルを引っ掻いた。
尖った鎧の指先が木目を長く抉り、ゆっくりと引き伸ばした声で言った。
「たとえあの方に『身を捧げて働け』と命じられたとしても、
俺が自分の仲間を捨ててまでお前に尽くさなきゃいけないわけじゃない」
それでもアルトニオは平然としていた。
彼は指でグラスの縁をくるくると回し、酒を軽く揺らして渦を立てる。
今のアッシェンは明らかにこちら側が優位だ。
だからこそ、彼は刃のように鋭い言葉を、相手を切り裂くように放つことができた。
「まあまあ、怒らないでくださいって。
『経費』がかさんだのは確かですけど、僕が保証します。全て上手くいきますよ。
そしてあの方も、きっとご満足なさるはずです」
言葉を終えると同時に、ローブの人物は右腕の鎧をきしませた。
金属同士が擦れ合う不快な音が響き、仮面の下から荒い息が漏れる。
そして――とテーブルを叩きつけ、踵を返して去っていった。
「お前も知ってるだろう。あの方は俺に『至宝』を授けてくださった。
そしてその至宝に仕えるお前は、つまり俺の部下だ」
アルトニオは歌うように、詩のように言葉を紡ぎ、追い打ちをかけた。
そのせいでローブの人物は、酒場の扉の前で足を止めた。
半分だけ振り返り、短く吐き捨てる。
「……わかってる」
と扉が勢いよく開き、すぐに激しく閉まる。
ローブの人物は歩き去りながら、心の中で呟いた。
(アルトニオ……お前が知らないのは、あの方はもうこの世にいないということだ)
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グレイモアがアルティシアの体を抱きかかえ、一方でリースは老眼のランタンを背負っていた。
だがリースの様子は、くしゃくしゃに丸められた紙くずと大差ない。
体は左に傾いたり右に傾いたり、今にも倒れそうな危うさで歩いている。
服に至ってはボロボロで、麻袋を着ている方がまだマシに見えるほどだ。
到着するなり、ルファスは口をぽかんと開け、目を大きく見開いて、四人の元へ駆け寄ってきた。
「こ、これは一体どういうことだよぉ!!」
慈悲深い若い神官は、甲高い声で叫んだ。
両手がぶるぶる震え、右往左往してどうしていいかわからない様子。
ルファスは治療魔法の腕をリースより何倍も伸ばしたものの、
心が落ち着かず、すぐにパニックになる性分なのだ。
今もまさにそれで、狼狽えて手も足も出せない。
これこそが、リースがこの兄貴分を心配する最大の理由だった。
「なんでもない。ただの子供同士の喧嘩さ、少しだけな」
グレイモアは静かで落ち着いた声で言った。
視線は真っ直ぐ、眉は一本の線のように揃い、口元はへの字に深く落ち込んでいる。
彼はアルティシアを一番奥の病床にそっと下ろし、
リースもまた、向かいのベッドにランタンを横たえた。
ルファスはリースの元へ駆け寄り、肩を掴んで振り向かせると、
震える唇で問い詰めた。
「で、でも! ランタン先生がどうしてこんな姿に……!!」
「腰を痛めたんですよ……」
リースは同じく静かな声で答えた。
眉は一本の線、口角は両方ともだらりと下がり、遠目に見ても完全に同じ表情だ。
そんな奇妙な顔で二人にじっと見つめられたルファスは、
引きつった笑みを浮かべて、逆に聞き返した。
「え、えっと……どうして二人とも、そんな顔してるんですか……?」
「別に理由なんてないよ……ルファス、お前……えっと、俺の薬壺見てきてくれ。燃やさないようにね……」
グレイモアは紙のように平坦な声で答え、ルファスに仕事を押し付ける――本当は、ただ遠くへ行かせたかっただけだ。
「は、はい!!」
ルファスは返事をして、ぎこちなく両手を合わせて敬礼のポーズを取ると、すぐに駆け出していった。
邪魔者がいなくなったところで、グレイモアはリースの頭に止まっている黄色い鳥に向かって言った。
「アズアラ、扉の前で見張りを頼むよ」
「はい、先生」
そう言うと彼女は飛び立ち、ルファスの後を追うように出ていった。
リースは察して、グレイモアのために椅子を引いてやり、自分用にもう一つ持ってきた。
グレイモアはリースが用意した椅子に腰を下ろし、静かに横たわるアルティシアの腕を持ち上げ、指先から肩までゆっくりと撫でていく。
