表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/33

1-5 故郷への旅 4

 アッシェンブルクの冒険者のギルドは、ランタナのような賑わいはないが、墓場のように静まり返っているわけでもなかった

 この街にはダンジョンがなく、魔力の湧出地も少ないため、恐ろしいモンスターはあまり現れない。主な産業は農業で、モンスターの素材を売る商売に比べると収入は少ない。

 それでも、低ランクの冒険者がこの街を支え、少なくとも経済を動かし続けていた。

 リースは迷わず冒険者用のカウンターに歩み寄った。そこに座る受付嬢のマーラが、落ち着いた声で声をかけた。

「リース、来たわね」

「おはようございます」

 リースは軽く頭を下げ、礼儀正しく答えた。彼女は彼のまだ眠そうな目を見据え、静かに息を吐いた。

「これが今日の依頼書よ。よく確認しなさい」

「はい」

 マーラの手が一枚の紙を差し出した。落ち着いた仕草に、上品さがにじんでいた。リースは静かにそれを受け取り、軽く頭を下げ、踵を返して去った。

 その背中を見つめるマーラの目は鋭く揺れた。

 あまりにも礼儀正しいその態度が、彼女の目に留まった。

 数多くの冒険者を見てきた彼女の感覚に、何かが引っかかったのだ。

 彼女にとって冒険者の生活は遠いものだったが、この少年には何か特別なものがあると、妙に気になった。

「ランタナでの経歴を調べる必要があるわね」

 マーラは独り言を呟き、書類に目を落とした。

 少年は受け取った依頼の紙を見つめた。それは一般的な下水管の清掃作業だった。アッシェンブルクの管は、鉄や木の板で覆われた単なる水路で、大都市の下水道とは違い、さほど難しくない。

