2-5 王都からのお嬢様、ご来訪 4
「エスタ、これが治療ポーションだよ」
「ありがとう、私の騎士さん」
「二柱の女神に守護を祈るよ」
リースは教会の前で待っていたエスタにポーションの入った袋を差し出した。彼女はそれを受け取り、銀貨を渡す。
若者は微笑み返し、別れの挨拶として祝福の言葉をかけた。
エスタの姿が見えなくなると、彼は再び教会の中へ戻り、グレイモアの執務室へと向かった。
「用事は済んだか」
扉が開くと同時に、狐のような声が響いた。
声の主は椅子を回転させて入ってきた者を見据える。
今日の薬草煮込み鍋は空っぽで――それは彼がサボっている証拠だった。
「これを持っていけ」
グレイモアは魔石を正確にリースへと投げた。若者はそれを受け取り、左右同時に持ち上げて輝かせる。
「弱めろ」
命令されると同時に、リースは魔石から魔力を引き抜き、光を徐々に弱めて完全に消した。
「上出来だ。軍事パレードで中断していたとはいえ、毎日鍛錬を続けていてくれて嬉しいぞ」
彼は狡猾そうに顎を撫で、自分の魔石を取り出す。左右に二つずつ。
「次の段階だ。さらに二つ追加して、思いのままに制御してみせろ。こうだ」
彼の魔石が順番に輝いたり消えたり、同時に点滅したり、交互に点滅したりした。
「はい」
リースは懸命に真似ようとしたが、できなかった。左の手と右の手を別々に制御することしかできていない。
「はははは、自分で練習してこい。できるようになったらまた来い」
狐のような笑い声がからかうように響くが、リースは怒らなかった。
このグレイモアのおかげで自分はアンダーアイゼンから生還できたのだから。
だが、疑問が一つあった。
「グレイモア様、この鍛錬にはどんな意味があるんですか?」
笑い声がぴたりと止まる。狐は待ちわびていたかのように、にやりと笑みを広げた。
「お前は確かに三詠唱の強化魔法を高速で発動できる。だが、それは順番に出しているだけだろう?」
「はい」
その通りだった。リースは複数の魔法を同時に使っているように見えるかもしれないが、実際は違う。
彼は詠唱自体が必要ないため、発動工程が短くなるだけだ。
実のところ、ただ高速で連続発動しているに過ぎない。
そしてもう一つの理由がある。冒険者の初級魔法はまったく複雑さがない。だから彼はそれを素早く使いこなせるのだ。
「もしこの鍛錬を続けていけば、お前はいつか複雑な魔法を複数同時に発動できるようになる。一度に多くの人に高度な強化や治療魔法をかけることも可能になるぞ」
それを聞いて、リースは心から嬉しくなった。
もしそれができれば、パーティーの戦闘で非常に役立つはずだ。
――もっとも、マリーナの系統の強化魔法は直接触れて魔力を送り込む必要があるのだが。
それでも、嬉しい答えをもらったものの、リースの疑問はまだ尽きていなかった。
「グレイモア様、今までで一番多く同時に制御できた人はどれくらいですか?」
好きな弟子からの質問に、グレイモアの口元がにやりと伸びる。
「古の賢者は百同時にできたという話だ。現代の高位魔術師なら四~八が限界だな」
「グレイモア様は高位魔術師なんですか?」
「はははは! 違う! 辞めたんだ! あんなクソみたいな裏方仕事、二度と戻るかよ!」
言い終えると、老狐は誇らしげに鼻を突き出した。
だが突然、顔の笑みが消え、喉の奥でくすくすと笑い始めたかと思うと、口を開いた。
「お前の前に、俺には直伝の弟子が二人いた。一人は二十四、もう一人は十六だったが技は非常に巧みだった。弟子に追い抜かれるなんて、俺はすっかりやる気を失ってしまったよ」
言い終えると、彼は窓の外に視線を投げ、長く息を吐いた。
口元に懐かしそうな笑みが浮かぶ。
「それで辞めて、アンダーアイゼンを探しに来たんですね」
リースの頭の中で響いていた言葉が、考えもせず口から滑り出てしまった。
すると同時に、グレイモアの頭の中で何かが切れる「ぷつっ」という音がした。
額に青筋が浮き上がる。
過去に思いを馳せていた男の笑顔が、怒りで歪んだ笑みに変わった。
「レナ!!!!」
「はい、頭領!!」
彼が大声で叫ぶと同時に、青い髪の部下の女性が駆け込んできた。
鋭い鷹のような目で主を注視し、まるで敵を掃討せよという命令を待っているかのようだった。
「あいつを殴れ!!!!」
狐の指がリースを指す。若者はまるで荷車に足を轢かれたような顔をした。
