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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ホラー

泡になる前に【短編】人魚喰い4【夏のホラー2025】

掲載日:2025/07/03

そこは、千鳥浦。


海岸向こうの雑木林は、静けさに包まれていた。


漁船のエンジン音すら遠く、潮と波のささやきだけが、少女・夏子の耳に届いていた。


海外へ転勤になった両親と離れ、千鳥浦にある祖母の家に引っ越してきてはや4か月。


彼女は、波打ち際で拾った海の息吹を感じる貝殻をポケットから取り出し、ニコリと笑った。


そうして夏子は、林道を走り、奥の木柵を越えると岩場の方へ向かった。


5年ほど前に、彼女の従妹が死んだ場所。


従妹は、大岩から滑り落ち、その場所で、野犬に襲われて亡くなったという。


従妹・・・七海と引き裂かれたあのお葬式の日から、夏子の心は、どこかに穴が空いたままだった。


拾った貝殻を岩々の前に供えると、少し離れた巫女の大岩と呼ばれる岩に向かって、手を合わせ、目を閉じる。


  グぅルルルるるルぅ


するとどうだろう?


岩陰から、かすかな唸り声が聞こえた。


夏子は、目を開け、音の方へと耳を澄ませる。


低く、苦しげなうなり。


警戒しながら岩場に近づいた夏子の目に飛び込んできたのは・・・


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


彼女は、目を疑った。


きらきらと光るのは、まるで宝石のような、青く淡い鱗だった。


そこにいたのは、紛れもなく人魚。


瞳は深海のように青く、夏子をじっと見つめていた。


「だめ・・・わたしに近づかないで。」


か細い人魚の声。


彼女は、頷くと、躊躇わずに膝をついて人魚に近づく。


ピクリと尻尾を動かそうとした人魚に、夏子は、言った。


「動かないで!傷がっ。」


海中で、網のようなものに絡まれ、無理やりそこから逃れたのだろう。


人魚の尾鰭には、ひどい傷があった。


夏子は息を整え、慎重に手を伸ばした。


絡みついた網の残骸を尾びれから除き、両手で海水をすくい、潮水で傷をそっと洗った。


人魚は苦しげに呼吸しながら、彼女を見上げた。


だが、どこか違和感があった。


澄んだ目には、恐怖や痛みだけではない感情が揺れているように見える。


「夏子・・お姉ちゃん・・・」


言葉にできない、胸の奥をなぞるような既視感。


その声は、あの子の声だった。


夏子の全身が凍った。


「・・・今、なんて言ったの?」


人魚の瞳が潤む。


「わたし、七海・・・わたしのこと、覚えてる?お姉ちゃん。」


目の前にいるのは、人魚。


そのはずなのに、その表情は、声は、目線までもが七海そのもの。


一瞬で、夏子の時が巻き戻った。


千鳥浦から、町に帰る時、車の窓から見た手を振る七海の姿。


父親の車に乗り込む直前まで、泣きじゃくって「またすぐ会える?」と何回も問うてきた七海の声。


「七海・・・本当に、七海なの?」


夏子の目から、涙が一筋流れた。


「うん。こんな姿になっても・・・でも、お姉ちゃんに会いたかった・・・」


夏子は、そっと七海に触れた。


小さかったその体は、夏子よりも大きくて、尾が生え、背には、薄いきれいな色をした鱗・・・でも、確かに、七海・・・従姉の七海だった。


「もう大丈夫。姿なんてどうでもいい。私の大事な七海でしょ。」


海の風が、岩の隙間を吹き抜け、二人の間に静かな再会の余韻を運んだ。


5年という時間が、どれほど長く、切なかったか・・・


けれど、ようやくふたりは、再び出会えた。


「そうだっ。七海が、元に戻る方法を考えよう。元の姿で、お母さんたちの元に戻れたら、ぜーったいビックリするよ。」


夏子の声に、一瞬、七海の瞳が泳いだ。


その口が、残酷な言葉を紡ぐ。


「ご・・ごめん。無理なの。わたしは、七海だけど、七海じゃないの。」


「どういうことっ?」


「・・・お姉ちゃん、聞いて。わたし、人魚になったの。ううん、なっちゃったの。最初は怖かった、なにが起きたのか分からなかった。身体が大きくなって、声も変わって、水面に映った自分が・・・もう、私じゃなかった。でも、人を、喰べたら、分かったの。その人の記憶が、ぐわぁって、頭の中に流れ込んでくる・・・何が好きだった。どんな声で笑ってた。誰を好きだった・・・全部、私の中に残るの。忘れられないの、消えないの!」


「言っていることの意味が分からないわ。」


「た・・喰べた人の『欠片』・・・。わたしって、もう『私だけ』じゃない。いつも知らない誰かの声が、頭の中で囁く。人の記憶とか、性格とか、心の一部が、中に入ってきてる。それに、わたしが、わたしを食べる前の記憶だってある。でもね、私の中に残ってる『お姉ちゃんが大好き』って気持ちも、そのまま残ってる。わたしは、七海だけど、もう七海じゃない。でも、七海は、ここにいるの。ここで、泣いてるの。お姉ちゃんに会いたいって、ずっと・・・」


