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2-11 廃村の闇に潜む影 5

 馬車の車輪が闇に包まれた道の上で徐々に速度を落とし、やがてある場所で完全に止まった。

 アズアラが翼を広げると、薄い黄色の光が強く輝きを増す。


「お二方、アルティシア様はこの村の中にいらっしゃいます」


「正確な位置を特定できるか?」


 エスタが尋ねながら、目を細めてフートンとエリセに視線を向けた。


「いいえ。奴らは黒魔術で結界を張っており、魔力と通信のすべてを妨害しています」


「ふん、魔術師どもと戦うならこういう手は必ず来るわよね」


 彼女は鼻を鳴らした。

 かつての地平線の知識があるとはいえ、簡単に対処できるものではない。

 それでもエスタはまったく動じた様子を見せなかった。

 一方、すでに準備を整えていたリースは、鳥の精霊とエリゼの方を振り返った。

 彼は冷たく聞こえるが優しさを秘めた声で言った。


「アズアラ、エリセのことはカレンさんに任せます。何かあったらすぐに馬車で逃げてください」


「でも……」


「大丈夫です。エリセの命は何よりも大切ですから。僕たちは自分たちだけで何とか生き延びられます」


 リースはエリセに向かって穏やかに微笑んだ。

 眉がまっすぐ下に落ち、瞳が半分だけ覗いている。

 ──その笑顔、あの時とは全然違う。

 二人は馬車の扉を開け、飛び降りた。

 リースは横で待っているカレンに視線を向ける。

 彼女はメイドらしい無表情でこちらを見つめ返してきたので、リースは口を開いた。


「エリーゼを頼むよ。何かおかしいと思ったら、すぐに逃げてくれ」


 彼女は小さく頷くと、馬車に乗り込み、扉を固く閉めた。

 リースとエスタは木の枝を集めて馬車を隠してしまう。


 馬車を隠し終えると、二人は歩き始めた。

 だが、それほど遠くへ行かないうちに、目の前に村らしきものが見えてきた。

 前方一帯は薄暗く、何か結界のようなものが覆っているようだった。

 魔法の提灯がずらりと吊るされているはずなのに、光はほのかにしか灯っていない。

 エスタが腕を上げて進むのを制した。彼女は前を向いたまま、振り返らずに言った。


「リース、ここは殺界だ。魔法の使用を妨げ、同時に魔力を削り取っていく」


「うん」


「準備ができたら行くよ」

 リースがそう答えると、エスタは暗く重い境界の縁に足を踏み入れた。

 リースも続いて踏み込むと、すぐに何かが違うと感じた。

 彼は右手を掲げ、呪文を唱え始める。

 掌の上に青い光が生まれたが、たちまち散って消えてしまった。

「これがエスタの言ってたやつか」

 リースは小さな声で呟いた。


「魔力が流れ出してる。でも、問題になるほど漏れてるわけじゃない」


「あなたは感じないかもしれないわ。聖職者系にはこういうものへの耐性があるから」


「耐性……」


 リースは思わずその言葉を繰り返したが、すぐに思い至った。

 正式な聖職者ではないけれど、女神マリーナの信徒として、治癒の魔導文字を刻まれている。

 その力が、今も彼を守ってくれているのだ。


 二人は村の周囲の森を這うように進み、闇に溶け込みながら、魔法の提灯が道案内する大きな屋敷へと忍び込んだ。

 だが、その暗く薄暗い道中、誰の影も一切現れなかった。

 リースはエスタを壁越しに飛び越えさせ、正門の閂を外させる。

 彼女が扉を開ける間、自分は左右を警戒しながら中へと入り込んだ。

 大賢者級の人物を監禁しているはずの場所が、なぜほとんど無人なのか。

 地下室への降り口の扉を守っている男が、たった一人いるだけだった。

 疑念が心を蝕み始めていたが、ここまで来て疑問を口にする余裕はない。

 お互いを信じるしかない。その時、エスタがリースの腕を軽く叩いた。


「私の魔力、今は隠形の魔法を一回分しか使えないわ」


「エスタ……」


「さあ、静かにね、リース」


 エスタの瞳が薄紫に輝いたかと思うと、彼女の姿は闇に溶け込んで消えた。


「ぐっ!!」


 一瞬の後、リースは見た。

 エスタの剣が背後から静かに男の胸を貫いているのを。