次の瞬間、レナに引きずられていく。
そして朝から晩まで、苛烈で過酷な戦闘訓練の音が響き始めた。
ようやく空の色が変わり始めた頃、リースはレナの過酷な訓練から解放された。
治療は受けたものの、疲労は一向に癒えない。
「ありがとうございます、レナさん」
彼の感謝の声は力なくかすれ、体は今にも地面に崩れ落ちそうだった。
だが今日のレナの返事は、いつもと違って妙に優しい響きを帯びていた。
「今日はお前のおかげだよ。今度頭領を陰口叩くときは、もうちょっと上手くやれよ」
喉の奥でくすくすと笑う声は、どこか意地悪だ。
それを聞いたリースは、心に固く誓った――これからはもっと口を慎もうと……。
若者は急いで教会を出ると、冒険者のギルドへと直行した。
今日は彼の仲間たちが魔獣狩りに出かけている。
危険な任務ではあるが、エスタは「一日で終わらせる」と宣言していた。
――一日で終わらなくても、せめて僕が待っていよう。
リースは真剣な面持ちで息を吐いた。
今日の冒険者のギルドは賑やかだった。
最近増えている下級冒険者たちが、次々と任務報告のために戻ってきているのだ。
しかし視線を巡らせると、見覚えのある少女が応接用のテーブルに座っているのが目に入った。
リースが近づくと、座っていた二人も立ち上がる。
「こんにちは、リース様」
「こんにちは、リースさん」
「お嬢様……カレンさん、ごきげんよう」
リースはカレンと、優雅にスカートの裾をつまんで挨拶するお嬢様に軽く頭を下げた。
それから互いに腰を下ろす。
しばらく双方が黙っていたが、やがてエリゼが口を開いた。
彼女の表情は明るくなく、声にも活気がない。
それはリースが予想していた通り、昨晩の心の傷のせいだった。
「昨夜のことは、本当にありがとうございました」
「はい。その後はいかがでしたか?」
「護衛の件では……悲しい気持ちですが、他は無事に済みましたわ」
テーブルの両側に、再び無音の空白が訪れた。
双方とも目を合わせられない。
リースの胸にはまだ罪悪感が残っていた。
自分の判断が間違っていたかもしれないという思いは、背中に突き刺さった刃のようだった。
長い時間が過ぎ、ようやくエリゼが再び彼の方を向き、もう一言を発した。
「リースさん、エスタさん、本当にありがとうございました……おかげで私は命拾いできたのです……でも、それでも……もう一度、お願いを――」
しかし言葉を最後まで言い終える前に、ギルドの入り口から大声が響き渡った。
「どのクソ野郎が一匹だけだって言ったんだよ!!!」
エスタは大きな木の枝を杖代わりにして、ボロボロの体を引きずるようにギルドへ入ってきた。
彼女は大声で叫ぶと同時に、布の包みを床に投げ捨てる。
包みから魔獣の頭が二つ転がり出て、それぞれ別の方向へころころと転がっていった。
その顔は、口から牙が突き出た牡牛のようなものだった。
受付嬢たちが慌てて魔獣の頭を回収しに駆け寄る。
エスタは力なく広間の真ん中にどっかりと座り込んだ。体中は打撲痕と火傷で覆われていた。
リースは急いでテーブルから立ち上がり、エスタのもとへ歩み寄って支えようとした。
だが彼女は意外に素早くリースの背中に登り、まるで虫が木の枝に這い上がるようにぴったりとくっつく。
彼は長く息を吐いた……またこれだ。
現場にいたエリゼお嬢様も、慌てて近づいてきた。
エスタは彼女と目を合わせると、舌打ちをする。それはまるで「ここは私の場所よ」と主張しているようだった。
「任務……完了。帰る。私はもう限界!!!」
しかし一歩を踏み出す前に――エスタの服が引っ張られた。まただ。
「ちょっと待ってください!!! 今帰らないでください!!! 話を聞いてください!!!」
レオの執務室の中、長ソファにエリゼとカレンが座っている。
向かい側にはリースとエスタが腰を下ろしていた。
黒髪の少女は片足を上げ、真ん中の小さなテーブルに堂々と乗せている。
ギルドマスターのレオとマーラは、エリゼお嬢様に頼まれて部屋から出て行った。
――あのレオ様でさえ、貴族の揉め事には関わりたくないんだな。
「で、高貴なお嬢様は私たちに何を頼みたいのかしら?」
エスタは皮肉たっぷりに言った。
目の前の貴族に対して遠慮など一切せず、むしろ威嚇するような仕草まで見せている。
