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2-3 王都からのお嬢様、ご来訪 2

 遠くに置かれた魔灯のぼんやりとした光は、闇の中であまりはっきりと物を見せてくれなかった。

 夜の旅人に道を示すことはできても、夜の街を安全にするにはあまりに弱すぎる。


 冒険者でさえ、油断すれば闇に潜むものに襲われる危険があった。


 エスタとリースはエリゼを連れて、ニッシャの宿を出発し、伯爵邸へと向かった。

 道のりはかなり遠い。貴族区は街の区域と分けられており、内部をつなぐ道は一本しかないからだ。


 その道を通らなければ、西の門を出て北の門まで大回りしなければならず、それではさらに遠回りになる。


 リースは先頭を歩き、片手には魔灯を掲げて道を照らし、もう片方の手は決して油断なく腰の剣の柄に添えていた。

 彼の鉄の盾は以前アイゼンの魔獣と戦った際に完全に壊れてしまっていたからだ。


 しかもそれはリースが借り物だったため、冒険者ギルドはもう貸してくれなかった。


「それにしても、お嬢様の随行団は本当に探しに来ないつもりなの?」


 エリゼと並んで歩くエスタが、少し棘のある口調で言った。

 それでも彼女の手は、リースと同じように剣の柄に軽く添えられている。


「私たちには分かりませんが……きっと、表沙汰にせずこっそり探しているはずですわ」


 エリゼは宿にいた時よりもずっと小さな声で答えた。

 冒険者のように常に危険と向き合っているわけではない彼女にとって、こんな夜の道を歩くのは当然、心臓が縮むほど怖いのだろう。リースはそう思った。


「まあね。貴族にとって『面子が潰れる』ってのは、首をはねられるのと変わらないもの」


 エスタが続ける。

 貴族にとって最も大切なのは体面だ。一度失えば取り戻すのは至難の業。だからこそ、知らんぷりを決め込んで水面下で動く。

 だがリースにはその感覚がまるで分からない。だから素直に反論した。


「僕には逆に、エリゼさんを放置して全力で探さないことの方が、百倍も恥ずかしいことに思えるけど」


 もしこれが普通の人の口から出た言葉なら、エスタは少し腹を立てたかもしれない。

 けれど、世間知らずのリースが真顔で言うとあっては、彼女は喉の奥で小さく笑うしかなかった。


「リースはまだ子供だから、そういうこと分からないのも無理ないわよね」


 エスタは明るい声で返した。


「えっと……エスタさんってリースくんとすごく仲良しですよね? お二人は一緒に育ったんですか?」


 二人の会話を聞いていたエリゼが、つい口を挟んだ。

 確かに二人とも自分より年下で、仲は良さそうに見える。

 でも、どちらかと言えばリースの方がいつもエスタの面倒を見ている感じだ。


「違うわよ。指折り数えたら、私たちが出会ってまだ二ヶ月しか経ってないもの」


 エスタは悪戯っぽく笑いながら振り返った。

 その笑顔が、なぜかエリゼの胸をちくりと刺した。


「羨ましいです……私も、こんな風にすぐ仲良くなれる友達が欲しかった……だから、その……」


「あーあ、そうね」


 エスタがわざとらしく声を長く伸ばして遮る。

 まるで邪魔者を追い払うような視線を向けた。


「それは無理よ。だって貴族の世界と平民の世界は、完全に仕切られてるんだもの」


 さらりと、まるで当たり前の事実を告げるような口調だった。

 その一言でエリゼは言葉を失い、スカートの裾をぎゅっと握りしめて、喉の奥で小さくうめいた。


 認めたくはないが、リースは喉の奥に刺さった痛い言葉を必死に飲み込んだ。


 なぜなら、彼にも薄々分かっていたからだ。

 貴族とは、冒険者たちの命さえも握っている存在。

 街の領主が「行軍しろ」と命じれば、誰も逆らえず従うしかないのと同じように。

 だからこそ、上流の檻の中にいる貴族が自分たちのような下賤な者と親しく交わること自体が、すでに彼らの「体面」を捨てることになるのだと。