 男は音もなく倒れ伏し、エスタは剣を軽く振って血を払った。

 細められたエスタの瞳は、任務を完遂した時いつも見せる魅惑的な輝きを帯びていた。

 ──エスタは……人を殺すことに何の感情も抱かない。

 リースの心に冷たい嵐が吹き荒れた。

 剣の柄を握りしめた右手が震え始める。

 エリーゼの護衛たちが同じように命を落とした光景が脳裏に蘇る。

 あの時倒れた男も、同じ状況だった。

 ただ、剣はエスタのものだった。

 リースが知る冒険者たちの死は、強すぎる魔獣との正面からの戦いだけだった。

 彼は奥歯を噛みしめ、全身で呼吸を抑え込んだ。

 死体を跨ぎ、地下室の扉を開ける。

 もう一度エスタの方を振り返り、顔を曇らせ、息も絶え絶えな声で言った。


「行こう、エスタ。アルティシアはきっと下にいる」


 二人は階段を降りてきたが、地下室のはずが、村の下に続く長い横穴だった。

 エスタの魔灯は殺戮領域の妨害により、微かな光しか放てなかった。

 だが、奥へ進むにつれ、その輝きは徐々に増していった。


「わあ、このトンネルって一体どれだけ長いんだろう」


 エスタが歩き始めてしばらくして、ぽつりと呟いた。


「もう百歩は優に超えている……おそらくは、エスタ!」


 リースが道の中央に置かれた何かを指差す。

 二人は軽く頷き合って駆け寄った。

 それは膝くらいの高さの石台で、そこに黒髪の少女が一人横たわっていた。

 手足は干からびた蔓で縛られ、目には黒い布が巻かれている。

 エスタは魔灯を掲げて少女の姿と顔を照らし、じっくりと観察した。

 艶やかな黒髪は自分とそっくりで、整った顔立ちは今は青白く、血の気がない。


「あーあ、降りてきてすぐこれかよ……次はボス戦確定コースだね」


 エスタはまるで日常茶飯事のように長い溜息をつきながら言い、それからいつもの調子でリースに向き直った。


「リース、この子がアルティシアだよ」


「はい」


 エスタがそう断言すると、リースは短剣を抜いて蔓を切り裂き、目隠しの布を解いた。

 だが、布の下から現れたものを見て――

「エスタ、目が……」


 アルティシアの目の周りは黒く隈取りのようにくすみ、まぶたには小さな呪文字が刻まれていた。

 エスタはもう一度魔灯を近づけて照らす。


「視力を封じる呪いだろうね。自分がどこにいるかわからないようにするためのもの。でもマリーナ教会なら対処できるはず。早く連れて行こう」


 エスタがそう言うと、リースは素早く少女を背負い、来た道を引き返した。

 だが、大邸宅という牢獄から一歩外へ出た瞬間、アルティシアは甲高い悲鳴を張り上げた。


「やっぱりね……」


 エスタはだるそうに長い溜め息を吐きながら、そう呟いた。

 言葉とは裏腹に、彼女は素早く剣を抜き払い、鋭い構えで戦闘態勢に入る。

 男が三人、現れた。

 手に持つ魔法具が紫色の光を放っている。

 彼らが呪文を唱えると同時に、地面から狼の姿をした模造魔獣が何体も湧き上がってきた。

 そのうちの一人が、口元を三日月のように吊り上げて不気味に笑う。


「俺たちゃ最初から知ってたぜ。お前らがアルティシアを奪いに来るってことはな。ただ、いつ来るかだけだよ」


「ふん、こっちだってわざと罠を踏みに来たんだからね」


 エスタは投げやりな口調で返事をしながらも、奥歯を噛み締めていた。

 リースにはわかっていた。

 この状況は、二人だけで簡単に切り抜けられる舞台じゃない。

 背中にアルティシアを負ぶったまま、目の前には無数の模造魔獣が立ち塞がり、魔力がじわじわと吸い取られていく。

 まるで、逃げ場をなくして袋の鼠にするかのように。


「仕留めろ!!」


 魔術師の一人が怒鳴った。

 模造魔獣たちが即座に二人に向かって襲いかかる。

 エスタは自分の剣で一匹を斬りつけ、爆発させた。

 残りの三匹が一斉に飛びかかってくる。

 リースはアルティシアの体を地面に下ろす。

 彼は無言で三つの強化魔法を唱え、右手でエスタを後ろに引き戻す。

 それから左手の盾で模造魔獣たちを叩き飛ばし、互いに衝突させた。

 彼は急いでエスタの方を見て、彼女が無事かを確認する。