だがその瞬間、アルティシアが疲れ切った、伸びきった声で呟いた。
「……先生……どうして……私に呪いを……」
「だって、お前が自分の弟弟子に容赦なく炎の槍をぶっ放して、そいつの体をボロ雑巾みたいにしちまったからだろうが」
グレイモアはそう答えながら、手を伸ばして大賢者の少女の瞼をそっと閉じさせ、かかった呪いを確認した。
「……灰色の髪の家系……アッシェン家の連中は、王家にとって敵だ。私はそれを排除しなければならない」
隣に座っていたリースは、それを聞いて歯を食いしばった。
灰色――それは間違いなく、自分の髪の色を指している。
(灰色の髪……僕の存在なんて……ない方がいいんだろうな……)
リースの視線は下へと落ちた。
まるで雨が降る前の空が暗くなるように、重苦しい感情が心を覆い尽くす。
彼はマリーナの孤児なんかじゃない。
アッシェン家の者――全ての者にとっての敵なのだ。
拳を強く握りしめ、瞳が揺れ、心は運命を呪い始めた。
だがその時、グレイモアが静かに口を開いた。
「アルティシア、お前は俺が昔教えたことを覚えているかい?
人類最初の呪いとは、愛する者に浴びせられる悪口のことだよ」
その言葉を聞いた瞬間、アルティシアは大きく息を詰まらせた。
リースは慌てて視線を床から上げ、師匠の方を見つめた。
グレイモアの目は、憎しみなど微塵も宿していなかった。
代わりに、そこにあったのは――限りない憐れみと慈しみに満ちた眼差しだった。
彼はそれ以上何も表情を変えず、ただ静かに息を吐くと、言葉を続けた。
「俺がお前に呪いをかけたのは、お前の中に『目に血が入る』の呪いが埋め込まれているからだ。
俺の呪いはお前の魔力を体外へ流し出して、『目に血が入る』の呪いが発動しないようにするためのものだよ」
「……でも、先生の腕がだいぶ落ちちゃったみたいですね……」
アルティシアは、力なく、羽のように軽い声で返した。
まるで心が濃い霧に覆われて、すべてがぼんやりとしているかのように。
だがグレイモアは逆に口元を緩め、まるでズルをして勝った悪党のような笑みを浮かべた。
そして、リースが聞き慣れた、あの小悪魔的な声で言った。
「ありがとう、クソ弟子。それ、最高の褒め言葉だよ」
「先生……」
アルティシアの唇がきつく結ばれ、グレイモアとリースに向けられた瞳は傷つき、涙でいっぱいになり始めていた。
「あれは俺が手を引いた証だ。今は治療の魔術刻印を体に受け入れたせいで、他の系統の魔法は三割ほど効率が落ちちまってる」
グレイモアは誇らしげな顔をしていたが、アルティシアは違う。唇が震えて、
「先生まで……捨てて……」
「でもそれが悪いことってわけじゃない。俺は呪いより治療魔法の方がずっと得意だからな」
そう言い終えると、彼は隣に座るリースの背中を軽く叩き、アルティシアの前で例の狐のような調子で言った。
「改めて紹介するよ。こいつが俺の新しい弟子、リースだ。三人目の直系弟子でな。お前ら二人より百倍も可愛い性格してるぜ」
そう言って、今度はリースの方を向く。
「リース、こいつがアルティシア。お前の先輩だ」
リースは驚いたり喜んだりする様子はなく、戦いが始まってから何度も聞かされていたことだった。それでも、こうして正式に紹介されるのは良い機会だ。
彼は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「僕、リースです……初めまして、先輩のアルティシア」
アルティシアは体を起こして座り直し、涙を拭うと、目の前の灰色の髪の後輩を苦々しい目で見つめた。
その視線を感じ取ったリースは、静かに座り直し、言葉を失った。
グレイモアはそんな二人を眺めて首を振り、大きく息を吐くと、真剣な声で話し始めた。
「いいか、アルティシア。俺はこの髪の色の奴を何十人も見てきたが、アッシェン家の人間なんて一人もいなかった。だからって、灰色の髪の奴はみんなアッシェン家だって決めつけるのは違うぞ。
たとえリースが本物のアッシェン家だとしても、このガキはマリーナの人間だってことには変わりない」
グレイモアが言い終えると、アルティシアはどさっと再び横になった。
そして、わざとらしく「ふぅ~、ふぅ~」と大きなため息を連発し、不満を全力で表現している。