「お、リースじゃねえか? いつ戻ったんだ?」

 街の食堂の主人が声をかけてきた。リースは丁寧な口調で答えた。

「昨日です」

「今日ここで何してんだ? 店はまだ開いてねえぞ」

「水路の清掃の仕事を受けました」

 それを聞いて、食堂の主人は満足げに笑い、リースを建物の裏に案内した。

「水が溢れてるのはこの辺だ」

 彼が指差した先、坂道の水路から水が溢れ、道路を流れていた。不衛生な臭いが漂い、近隣に迷惑をかけていた。

「じゃあ、頼んだぞ」

 リースは鉄の棒で水路の蓋を一つずつ開け、スコップで汚物を掻き出して横に積んだ。

 泥や汚物の臭いは不快だったが、ランタナの水路に比べればまだましだった。

 あそこでは小さな排水路ですら、底が見えないほど濁っていた。

 この仕事はリースにとって楽な部類だった。

「よお、お前」

 どれだけ時間が経ったか、別の冒険者がやってきた。顔を上げると、知った顔があった。かつてリースと同じ試験を受けた者だった。

「お、リースじゃん!」

 髪が乱雑に跳ね、自信に満ちた笑みを浮かべる少年。古いマフラーには修繕の跡が無数にあり、この二年間の努力を物語っていた。

「ハンス、久しぶりですね」

 リースは作業を止め、スコップに手を預け、汗と汚れにまみれた顔で微笑んだ。

 ハンスはリースより二歳年上で、あの試験ではトップだった。

 リースとアンジェリカが五人中最後に帰ってきたからだ。

「ランタナから戻ったって聞いたぜ。もう仕事始めてんのか?」

「はい、昨日戻ったばかりで。持ち金もほとんどないんで、稼がないと」

「で、どれくらい進んだんだ?」

 ハンスが重ねて尋ねた。リースは振り返り、開けた蓋が二つの通りを越えて長く連なっているのを見た。汚物が道沿いに積み上がっていた。

「そうですね、数えてないですけど」

 もう一方を見ると、残りは二ブロックほどで街の壁に達する。

「ここから手伝ったら、報酬は半分ずつか?」

「いいですよ。どうせ後で片付ける必要もありますし」

「はは、そりゃそうか!」

 ハンスは袖をまくり、鉄の棒で次の蓋をこじ開けた。リースはスコップで汚物を掻き出した。

「変だな。泥は少ないのに、なんで水が溢れてんだ? どこまで開けるんだよ?」

「詰まってる場所が見つかるまで開けるしかないですね」

 蓋はブロックを越え、街の壁まであと少しというところまで開けられた。だが、残りの蓋はすべて鉄製だ。ハンスは次の蓋を見ながら大きく息を吐いた。

「こっからが本番だな」

 リースは苦笑いし、泥を掻き出して置いた後、ハンスが次の蓋をこじ開けた。蓋が開いた瞬間、犬ほどの大きさのネズミが飛び出してきた。

「うわっ!?」

 ハンスが驚きの声を上げた。近くにいたリースはスコップでネズミを叩き、仰向けにひっくり返した。ネズミは素早く起き上がり、恐ろしい叫び声を上げ、凶暴な目で睨んだ。

「なんだあれ!?」

「ただの赤歯ネズミですよ」

 赤歯ネズミは大きなモンスターのネズミで、鉄分を含む硬い歯は木をかじれる。どこにでもいる、さほど危険でないモンスターだ。

 普段は臆病で戦闘能力はほぼないが、この個体は違った。

 緑であるはずの目が、紫がかった暗い色で、かすかに光を放っていた。

 巨大なネズミが再び咆哮し、まるで自分が狼だと信じているかのように素早くリースに飛びかかった。だが、ネズミは所詮ネズミだ。

 手に持ったスコップで頭を叩き、空中で飛ぶネズミを地面に叩きつけた。リースは迷わずスコップで首を切り離した。

 巨大なネズミを倒したが、水はまだ流れていない。まだ何かあるのだ。

「どうする?」

 ハンスは少し恥ずかしそうに尋ねた。さっきの大声が恥ずかしかったのだろう。

「もう一つ開けましょう」

 リースはスコップを置き、短剣と盾を手に準備した。ハンスは苦笑いし、次の蓋に鉄の棒を差し込んだ。だが、開けた先に現れたのはモンスターではなかった。

 腐臭が漂い、動物の死体が詰まっていた。ネズミや鶏の頭、小さな蹄のついた足は山羊のものか、猿らしき手を持つ腕。だが、胴体や内臓はなかった。

「うわっ……こりゃギルドに報告だな」

 恐ろしい光景に、二人は同時に情けない声を上げた。


 ギルドに報告すると、すぐに人が派遣されたが、アッシェンブルクは人手不足で、他の街から来た者も動員された。

 そこにハンサムのパーティーが加わり、作業を終えた。

「わざわざ手伝ってくれて、ありがとうございます!」

 リースはハンサムとスレスに頭を下げて感謝した。二人の大人は笑顔で応じた。

「いいってことよ。お前も随分助けてくれたし、貸し借りなしだろ」

 ハンサムの笑顔には大人の優しさが滲んでいた。リースは彼ならパーティーを成功させられると確信した。

 報酬を分け合い、皆が解散した。

「リース、少し待ちなさい」

 冷たく、しかし落ち着いた声が響いた。振り返ると、少年は凍りついた。

 受付嬢でありギルドの重役でもあるマーラが、特徴的な眼鏡を軽く動かし、鋭い視線で睨みつけた。

 その視線と堂々とした態度で、リースはアッシェンブルクの新しい三つの規則を思い出した。

 銅ランク以下の冒険者は、モンスターとの戦闘を伴う仕事は禁止。

 震える手で首に下げた錫のバッジに触れた。一日で辞めさせられるかもしれない。

「はい……マーラ様」

 リースは震える声で答え、目を合わせないようにした。だが、彼女は静かに息を吐き、落ち着いた口調で続けた。

「今日のモンスターは不可抗力だったことは理解しているわ。ただし、戦闘の仕事が禁止されている理由は分かったはずよ」

「はい、あのネズミ、何か異常でした」

 それを聞いて、マーラは静かに頷き、鋭い視線がわずかに和らいだ。

「最近、この地域で野生動物やモンスターが消えているという報告が上がっている。だが、調査しても外来のモンスターや危険な存在は見つかっていない。ただ、一部の小動物が異常な攻撃性を示している。あのネズミのようにね」

 リースは次の蓋の下の恐ろしい光景を思い出し、あれが小さなネズミの行動ではないことに身震いした。

「だから、改めて警告するわ、リース。不必要にモンスターと戦うのはやめなさい。」

「はい、承知しました」

 少年はしっかりした声で答えた。マーラの口元に、わずかに満足げな微笑が浮かんだ。

 彼女はカウンターの男性スタッフを手招きし、彼は銀の大貨幣五枚を載せたトレイを持ってきた。

「これは昨日、ワガス様からの手紙を届けた報酬よ。赤歯ネズミの分は後日受け取りなさい」

「ありがとうございます」

 リースは硬貨を受け取り、丁寧に頭を下げた。男性スタッフは穏やかな笑みを返し、リースは冒険者のギルドを後にした。


 夜、宿の扉が開いた。少年はカウンターに向かった。この時間、食堂の客は帰り、宿泊客も部屋に戻っていた。

「いらっしゃいませー!」

 ニシャがカウンターに座り、退屈そうに帳簿を眺めていた。喉からうめき声が漏れ、誰が来たかも見ていなかった。

「ただいまです」

 リースの声に、年上の少女の目が帳簿から離れた。彼女は戻ってきた少年を見た。

 リースはカウンターに近づき、袋から銀貨を取り出し、置いた。ニシャの目は水を得た魚のように輝いた。

「宿代を前払いしたいんです」

「おお! 大銀貨五枚! 宿と食事で四十日分だよ!!」

 少女は五枚の銀貨を頭上に掲げ、揺れながら歌うように叫んだ。まるで女神の祝福を受けたかのようだ。

「迷惑じゃなければ、夕飯をお願いできますか?」

「もちろんよ!」

 ニシャは明るい声で答え、銀貨を錠付きの木箱にしまった。そして、厨房に走っていった。

 リースは食堂のテーブルに座り、安心した。これでしばらくは大丈夫だ。

 昨日、冒険者を辞める決意を固めたことなど、すっかり忘れていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