 だが彼女は転がったりせず、むしろ完璧に構えを整えてすぐに彼の隣に戻ってきた。


「大丈夫?」


「うん」


 エスタが答える。

 それを聞いてリースは鼻から息を吐き、彼はエスタの肩に触れて強化魔法をかけようとするが、驚いたことに魔法が発動しない。


「魔法が効かない」


「この領域は相当強力ね。接触を通じた魔法転移さえできないわ」


 エスタは落ち着いた声で言うが、そこには明らかに粘り気と震えが混じっていた。


「なら、背中を預け合って戦うしかないな」


 リースは硬い声で言いながら構える。

 彼の眉がピクッと動き、心臓が激しく鼓動する。

 目の前の光景に、自身にかけた強化魔法さえも今は妨害されて効果が大幅に低下しているのだ。


「来るぞ!!」


 模造魔獣たちが一斉に二人に襲いかかる。

 リースは盾で払い、叩き、衝撃で跳ね飛ばし、飛びかかってくる魔獣たちを迎え撃つ。

 右手の剣も容赦なく斬り払う。

 彼は背後の二人の女性を全力で体を張って守りながら戦う。

 噛みつかれ、引っかかれても声を上げない。

 一方、エスタはリースの背後に身を寄せ、正確なタイミングで剣を振るい、模造魔獣たちを次々と液体に爆散させる。

 後方から迫る敵からリースとアルティシアを守りつつ、前線の敵も同時に削っていく。

 だが、どれだけ倒しても、それは雑草のように次々と地面から湧き上がってくる。

 根絶やしにはならない。

 息つく暇もない。

 ――このままでは、すぐに力尽きて、喰い殺されるだけだ。

 リースは奥歯を噛み締めた。

 右腕が一瞬の隙を突かれ模造魔獣に噛みつかれた。

 重傷ではないが、戦闘能力は確実に落ちていた。

 だがその時、二人が守っていた少女――アルティシアが体を起こした。


「あの三人の中に……一人……領域の核を……体に隠してる……そいつを倒せば……領域は消える……」


 アルティシアは苦しげに声を絞り出す。息を整えようと必死に喘ぎながら、もう一度言葉を続けた。


「僧侶……あなた、あの核を感じ取れるよね?」


 リースはすぐにわかった。

 アルティシアが言っているのは自分だ。

 でも、どうやってそれを感じ取ればいいんだ? 今、周囲は強烈な魔力を持つ模造魔獣で溢れている。

 リースは魔力を感知できるとはいえ、それらはすべて似通っていて、区別がつかない。

 それに、エスタとアルティシアを守るために戦わなければならない。

 待てよ。

 リースは感じた――彼は盾で模造魔獣を叩き飛ばし、ごくわずかな空白の時間を生み出す。


「わかった」


 彼は小さく声を漏らした。

 体から吸い取られていく魔力が、明確な方向へ流れている。

 あちらを見ると、そこにいるのはただ一人だけだ。


「エスタ、右側!!」


「リース!! 私を飛ばして!!!」


 リースが叫ぶと同時に、エスタも即座に返事をする。

 彼女は目の前の模造魔獣を斬り爆散させ、体を反転させて後方へ跳び退く。


「準備しろ!!!」


 リースは叫びながら、全力で飛びかかってくる模造魔獣たちを一気に叩き飛ばし、戦闘の合間に隙間を作り出した。

 一瞬の間に、エスタは膝を曲げて高く跳び上がる。

 リースは何度も練習してきた通り、盾を頭上に掲げた。

 固まれ、速くなれ、強化する。

 彼は再び強化魔法をかけ、エスタが鉄の盾を踏み台にすると、正確にその男の方向へ彼女を射出する。

 彼女は男の横を滑るように通り抜け、美しく首を刎ねた。

 頭部が地面に落ちた瞬間、暗黒の領域が砕け散る。

 薄暗かった道筋の魔法灯籠が、再び明るく輝き始めた。

 エスタは即座に、もう一人の模造魔獣の操者へ向かって突進する。


「僧侶、動かないで!!」


 背後からアルティシアの声が響く。

 彼女は右手を掲げ、腕の周りに黄色い魔法紋が浮かび上がる。

 無数の鋭い棘が地面から突き上がり、残りの模造魔獣すべてを貫き、液体に爆散させた。

 リースは目を疑った。

 先ほどまで苦戦していた敵が、まるで言葉一つで消滅していく。

 アルティシアは、彼に時間を稼がせることなくこれをやってのける二人目の人物だった。

 一人目はアニアだ。


「今よ!!」