 貴族の世界と平民の世界は、完全に仕切られている。


 エスタはきっと、そのことをよく理解しているはずだ。

 だからこそ、本当は彼女だってこんな嫌味ったらしい態度を取りたくなんかないんだ、とリースは信じたかった。


 その後も、三人の間に会話は一切なかった。

 路地の奥からネズミや小動物の鳴き声がぽつりぽつりと聞こえるだけ。


 魔灯の薄ぼんやりとした光を頼りに、黙ったまま歩き続ける。

 空気はまるで鉛のように重く、息苦しいほどだった。


 やがて彼らは街の最も荒んだ区域に足を踏み入れた。

 魔灯はどれも暗く、間隔も遠く、修理されていないせいで柱が折れて倒れているものさえある。


 アッシュエンブルクは概ね温厚な人々が暮らす街だ。

 だが、誰も口にしたくない場所というものが存在する。


『不浄な路地(***アコージョーン / อโคจร )』


 たった五本の路地しかない細長い通り。

 しかし、そこには危険がぎゅうぎゅうに詰まっている。


 昼間なら生活に欠かせない通りであり、比較的安全だ。

 だが夜ともなれば、絶対に近づかない方がいい。どうしても通らなければならないなら、護衛を連れて。


 あらゆる堕落したものたちは、この横丁に集まる。

 領主である伯爵は何度もここを掃討しようとした。

 だがそのたびに、捕まえられるのは切り捨てられた雑魚ばかりで、尻尾を掴むことはできなかった。


 まるで煙のように、奴らはいつも姿を消してしまう。

 それでも、この横丁こそが伯爵邸へ至る唯一の近道だった。


 リースは不安そうにしていたが、エスタはきっぱりと言った。


「エリゼさんをちゃんと送らなきゃ、後で面倒になるのは私たちの方よ」


 もちろん、エリゼはその言葉の意味を、知る由もなかった。


 スッ……

 闇の中で何かが動いた。


 リースは瞬時に身を硬くした。干草を踏む猫のような、かすかな足音。

 ただの音なら無視していただろう。


 だが、そこに微かな魔力の波動が混じっている。


 普通の人間には感じ取れない。

 魔力に慣れた者か、獣のような勘を持つ冒険者にしか分からない気配だ。


 リースは前者。

 体内に魔術回路を持ち、魔法の訓練を積んでいるため、反応が速い。


 エスタは後者。まさに獣じみた鋭い直感を持つ戦士だ。


 リースは手にしていた魔灯を地面に投げ捨て、即座に振り返った。

 エスタの横に立つエリゼを庇うように、左腕を前に突き出す。


 ガブッ!


 闇から飛び出した獣が、反射的に掲げた左腕に牙を食い込ませた。

 頭を振り回して引きちぎろうとするが、リースはしっかりと耐えきった。

 右手で腰の短剣を抜き、喉元に二度、素早く突き立てる。

 獣は最後の力を振り絞って暴れたが、リースはそれを地面に叩きつけ、容赦なく蹴り飛ばした。


「ムーンライトサイト」


 エスタが呟くと、彼女の瞳が淡い紫紺の光を宿し、周囲の闇が一瞬で薄らいだ。

 次の瞬間、別の獣が横から飛びかかってくる。エスタは一閃。

 刃が弧を描き、獣の胴を真っ二つに近い勢いで薙ぎ払い、地面に叩きつける。

 倒れた獣の首を容赦なく踏みつけ、首を刎ねる。


「リース、VIPを守って!」


 初めて聞く「VIP」という単語だったが、意味はすぐに分かった。エリゼのことだ。

 リースは即座に振り返り、反対側から迫るもう一匹を視界に捉える。

 エリゼを強く引き寄せ、獣の跳躍軌道から外す。

 少女の体がよろめいたが、リースは左腕でしっかりと抱き留め、右腕の短剣を振り抜いた。

 刃が獣の顎を捉え、勢いを殺す。

 直後、エスタが横から滑り込み、剣を獣の心臓に深くまで突き立てた。

 獣は一瞬だけ痙攣し、動かなくなった。


「そこ!!」


 エスタが鋭く指差す先、暗い路地の奥。

 フードを深く被った男が影に立ち、獣たちを操っていた。

 男の足元には、二つの人間の死体が転がっている。

 エスタが飛び出そうとした瞬間、男は素早く何かを投げつけた。


 バンッ!!


