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2-14 目に血が入る 2

 リースは急いでマリーナの教会へと駆け込んだ。

 周囲の神官たちを気にすることもなく、そのままグレイモアの作業部屋へと突き進む。

 扉を押し開けた瞬間、煮詰めた薬草の強烈な匂いが鼻を突いた。

 目が痛むほどだったが、リースは無理やり中へ踏み込んだ。


「グレイモア様、お力を貸してください!」


 薬釜に集中していたグレイモアが、ゆっくりと顔を上げた。


「どうしたんだい、愛すべき弟子よ」


 彼は鼻を覆っていた布を下ろしながら言った。

 いつもの狐のような狡猾な笑みが顔に浮かんでいる。

 普段ならリースはこの表情があまり好きではなかった。

 だが今は違う。

 この表情こそが、今一番欲しかったものだった。

 なぜなら、それはグレイモアが上機嫌で、からかう気満々である証拠だったからだ。


「グレイモア様……黒魔術の呪いを解くことは、できますか?」


 その言葉を聞いた瞬間、グレイモアの顔がまるで尻尾を踏まれた犬のように歪んだ。

 彼は慌てて薬杓子を放り出し、リースの元へ駆け寄ってきた。

 両手でリースの肩を強くつかみ、痛いほどに握りしめる。

 そして、声が震えながらも言葉を絞り出した。


「き……君は一体、どこでそんなことを……?」


 その声色だけで、リースはすぐに悟った。

 自分が今、絶対に触れてはいけない危険な領域に足を踏み入れてしまったことを。

 それでも、今は時間を無駄にしている余裕などない。


「呪われた方がいるんです。グレイモア様なら、助けていただけると思って……」

「誰だ?」

「大賢者、アルテシア様です」

「なっ……なんじゃあああああ!!

 せっかく俺がこんな遠くまで逃げてきたというのにぃぃぃ!!

 まだ追っかけてくるのかああああ!!!」


 名前を聞いただけで、もともと震えていた声が一気に甲高い悲鳴のような音に変わった。

 まるで車輪に轢かれたカエルのような、苦しげな声だった。


 グレイモアは絶叫しながらその場にへたり込み、両手を頭に当てて地面に転がり、まるで駄々をこねる子供のようによがきまわった。

 その様子を見ていたリースは、思わず大きく息を吸って気持ちを落ち着かせ、

 大きな声で叫んだ。


「グレイモア様!!」

「……う、うん」


 その声に反応して、グレイモアはむくりと立ち上がった。

 彼は服の乱れを直し、落ち着いた様子を取り繕うと、

 まるで魂が抜けたかのようにふらふらと歩き、愛用の椅子へと向かった。

 そしてどさっと腰を落とし、椅子をくるりと回して足を組むと、

 弟子の青年に向かって例の狡猾な笑みを浮かべて言った。


「ふむ……リース。俺は……もう君を助けられないかもしれないね」

「……はい、わかりました」


 その言葉を聞いたリースは、肩を落として大きく息を吐き、うつむいてしまった。

(グレイモア様が助けてくれないとなると……他の人に頼むしかない。でも、もし他の人にも無理だったら……どうすればいいんだ?)

 頭の中の不安がどんどん膨らんでいく。

 もう選択肢はない。今は一刻も早く動かなければ。

 そう思ってリースはくるりと背を向け、部屋を出ようとした。

 だが、手が扉に届くか届かないかの瞬間――


「オイオイ、ちょっと待てよ! 無視して出てくつもりか?

 俺に、もうちょっと頼み込んだり甘えたりしないのかよぉ?」


 グレイモアが慌てふためき、立ち上がって手を伸ばした。

 今にも出て行ってしまいそうな弟子を必死に引き止めようとしている。


「でも、グレイモア様が助けられないとおっしゃったので……

 マリッサ様や他の皆さんに頼んでみようかと」


 その瞬間、マリッサという名前を聞いたグレイモアは、

 またしてもその場にへたり込み、

 両手で頭を抱えて床の上をゴロゴロと転がり始めた。


「うわあああっ! このガキ、知り合ってまだ一ヶ月半しか経ってないのに、もうマリッサを盾に脅してくるなんてぇぇ!?