 アルティシアが最後の力を振り絞って叫び、リースの目の前で地面に崩れ落ちる。

 今、模造魔獣は一匹も残っていない。

 新たに召喚するには数十秒の時間がかかる。

 リースはアルティシアをその場に残し、最後の操者へ走る。

 彼は盾で男の体を叩き飛ばし、転がる相手に飛びかかり、剣で斬りつけようとするが――

 リースの手が止まり、震えた。

 心が全力で剣を押しとどめる。

 リースは、人を殺せなかった。

 男はリースが手を止めたのを見て、慌てて立ち上がり、全力で逃げ出す。

 だが、エスタは男の前に突然現れ、剣でその体を真っ二つに斬り裂いた。

 たとえ目的のためとはいえ、リースの心は激しく揺れ動いていた。

 もう一方を見ると、そこにもすべての者が魂の抜け殻と化していた。

 寒気が再びリースの心を激しく襲う。

 冒険……もう、以前と同じではない。

 鉄蜂の巣から帰ってきたときにエスタが言った言葉を思い出す。

 あれは想像以上に酷いことだった――そんな思いが、リース自身も気づかぬうちに口から零れ落ちた。


「エスタ……君は、人を殺して……何も感じないの?」


 次の言葉が何かを悟った瞬間、彼は慌てて歯を食いしばり、必死にそれを飲み込んだ。

 だがエスタは、剣に付いた血を軽く振り払い、平然とした表情で鞘に収める。

 彼女はリースの言葉に少しも動揺した様子もなく、ゆっくりと彼の方へ歩み寄ってきた。

「リース。君は怒ってるかもしれない。怖がってるかもしれない。私のしたことが理解できないかもしれない。でもね、人間にはね、一線があるの。それを越えた瞬間、もう人間じゃなくなる」


 彼女は真剣な声で語った。

 それはまるで、誰かから受け継いだ教えのように響く。

 左手を上げ、リースの頬にそっと触れると、同じ落ち着いた声で続けた。


「君はまだ、この世界を純粋な心で見つめている。私も、君にその心を失ってほしくない……でも、この道を長く歩いてきた者として言わせてもらうなら、純粋な心って、必ずしも『善』とは限らないのよ」


 言葉を終えると、エスタはリースの頬から手を離した。

 彼はただ俯くしかなく、目の前の現実を受け入れるしかなかった。

 それでも、心の奥底では、エスタのその言葉を、どうしても受け入れられなかった。


「リース! 早くアルティシア様を連れて戻りましょう!」


 エスタが声をかけると、ぼんやりと立ち尽くしていたリースはハッと我に返る。

 彼女は少し目を伏せながら、長い溜め息をついた。

 リースが姿勢を正すのを待って、


「うん、行こう」


 リースはそう答え、アルティシアを背負い直し、馬車の方へと向かった。

 その時、空は紫色に染まり、水平線の向こうから金色の光がゆっくりと昇り始めていた。



 馬車が視界から消えた後、影に隠れていた二人のマントを被った男が姿を現した。

 使用していた隠密マントは高級品で手に入りにくいものだが、この事件を生き延びるためにはそれだけの価値があった。

 二人はマントを頭から下ろし、一人は灰色の髪、もう一人は後ろに立つ黒く光沢のある髪を露わにした。

 二人とも魔法具である仮面を着けている。

 これまで領域を使えば常に勝利を収めてきたが、今回は違った。

 誰がアルティシアが呪いを克服し、領域を破壊する方法を伝え、しかもあいつらがほぼ即座にそれを実行するなどと思っていただろうか。


「あの若者は、昨日報告された人物ですね?」


「はい、公爵様」


「もう確認は必要ない。あの少年は間違いなくアッシュェスの者だ。おそらくセレネの子――私の子だ。血の繋がりがそう告げている」


「どう対処いたしましょう」


「試す必要はない。ただ誘うだけでいい。彼は自ずと我々の元へ来るだろう」



【作者より】

ようやく新キャラクターがさらに二人登場しました。 アッシェンブルックへと帰還するリースたちの身に、一いかなる事態が待ち受けているのか。 物語は加速し、次回はあの懐かしいキャラクターたちが再び舞台に姿を現す予定です。


もしお気に召しましたら、ぜひ ☆ や コンメント で応援していただけると嬉しいです!

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