 空中で炸裂し、白い粉塵が一気に広がる。


「ぐっ、塵爆弾!!」


 エスタが目をぎゅっと閉じるが間に合わず、粉が顔面を直撃。

 リースは咄嗟にエスタとエリゼの腕を掴み、煙幕の中から強く引き出して外へ連れ出した。


「風よ、水よ」


 短く呪文を唱え、風で粉塵を完全に吹き飛ばし、水で二人の顔を洗い流す。


「エリゼさん、怪我はありませんか?」


「い、いえ……!」


「よかった」


 エリゼが震える声で答えるのを確認すると、リースはすぐにエスタの方を見た。

 彼女はもう煙の残りをものともせず、先ほどの戦闘地点まで歩み寄り、自分の魔灯を地面に向けている。


「ルミネイト」


 淡い光が広がったが、そこにあったのは獣の死体ではなかった。

 地面に広がるのは、黒い粘液のようなものが魔力の蒸気となってじわじわと消えていく痕跡だけだった。


「はい……この人たち、私の旅の護衛団の人たちです……」


 言い終わるより早く、エリゼは地面に膝をつき、胃の中のものをすべて吐き出してしまった。


「ううっ……いいわ、全部出しちゃいなさい」


 エスタが優しく背中をさすってやる。

 エスタもリースも冒険者だから、死体には慣れていた。


 リースはまだ人間を殺したことはないが、モンスターに食い散らかされた人間の惨状は何度も見てきた。


 でもこの子は違う。こんな歳でこんな目に遭うべきじゃない。


 エスタは確信した。この夜の記憶は、数日どころか何ヶ月もエリゼの夢を悪夢に変えるだろう。


 吐き気が収まると、二人はエリゼの両脇を抱え、よろめく足取りで「不浄な路地(***アコージョーン / อโคจร )」を後にした。

 そして、残りの道を黙々と歩き続け、ついに領主伯爵の館へと辿り着いた。



 北側の白くそびえる高い壁。

 鉄格子の覗き窓が等間隔に並び、外から内を覗くことはできても、内側からは外を窺えるようになっている。


 その長さは、見るだけで「絶対に歩きたくない」と思わせるほどだった。


 ここがエーリアス伯爵邸だ。

 敷地内には常駐の兵舎があり、領主に仕える兵たちが詰めている。


 邸宅は全部で三棟。

 一番手前は伯爵自身の住まい。

 他の街の貴族館と比べれば質素で、飾り気はほとんどない。


 二番目は一般客から下級貴族までを泊める建物。

 少しだけ装飾が増えているが、全体の雰囲気は一棟目とほぼ変わらない。


 そして最奥に建つ三番目、それが圧倒的に違う。

 巨大で荘厳、白く塗られた外壁はいつ見ても新品のよう。

 無数の窓と扉はまるで別世界の芸術品のように飾られ、二棟の質素な建物とは明らかに格が違う。

 あれは王族専用の離宮だった。


 エーリアス伯爵は、あの建物だけに街の予算を上回る金をつぎ込んでいるという噂を、リースは耳にしていた。

 三人は北向きの正門前に到着した。

 門前には四人の顔つき鋭い衛兵が立ち、槍を構えている。

 リースたちに気づくや否や、槍を突き出し、威嚇するように叫んだ。


「何者だ!」


「エスタとリースです! 冒険者ギルドの錫ランクと青銅ランク!」


 リースが大声で名乗り返す。

 衛兵たちはまだ槍を下ろさない。

 だが、少なくとも敵意は薄れたようだった。

 先日の軍事訓練で顔を合わせ、好印象を与えていたリースの顔を覚えていたのだ。


「用件は!」


 衛兵の一人が再び鋭く問う。


「実は道に迷った方を保護しました。服装から見て貴族の方だと思うので、お届けに上がりました」


 それを聞くと、四人の衛兵は顔を見合わせ、短く何かを囁き合った後、


「ここで待て」


 一人が小走りで館内へ消え、残りの三人は門の外で待機させた。

 数分もしないうちに、蹄の音を響かせて一台の馬車が猛スピードで飛び出してきた。

 扉が開くや否や、メイド服の女性が飛び降りる。


「お嬢様ぁ!!!」


「カレン!!」


 エリゼはスカートの裾を掴んで駆け寄り、二人は門前で強く抱きしめ合った。


「本当に良かった……ローク様とサール様は、暗くなり次第お嬢様を探しに出て、まだ戻ってらっしゃらないんです! さっきまた出直したばかりで……」


 その二人の名を聞いた瞬間、エリゼはドレスをぎゅっと握りしめ、涙をぽろぽろと零した。


「カレン……ごめんなさい……でもロークとサールは……」


 言葉を最後まで言わせない。

 カレンは主の様子と表情だけで全てを悟り、強く抱きしめ返した。


「大丈夫です、お嬢様……もう大丈夫ですから」


「うわぁぁん、カレンぅ……!」