そう言うと、七海を名乗る人魚は、大粒の涙をこぼした。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


七海は、野犬に襲われたのではなく、人喰い人魚に食べられたのだと言う。


人魚は、食べた人の記憶や、想いをその身の内に取り込む。


この人魚は、食べた七海の記憶と、強い想いをその体に、その魂に抱えていると言うのだ。


そうして、人魚は、尾を損傷して動くことが出来ない。


ならば、夏子がやることは、ただひとつであった。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


千鳥浦の小さな漁港は、朝早くから漁師たちが戻り、取れた魚が船から水揚げされていた。


銀の鱗が光を反射し、魚たちがコンクリートの上に滑り落とされる。


だが、その中には、売り物にならない魚も混じっている。


大きさが揃っていない、傷がある、色が悪い・・・規格外の魚たちだ。


そうした魚は、選別の段階で脇へと放られ、やがてコンテナの中で冷たく横たわる。


誰も目を向けないそれらは、ゴミとして扱われ、海に放り込まれる。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


朝早く。


空気には、潮の香りと、魚の匂いが混じっている。


夏子が、港に着くと、ちょうど漁師たちが戻ってきたところだった。


魚が次々に放り出され、バシャリと音を立ててコンクリの地面に滑り落ちる。


売り物になる魚は、すぐに発泡スチロールに詰められ、トラックへと運ばれる。


残されたのは、傷ついた魚、ちょっと小さすぎる魚、色の悪い魚たち。


誰にも見向きもされず、次々とコンテナに投げ込まれていくその魚が、夏子の目的の品であった。


コンテナに近づき、静かに中を覗き込む。


そこには、ごちゃっと積み重なった魚たちが、横たわっていた。


用意しておいたズタ袋を開き、ひとつずつ拾い上げる。


冷たくぬめった鱗が、指に張りつく。


見た目が悪いが、さっきまで生きていたことに変わりはないし、まだ、ピクンピクンと動いているものさえいる。


売り物にならず、この後、海に投げ入れられる予定の魚だ。


遠慮する必要などない。


ズタ袋の中で、魚たちが重なり合い、少しずつ重くなっていく。


鼻に立ちのぼる魚の生臭さに顔をしかめながら、袋の口を結ぶと、夏子は、ゆっくり歩き出した。


誰にも気づかれず、誰にも話しかけられない。


夏子の足音と、袋の中で小さく動く魚がこすれる音だけが、静かについてくる。


海風が頬を撫でたが、彼女は、振り返らずに歩き続けた。


林道を越え、木の柵を越え、巫女の岩場へ。


いまだ泳ぐことが出来ない人魚・・・七海のために、魚を運ぶのだ。


彼女は、よく食べた。


そして、人魚の回復力は、驚異的だった。


魚を食べるごとに、傷が目に見えて埋まっていくのだ。


それでも、傷は大きく、1日や2日で治るといったものではなかった。


彼女は、毎日、朝は、ズタ袋を岩場へと運ぶ作業を続け、夜は、暗くなるまで七海と話をした。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


ある日のこと。


いつものように空が薄暗いうちに、夏子はそっと布団を抜け出した。


畳がひんやりとして、足裏に朝の気配が染みる。


音を立てないように障子を開け、ズタ袋をリュックに放り込む。


そうして、玄関をそっと開けたその時だった。


「どこ行くんだい?こんな朝っぱらから・・・」


不意に飛んできた声に、心臓が跳ねた。


振り返ると、そこに立っていたのは、祖母。


夏子は、とっさに笑った。


「ちょっと・・・海っ。朝の海って、気持ちいいから。」


「海なんて、昼でも見られるだろう。なんで毎朝、毎朝、こんなに早く・・・悪いことでもしてるんじゃないのかい?」


祖母の目が細くなる。


彼女は、笑顔を崩さず、肩をすくめた。


「そんなわけないじゃん。波の音、聞きたいだけだよ。まだ、こっちの学校に慣れてないから、少しでも、千鳥浦の様子を知りたいんだっ。そうすれば、みんなと共通の話題も出来るし・・・」