 なんでこんなに策士になっちゃったんだよぉぉ!!」


 グレイモアの、まるで小指の先を家具の角にぶつけたような悲痛な叫び声に、

 リースは顔をどうしていいかわからず固まってしまった。

 だってリースの本心では、誰かを脅すつもりなんてこれっぽっちもなかったのだから。

 しばらくじたばたと暴れた後、グレイモアはぴょんと跳ね起き、

 服を整え、いつもの狡猾な表情を完璧に作り上げた。

 そしてリースの方を向き、まるで客に背を向けられたセールスマンのように、

 必死に声を張り上げながら言った。


「俺は『助けられないかもしれない』って言っただけで、

 何もできないって言ったわけじゃないんだからね?」


 リースはそんな師匠の明らかに乗り気じゃない態度をじっと見つめ、

 静かに、落ち着いた声で返した。


「……つまり、助けてくれるってことですね?」


 グレイモアはそれを聞いて、喉の奥で「くっ」と小さく唸り、

 渋々といった様子で答えた。


「……ちっ、わかったよわかった。助けてやるよ。

 でも結果は保証しないからな!」


「ありがとうございます、グレイモア様」


 リースは深々と頭を下げ、心からの感謝を込めて礼をした。

 目的は無事に達成できたものの……どうやら彼と師匠の間には、ちょっとした認識のズレが生じてしまったようだ。


「でも、俺一人じゃ無理だよ! 誰かに手伝ってもらわないと!」


 グレイモアの狐のような笑みが戻り、彼は素早く机に戻ると、

 一冊のノートを引っ張り出してパラパラとめくり始めた。

 それは教会の治療施設で働く神官たちの当番表だった。


「うおお! 超ラッキー! 今行けばちょうど会えるかも!」


 彼は勢いよく立ち上がり、ドアの前に立つリースに向かって大股で近づいた。


「さあ、急ごうぜ!」


 グレイモアは自信たっぷりに、まるで大人の余裕を見せつけるような優しい笑みを浮かべた。

 だがリースはその表情をあまり信用していなかった。

 この男には散々痛い目に遭わされてきたからだ。

 二人は急ぎ足で教会を出た。

 もちろん、煮詰まっている薬草の鍋を他の神官に任せるのも忘れなかった。


 治療施設の扉をくぐった瞬間、リースとグレイモアは、

 部屋中に立ち込める薬とハーブの匂いを一切気にすることなく、

 当番の神官が休むための部屋へと直行した。


「ラントン師匠!!」


 扉を開けるなり、グレイモアは勢いよく飛び込んで膝をついた。

 まるで借金取りに頭を下げて猶予を乞うような、必死の姿勢だった。

 部屋の中にいたのは、リースがよく知る老神官。

 白髪にわずかに青みがかった眉と髭、慈愛に満ちた穏やかな瞳、そして独特のゆったりとした柔らかい声。

 彼こそが、リースにポーションへ治癒魔法を込める方法を教えてくれた、

 老神官ラントンだった。

 その光景を見たリースは、大きく息を吐き、

 気まずそうに頭を下げながら、口から出そうになる言葉を必死に抑えた。

(……まあ、予想はしてたけど、やっぱりラントン師匠か。

 こうなるなら最初からここに来ればよかったのに……)