 エリゼはカレンの胸で、堰を切ったように泣き崩れた。

 馬車は邸内を長く走り、最初の一棟、つまり伯爵自身の館の前で静かに停まった。



「エスタ様、リース様、どうぞこちらでお降りください」



 御者が扉を開けると、二人は馬車から降り立つ。

 カレンが席を立ち、扉の外まで歩み寄ると、両手をスカートに添えて優雅に一礼した。



「今夜は本当に、お嬢様をお守りくださりありがとう存じます。

 このご恩は、必ずやお返しさせていただきます」



 そのあまりに丁寧で控えめな態度に、リースもエスタも思わず頭を下げてしまう。



「いえ、そんな大したことはしておりません」



 別れの挨拶を交わすと、馬車は再び走り去っていった。



「こちらへお越しくださいませ」



 横から、静かな声が響いた。

 黒髪に油を塗り、完璧に撫でつけた年配の執事。

 細く長い顔立ちに、形の良い口髭だけを残し、顎は鋭く尖り、眉は凛々しく吊り上がり、目は氷のように冷たく鋭い。



 音もなく現れたその姿に、エスタは反射的に視線を向けた。

 貴族が有能な者を側近に置くのは当然だが、この男は「有能」という言葉では足りない。

 エスタの肌が、獣じみた勘でざわめいた。



「ご主人様が、お二人から詳しいお話を伺いたがっておられます」



 静かで、どこか威圧的な低い声だった。



「いいわよ」



 エスタは動じることなく、むしろ一歩前に出て答えた。

 彼女は先に立ち、リースを従えて館内へと進む。

 書斎には大きな机が置かれ、エーリアス伯爵が極めて真剣な顔で座っていた。



「ありがとう、スミス。後は二人きりにしてくれ」



 執事が扉を静かに閉めると、伯爵は立ち上がり、中央のソファへと歩み寄った。

「座ってくれ」



 伯爵は片手を軽く上げて座るよう促した。

 リースとエスタは向かいのソファに腰を下ろす。


「さて、まずは本当にありがとう。

 お二人には、わが街の大事なお客様を無事に連れ戻していただいた。

 ……だが、実は大変な事態が起きている。

 さっきスミスから報告があったんだが、お嬢様の護衛二名が……すでに死んでいたそうだ」


 エスタは瞬き一つせずに、静かに答えた。


「私たちは何も存じておりません。

 お嬢様をお守りして歩いた道中は、終始平穏そのものでしたから」


 横でリースが視線を向けると、エスタは肘で軽く突き、目で「合わせろ」と合図した。

 リースは即座に理解し、口を開く。


「僕たちは『灰と薪の煙に捧ぐ』という店から帰る途中、エリゼさんを見つけました。

 人混みがすごくて危なかったので、ニッシャの宿で軽く食事をさせてから、ここまでお送りしただけです。

 道中、何の異変もありませんでした」


 伯爵は胸に手を当て、大きく息を吐いた。

 ハンカチを取り出して額の汗を拭いながら、苦笑交じりに呟く。


「はあ……本当に良かった。

 もしあのお嬢様に万が一のことがあったら、俺は首が飛んでいたところだ」


 リースとエスタは顔を見合わせ、すぐに伯爵に向き直った。


「他に用はなければ、僕たちはこれで失礼しますか?」


「ああ、もちろんだ。送らせよう」


 伯爵は立ち上がり、机の上の小さな銀の鈴を軽く振った。

 それは高価な魔導鈴。

 貴族の館には欠かせない道具だ。

 この部屋で振れば、別の部屋にある同じ鈴が同時に鳴り、

 主人が召使いを呼ぶときも、召使いが主人の許可を求めるときも、

 どちらもこれ一つで済む。


 扉が静かに開き、スミスが音もなく現れた。

 優雅に一礼すると、伯爵は短く命じた。


「スミス、このお二人を送ってやってくれ。ありがとう」


「かしこまりました」


 執事は再び一礼し、静かに部屋を出る。

 数分後、机の上の鈴が小さく鳴った。許可の合図だ。


 リースとエスタは立ち上がり、軽く頭を下げて書斎を後にした。

 館の玄関前には、すでに馬車が待っていた。


 二人は乗り込み、夜の街へと静かに走り去っていった。

(***アコージョーン / อโคจร ) はタイ語で、「足を踏み入れるべきではない場所」を意味します。その意味合いは軽いものから重いものまで幅広くあります。

(軽い意味合い):

行くべきではない場所。例えば、治安の悪い(危険な)酒場バーなど。

(重い意味合い):

危険な場所。例えば、犯罪者のたまり場(巣窟)や、違法な取引がされている場所など。

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