夏子は、靴のかかとを踏んだまま足を突っ込んだ。


祖母の視線が、背中に刺さるのを感じる。


喉が詰まりそうになった。


けれど、そっぽを向いたまま、ドアに手をかける。


「すぐ帰るから。心配しないで。ん-と・・・朝ごはんまでには、戻るよっ!」


後ろのほうで、祖母のため息が聞こえた気がした。


でも、振り返らずに歩く。


突っ込んだポケットの中。


手のひらが、汗ばんでいた。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


ぬるくなった夕方の空気が、むわりと体を包んだ。


家の中は薄暗く、灯りもつけずに祖母が座っていた。


腕を組み、まっすぐにこちらを見ている。


靴を脱ぐ間、視線に胸がきゅっと締めつけられた。


「いま、何時だと思ってるのさ。」


祖母の声は低く、でも、怒っているというより、心配をこらえているような響き。


夏子は、玄関でしゃがみ込み、靴を片付けながら答えた。


「ごめん・・・ちょっとだけ、遠く行ってたから」


「日が暮れるまで帰れない場所が、『ちょっと遠く』なのかい?」


「うん・・・その・・・新しい友達と一緒に、海見てたら、時間わかんなくなっちゃって・・・いろんな話もしてたし。」


嘘ではない。


ただし、相手は、友達ではなく、七海である。


遅くなっているのは、分かっていたが、彼女と離れたくない気持ちが勝ったのだ。


祖母の目が、細くなったのが分かった。


彼女は、視線を合わせず、リュックの肩ひもを外す手を忙しく動かした。


「ちゃんと帰ってこないと、心配するに決まってるだろ。何かあったんじゃないかって」


「うん、ごめん。ほんとに、ごめん。悪いって分かってる。」


立ち上がって、祖母のそばに行く。


そうして、テーブル越しに腰を下ろすと、わざと明るく言った。


「明日は、ちゃんと早く帰る。夕方には、戻るから。暗くなる前に!」


「ホントだね。ウソじゃないんだろうね?」


「うん。ホントに。明日は、早く帰る。おばあちゃんに心配かけたくないもん。」


見つめる祖母の顔の皺が、少し深くなった気がした。


夏子は、小さく笑って、コップに手を伸ばした。


冷めたかったはずの麦茶は、少しぬるくなっていたが、妙に丁度よく感じた。


祖母の視線を感じながら、彼女は、静かにそれを飲みほした。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


岩場を駆けると、靴の底が、ガリリと嫌な音をたてた。


木の根がところどころ顔を出し、息を切らしながらも、つまずかないように足元ばかりを見ている。


早くしないと日が暮れるというかのように、夕日がチラリと枝葉の隙間から差し込み、夏子をせかす。


祖母の顔が、頭の中に浮かんだ。


今日は、晩御飯に遅れちゃいけない・・・絶対に。


林道の前の木の柵の向こう。


ピタリと立ち止まる。


不意に人の影があらわれたのだ。


その足元には、明るい色のおしゃれなスニーカー。


あの人は、学校で講演をした大学の・・・。


それは、以前、学校で講演をしてくれた海洋生態学の研究者の女性だった。


「あー・・・海野先生?なんで、こんなところに?」


「えーと・・・夏子ちゃん?こんなところで会うなんて・・・私、さっきまで、海に潜ってたのよ。夏子ちゃんは、こんな場所で、ひとりで何してたの?」


明るく、でも少し驚いたような声。


先生は、ニコニコしていたけれど、その目は、じっとこちらを見ていた。


とっさに、おばあちゃんへのカモフラージュで採ったズタ袋の中の山菜を掴んで取り出した。


「わ・・わたしは、山菜を取りに・・・ほら、これミズナ。クセがあんまりなくて、おばあちゃんが、煮物とかきんぴらにしてくれるんだけど、茹でて水に通して、包丁で細かく刻んだらトロトロになるから、それを冷やしても、美味しいの。水の滴る影のある場所とか、崖のあたりに生えているから、この先がちょうどいいんだ。」


自分でも驚くほど自然に、口から言葉が流れ出た。


先生の表情が、へえ~っと緩むのを見て、ほっとする。


でも、安心はできない。


先生が、柵を越えて道をまっすぐ行けば、七海の居る巫女の大岩に辿り着いてしまう。


「あっ、でも、海野先生は、ダメだよ。慣れてないと、この柵の先は、危険だから。昔、この先で事故もあったらしいからねっ!」


誰にも知られたくないし、知られちゃいけない・・・


「雨で、土もゆるんでて、崩れかけてるとこあったし・・・。」


できるだけ大げさにならないように、でも、引き返したくなるくらいには心配そうに言う。


「じゃね。遅くなったら、おばあちゃんに怒られちゃう。ホントに、そっちの柵の先には、行っちゃダメだよ。」


渡したミズナを眺める先生をその場に残し、夏子は、音を立てて走った。


背中に視線を感じたが、振り返らず、林道を駆ける。


これで、秘密は、守られるはず・・・


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


翌朝、夏子は、巫女の大岩の前で立ちすくんだ。


手に持つズタ袋には、魚が詰まるが、それを渡すはずの相手は、すでに居なかった。


昨日まで、七海が横になっていた場所には、ひとりの女性・・・


喉は、食い破られ、腹の肉は食いちぎられたように欠け、胸の皮膚はまるで何本もの爪で引き裂かれたかのよう。


そう・・・あの木柵の前で出会った海野美咲先生が、横たわっていた。


夏子は、七海が人魚に喰われたことを、聞いたはずだった。


人魚に喰われるということが、どういうことかを、聞いたはずだった。


しかし、目の前の遺体を目にするまで、それを現実として、とらえられていなかった。


両手で持った重いズタ袋が、風に揺れ、夏子は、巫女の大岩の前で、立ちすくんだまま、ずぅっと海を眺め続ける。


やがて、力尽きたようにしゃがみ込むとつぶやいた。


「七海・・・」


しかし、海から、何かの返事がかえってくることは、いっさいなく、ただ波の音だけが夏子の耳に響いていた。

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