「実は、リースさん、エスタさん。私がここに来たのは……ええと、とても急ぎで、こちらの方々にしか頼めない用件があって……」
「こちらの方々にしか? あんたの側には数百人もいるくせに? あいたっ!!!」
エスタが反論するが、ちょうど火傷の処置中だったため思わず声を上げてしまった。
火傷の傷はまずしっかり洗浄しないと、治療魔法を使っても大きな痕が残ってしまう。
「はい。少なくとも……お決めになる前に、状況だけは説明させてください」
エスタは「嫌だ」と言いかけたが、言葉を止めて飲み込んだ。
少女はリースの方を向き、さっきより柔らかい声で尋ねた。
「リース、どう思う?」
それを聞いてリースは微笑み、力強く頷いた。
エスタは長く息を吐き、再びエリゼお嬢様とその侍女の方に向き直ると、短く答えた。
「手伝えるかどうかはわからないけど、話だけは聞いてあげるわ」
それを聞いたエリゼの瞳に光が宿る。彼女は立ち上がり、胸に手を当てた。
「改めて自己紹介します。私はエリゼ・ミランド……」
「ミランド侯爵の娘さん」
エスタが正確に割り込み、まるで貴族の紹介文を暗唱するかのようだった。
彼女は目の前の少女を睨み、つまらない前置きは止せと言わんばかりだ。
エリゼは一瞬言葉を失ったが、意を決して続けた。
「私は先に出立した友人の招きでここに来たのですが、その彼女がまだ到着していなくて……」
「大賢者アルテシア」
エスタが再び割り込み、部屋の中の呼吸のリズムを壊した。
皆の視線が一斉にエスタに集中する。
特にエリゼは体を硬直させ、何もできなくなっていた。
周囲からの視線を感じると、エスタは全員の前で大きく息を吐いた。
「だって、あの女がアンダーアイゼンに来るって手紙をばらまいてたじゃない? 今回の問題の元凶がアルテシアじゃなくて誰なのよ? それともお願いって、私たちにアンダーアイゼンまで連れてってくれってこと?」
それを聞いて、エリゼは硬直した体を解し、言葉を続けた。
「最初はそうするつもりでしたわ。でも今は状況が変わってしまって……カレン」
「こちらです……」
エリゼが呼ぶと、侍女のカレンが布で覆われた籠を一つ取り出し、テーブルに置いた。
リースが布を開けると、中には黄色い羽の鳥が一羽。何かに射抜かれた傷で体が貫通しているのに、まだ死んでいなかった。
エスタは籠を覗き込み、苛立たしげに目を細めた。一方リースは強く興味を示す。この鳥からは、かすかだが魔力が発散されていた。
「この鳥……なんだか変だね」
「そうよ。これは普通の鳥じゃなくて使い魔なの」
「使い魔? 僕、初めて見たよ」
「後で説明するわ、リース」
エスタが説明すると、リースはすぐに興味津々な顔になった。
だがエスタはこれ以上時間をかけたくなかった。
彼女は話題を遮り、籠から視線を外して雇い主と侍女の二人に向き直す。
鋭く目を細め、圧力をかけるように見据えた。
「それで、この使い魔の鳥に何の問題があるの?」
「はい。それはこの鳥の足に括りつけられていた手紙で……アルテシアが道中でトラブルに遭い、そして……エリス伯爵は信用できないと書いてありますわ……」
エリゼは巻かれたメッセージと筒状の容器を、弱々しく震える鳥の籠の横に置いた。
「結局巻き込まれちゃったか……」
エスタは長く息を吐いた。リースに決めさせなければよかったと後悔している。
まだ引き受けたわけじゃないのに、こんな話を聞いてしまったらもう後戻りできない。
しかも相手はエリゼだ。
馬鹿正直で世間知らずの高貴なお嬢様だけど、戦うと厄介なタイプだ。
エスタは心の中でそう思いながら、手を上げて頭を抱え、空虚な目で天井を見上げた。
それでもリースを怒る気にはなれない。あの子はまだ子供なんだから。
「つまり、今のところは私たちに護衛を頼みたいんですね」
エスタが何も答えなかったので、リースが代わりに口を開いた。彼の顔を見たエリゼの瞳に、希望の光が宿る。
「はい……今はただ護衛だけをお願いしたいんです……アルテシアを探しに出たい気持ちはありますけど、私には人手もありませんし、どこにいるのかもわからないんですわ」
「どこにいるかわからなかったら、始まる前から終わりよ。面倒くさーい……」
エスタは息を吐き出した。
その声には責任感がまるでなく、ここで全てを終わらせたいという感じだった。
そうだ、彼女はここで終わらせたかった。始まる前に、関わらないで。
エリゼなんて知らなければよかった!