「ここまで来るのに、随分と時間がかかったな」


 老神官ラントンが、まるで全てをわかっているかのように言った。

 その言葉にリースは息を詰まらせ、驚きのあまり固まってしまった。

 グレイモアは気まずそうに顔を歪め、

 今にも飛び出しそうな言葉を慌てて飲み込み、

 代わりに両手を擦り合わせて媚びるような笑顔を浮かべた。


「ラントン師匠……もう大賢者アルテシアのことをご存知だったんですか?」

「アルテシア? 知らんよ。

 待っていたのは『特別な』患者がいるってことだ。

 ちょうどルーファスに、お前を呼んでこいと命じたところだったんだ」


 そう言い終えると、ラントンはゆっくりと椅子から立ち上がり、

 年齢に似合わぬしなやかな動きで体を軽く捻り、

 二人を鋭く細めた目でじっと見据えた。

 そして、柔らかくも圧倒的な威圧感を帯びた低い声で続けた。


「ついて来い」


 言葉を落とすなり、ラントンは二人を先導して歩き出した。

 向かった先は、先ほどリースとグレイモアが素通りした治療室だった。

 病室には五つのベッドがあり、それぞれに負傷者が横たわっている。

 全員が銅ランクの冒険者で、戦闘で負った傷を負っていた。


「今日はなかなか大変だぞ」


 ラントンはそう言いながら、一人ひとりのベッドを回り、

 傷口にそっと触れて確認した後、グレイモアの方を振り返って言った。


「この者たちの傷には呪いが残っている。

 まずそれを除去せねば、治癒魔法も効かんのだ」

「ちょっと待ってください師匠! こっちも急を要してるんですよ!!」


 ラントンが言い終わるや否や、グレイモアが甲高い声で食い下がった。

 だがラントンは目をさらに細め、

 まるでグレイモアを貫き通すような鋭い視線を向けた。


「やらなきゃ、俺は動かんぞ」


 ラントンの宣言は、まるで決して崩れない巨大な壁のように、

 どっしりと重く、揺るぎないものだった。

 その一言にグレイモアは思わず顔を背け、視線を逸らした。

 グレイモアは歯を食いしばった。

 この老人とは長い付き合いだ。

 だからこそ知っている。

 表向きは優しい老神官の顔をしているが、中身は完全に牙を剥き出しの、容赦ない鬼畜野郎だということを。

 リースとは違い、リースはまだこの男の良い面しか知らないのだから。

 だからこそ、渋々ながらも声を絞り出した。

 狐がごはんを奪われたような声で。


「今回は……可愛い弟子に甘えられて頼まれたから、仕方なくやってやるんだぞ、このジジイ!!」


 言い終えるなり、グレイモアは患者のベッドへと歩み寄り、

 一番手前の男の腕を掴んで、すぐに状態を確認し始めた。


「見習っておけ」


 ラントンはリースの方を振り返り、穏やかな声で言った。

 そして、リースの背中を軽く叩いた。


「はい」


 リースは頷き、ラントンに礼を言ってから、

 グレイモアの隣に並んで立った。

 グレイモアは弟子がすぐ横に来たことに気づき、

 ちらりと視線を向けて尋ねた。


「準備はいいか?」

「はい」


 リースがそう答えると、グレイモアはすぐに呪文の詠唱を始めた。

 手のひらから青い魔力の粒子がふわりと浮かび上がり、

 最後の言葉を勢いよく叫んだ。


「おい、この穢れたクソ野郎! バカ面さらけ出せ!!」


(……あの、グレイモア様……あれ、本当に呪文なんですか?)

 最後の締めの言葉があまりにも下品すぎて、

 リースは思わず師匠の方をぱっと振り向いてしまったのだ。

 だが、そんな適当そうな呪文だったにもかかわらず、見事に成功した。

 青い輪が現れ、負傷者の傷口の周りをぐるぐると回りながら浮かんだ。

 その魔法陣はもう一つの魔力を吸い上げ、紫がかったピンク色の呪文文字を浮かび上がらせた。

 その文字はグレイモアの青い魔法陣の上をぐるぐると回り続けている。


「よく見てろよ、リース。これが呪いだ。

 完全な循環回路を持つ魔法序列で、普通の魔法みたいに自然に消えたりしない。

 自分で勝手に被害者の魔力を吸い上げて、内側からじわじわと食い荒らして、

 最終的に死に至らしめるんだ」


 グレイモアはそう説明しながら、慎重に指でその様子をリースに示した。


「じゃあ……それをどうやって壊すんですか?」

「序列のパターンをしっかり見極めて、どんな魔法でもいいから割り込んでぶっ壊すんだよ」

「はい」

「ここだ」


 グレイモアが指差したのは、回転する呪文文字の一つだった。

 リースは手を前に差し出し、渦巻く文字の魔力の流れを捉えようと集中する。

 そして――


「ヒール……」


 呪いの序列が徐々に色を変え、やがて完全に霧散していった。

 思ったより簡単だった。

 リースは満足げに師匠の方を振り返った。

 だが、グレイモアの表情は妙にそっけなかった。


「調子に乗るなよ、ガキ。

 これ、知性のない獣の呪いだぞ。最下級のレベルだ」


 冷たく落ち着ききった声が返ってきた。

 目の前の出来事に一切興奮していない。


「人間が作った呪いはもっと厄介だ。

 魔法序列が蜘蛛の巣みたいにぐちゃぐちゃに絡み合ってる。

 一つでも外すと、隠れてた別の呪いが発動するんだ。

 そしたらもう、大惨事だぞ」


 そう言いながらも、彼はリースの背中を軽くポンと叩いた。


「まだまだ学ぶことが多いぞ、俺の愛弟子」


(……同時に複数の魔法を詠唱するって、こういうことか……)

 軽く触れた手のひらの感触に、リースは薬室でグレイモアにからかわれたあの日を思い出した。

 複雑な呪いを解くには、複数の魔法を同時に詠唱しなければならない。そうして回路の複数のポイントを一気に断ち切るのだ。

 彼はゆっくりと師匠の方を振り返り、深い眼差しを向けた。

 その視線を見たグレイモアは、喉の奥で満足げにくすくすと笑い、

 こう言った。


「よし、次だ……」


 それから二人は、午前中いっぱい呪いの除去と治療に費やした。


 全てが終わった後、少し遅れて戻ってきたルーファスが

 リースと二人の師匠に代わって負傷者の世話を引き受けてくれた。

 二人はこれから冒険者ギルドへ向かう。


「任せてください!」


 ルーファスは自信満々に言った。

 最近、彼の治癒能力が大きく上がっていたからだ。

 今は特に自信がある。

(……この間に何か予想外のことが起きませんように……)

 リースは心の中でそっと祈った。




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