大賢者の少女のわざとらしいため息が部屋にしばらく響き渡った後、リースがついに口を開いた。
「……それで、どんな家系なんですか? 王家にとっての敵である、アッシェン家って」
その言葉に、アルティシアはびくっと体を震わせて驚いた。
一方のグレイモアは、にやりと満足げに笑い、もう一度リースの背中を軽く叩いた。
そして、ずっと溜め込んでいたような言葉を、ようやく吐き出す。
「この話で一番上手に答えられるのは、向かいのベッドで寝てる英雄ランタンだな」
『英雄ランタン』という言葉を聞いた瞬間、アルティシアはまるで糸を強く引かれた人形のように、びょん! と跳ね起きた。
彼女は目を大きく見開き、隣のベッドにいる老人を見つめた。
そして、背中を痛めてぐったりと横たわっている老眼のランタンは、
ねっとりとした、引き伸ばしたような声で口を開いた。
「短く言うとな。五十年前、アッシェン公爵家が反乱を起こして、俺たちに鎮圧されたんだ。それでアッシェンブルクは四つに分割された。ランタナ、ランタン、ロゼンポート、そして今俺たちがいるこのアッシェンブルクだ」
リースはその言葉を聞いて、アルティシアと同じように目を大きく見開いた。口がぽかんと開いたまま、声も出せない。
(爺さんランタンが……英雄……?)
優しいおじいちゃんが教えてくれた治療魔法の師匠。
さっき腰を痛めたばかりの老人。それが反乱を鎮圧した英雄だなんて。
英雄なら称賛されて、豪華な屋敷に住んでるはずなのに、こんな小さな町で普通の神官をしているなんて。
疑問が泉のように次々と湧き上がり、リースはついにいくつかの言葉を口から零した。
「……それじゃあ、なんでランタンさんがここにいるんですか?」
「アッシェンの反乱を鎮圧するために、マリーナ様から聖なる加護を賜ったんだ。反乱を終わらせた後は、約束通りここに残ることになった……」
ランタン神官はほとんど即座に答えた。
苦しげに息を整え、大きく息を吸い込んでから、再び声を絞り出す。
「……今は奴らが戻ってきたようだな。だが、闇に潜んで戻ってくる方がよほど恐ろしい……。だがな、リースは関係ない。あいつは生まれてからずっとマリーナの元にいたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、アルティシアはリースの方を振り返り、苦々しい視線を向けた。
彼女はシーツを握りしめ、くしゃくしゃにしわくちゃにすると、目をきつく閉じて、再び体を投げ出すように横になった。
毛布を頭まで引き上げて、背中を向ける。
「……私、嫌いよ……後輩のくせに」
毛布の塊の中から、くぐもったけれど聞き取れる声が漏れ出した。
リースはそれを聞いて、深くため息をついた。
(でも……今は先輩を嫌いになんてなれないよ……)
彼の視線は下に落ちず、まるで心の中で何かが芽生え始めているかのように、しっかりと前を向いていた。
歯を食いしばっていた口がゆっくり開き、驚くべき質問が零れ落ちる。
「……先輩のアルティシア、聞いてもいいですか?
誰が先輩に、僕がアッシェン家の人間だって教えたんですか?」
「なんで私がお前に教えなきゃいけないのよ?」
アルティシアは、喉が枯れたような、かすれた声で返した。
まるで自分を全力で抑え込んでいるかのように。
だがリースはそこで止まらなかった。
「だって、僕はナッボ村の教会で先輩を助けに行った神官だったからですよ!」
「はあっ!?」
アルティシアは三度目の跳ね起き。
赤く充血した瞳が大きく見開かれ、口がぽかんと開き、眉がきつく寄って今にもくっつきそうだった。
グレイモアはその様子を見て、腹を抱えて笑い出した。
ほとんど仰向けに倒れそうなくらいに。
「素晴らしい、素晴らしい!」
手元のストックが完全になくなってしまいました……!汗 残りの3話はまだ推敲中で、お出しできる状態ではありません。 今週はちょっと静かになるかもしれませんが、よろしくお願いします。えへへ
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現在、僕は多大なる励ましを必要としています。
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