彼女の悪い態度に、隣に座る若者は苦笑いするしかない。だがリースは使い魔の鳥に視線を移した。
「エスタ、僕、この使い魔の鳥を治療してみたいんだけど」
「啊、そうだ! もし治療できたら、この子を使ってアルテシアを探しに行かせられる!!」
「できそうならやってみなさいよ、少年!」
彼女の言葉はあからさまにからかっていたが、最近エスタがリースをからかいすぎていたせいか、彼はその言葉を本気の制止とは感じなかった。
若者は自分の魔力を集中し始める。掌から青い光が輝き出して――
「ヒール……うわっ!!!!」
だが魔力を解放した瞬間、使い魔の鳥がその魔力をすべて吸い取ってしまった。
「うっ……」
「えっ、本当にできたの?」
エスタが驚きの声を上げた頃には、リースは力尽きて倒れ込み、彼女は慌ててその体を受け止めた。
使い魔の鳥は起き上がり、翼を広げた。羽が淡い黄色に輝き、清らかな声で鳴くと、感謝するように頭を下げた。
エスタもそれを見て、昔の癖で自然と頭を下げ返していた。
「礼儀正しい使い魔ね。でもそれは置いといて」
彼女は顔を上げ、エリゼを見据える。血の気の引くような笑みを浮かべ、エリゼを再び硬直させた。
「私の『使いやすい男の子』の治療費は高いわよ」
エスタは片手で親指と人差し指を丸く合わせる。
その邪悪な笑みに、相手は息も絶え絶えになった。
長い休息の後、ようやくリースは起き上がれるようになった。エスタはまだ頭痛に苦しむリースを支え、ギルドを出てニッシャの宿へと向かった。
「ねえエスタ、さっきの使い魔のこと」
「うん、付けにしておいたやつね?」
「そう」
リースはエスタが先延ばしにしていた説明を催促した。催促された少女は優しげに微笑み、手でメガネを押し上げる仕草をした。
「使い魔っていうのは、別の地平の向こうから何らかの方法でこちら側に渡ってきた存在よ。召喚されたり、迷い込んだりしてね。この側で暮らすために、こちらの人と契約を結ぶの」
エスタが説明すると、リースは理解したように頷いたが、まだいくつか引っかかることがあった。
「どうして契約しないと暮らせないの?」
「契約しないと、女神王ルセリアの信者たちに追われて送り返されるか、討伐されちゃうからよ」
エスタはもう一度リースを見て止まった。彼は困惑した目で返した。エスタはくすくす笑いながら続けた。
「だって、私たちが外世界の強力な存在に侵略されないのは、女神王ルセリアがそいつらの八割をぶっ倒したからでしょ。はははは」
それを聞いてリースは引き笑いした。
「エスタ、神様のことをそんな風に言っちゃダメだよ」
「うん、大丈夫だって。だって以前の私……あっ!!」
そしてエスタは転んだ……さらに四回連続で転び続けた……。
ニッシャの宿に着いた頃、二人の若者はすでに遅い時間だった。扉を開けると、迎えの従業員が困った顔をしている。
エスタとリースは嫌な予感がした。食堂へ入ると、エリゼとカレンが座っていた。
「ちょっと聞いてよ、リース。まだ足りないの? あと何人連れてくるつもり?」
背後からニッシャの冷たい声が響く。
彼女はエリゼとカレンをちらりと睨みつけた。冷気が部屋全体に広がった。
あの食事で、リースは干からびたパンだけ、エスタの分は冷え切った肉とシチューだった……。




