表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー

泡になる前に【短編】人魚喰い4【夏のホラー2025】

そこは、千鳥浦。


海岸向こうの雑木林は、静けさに包まれていた。


漁船のエンジン音すら遠く、潮と波のささやきだけが、少女・夏子の耳に届いていた。


海外へ転勤になった両親と離れ、千鳥浦にある祖母の家に引っ越してきてはや4か月。


彼女は、波打ち際で拾った海の息吹を感じる貝殻をポケットから取り出し、ニコリと笑った。


そうして夏子は、林道を走り、奥の木柵を越えると岩場の方へ向かった。


5年ほど前に、彼女の従妹が死んだ場所。


従妹は、大岩から滑り落ち、その場所で、野犬に襲われて亡くなったという。


従妹・・・七海と引き裂かれたあのお葬式の日から、夏子の心は、どこかに穴が空いたままだった。


拾った貝殻を岩々の前に供えると、少し離れた巫女の大岩と呼ばれる岩に向かって、手を合わせ、目を閉じる。


  グぅルルルるるルぅ


するとどうだろう?


岩陰から、かすかな唸り声が聞こえた。


夏子は、目を開け、音の方へと耳を澄ませる。


低く、苦しげなうなり。


警戒しながら岩場に近づいた夏子の目に飛び込んできたのは・・・


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


彼女は、目を疑った。


きらきらと光るのは、まるで宝石のような、青く淡い鱗だった。


そこにいたのは、紛れもなく人魚。


瞳は深海のように青く、夏子をじっと見つめていた。


「だめ・・・わたしに近づかないで。」


か細い人魚の声。


彼女は、頷くと、躊躇わずに膝をついて人魚に近づく。


ピクリと尻尾を動かそうとした人魚に、夏子は、言った。


「動かないで!傷がっ。」


海中で、網のようなものに絡まれ、無理やりそこから逃れたのだろう。


人魚の尾鰭には、ひどい傷があった。


夏子は息を整え、慎重に手を伸ばした。


絡みついた網の残骸を尾びれから除き、両手で海水をすくい、潮水で傷をそっと洗った。


人魚は苦しげに呼吸しながら、彼女を見上げた。


だが、どこか違和感があった。


澄んだ目には、恐怖や痛みだけではない感情が揺れているように見える。


「夏子・・お姉ちゃん・・・」


言葉にできない、胸の奥をなぞるような既視感。


その声は、あの子の声だった。


夏子の全身が凍った。


「・・・今、なんて言ったの?」


人魚の瞳が潤む。


「わたし、七海・・・わたしのこと、覚えてる?お姉ちゃん。」


目の前にいるのは、人魚。


そのはずなのに、その表情は、声は、目線までもが七海そのもの。


一瞬で、夏子の時が巻き戻った。


千鳥浦から、町に帰る時、車の窓から見た手を振る七海の姿。


父親の車に乗り込む直前まで、泣きじゃくって「またすぐ会える?」と何回も問うてきた七海の声。


「七海・・・本当に、七海なの?」


夏子の目から、涙が一筋流れた。


「うん。こんな姿になっても・・・でも、お姉ちゃんに会いたかった・・・」


夏子は、そっと七海に触れた。


小さかったその体は、夏子よりも大きくて、尾が生え、背には、薄いきれいな色をした鱗・・・でも、確かに、七海・・・従姉の七海だった。


「もう大丈夫。姿なんてどうでもいい。私の大事な七海でしょ。」


海の風が、岩の隙間を吹き抜け、二人の間に静かな再会の余韻を運んだ。


5年という時間が、どれほど長く、切なかったか・・・


けれど、ようやくふたりは、再び出会えた。


「そうだっ。七海が、元に戻る方法を考えよう。元の姿で、お母さんたちの元に戻れたら、ぜーったいビックリするよ。」


夏子の声に、一瞬、七海の瞳が泳いだ。


その口が、残酷な言葉を紡ぐ。


「ご・・ごめん。無理なの。わたしは、七海だけど、七海じゃないの。」


「どういうことっ?」


「・・・お姉ちゃん、聞いて。わたし、人魚になったの。ううん、なっちゃったの。最初は怖かった、なにが起きたのか分からなかった。身体が大きくなって、声も変わって、水面に映った自分が・・・もう、私じゃなかった。でも、人を、喰べたら、分かったの。その人の記憶が、ぐわぁって、頭の中に流れ込んでくる・・・何が好きだった。どんな声で笑ってた。誰を好きだった・・・全部、私の中に残るの。忘れられないの、消えないの!」


「言っていることの意味が分からないわ。」


「た・・喰べた人の『欠片』・・・。わたしって、もう『私だけ』じゃない。いつも知らない誰かの声が、頭の中で囁く。人の記憶とか、性格とか、心の一部が、中に入ってきてる。それに、わたしが、わたしを食べる前の記憶だってある。でもね、私の中に残ってる『お姉ちゃんが大好き』って気持ちも、そのまま残ってる。わたしは、七海だけど、もう七海じゃない。でも、七海は、ここにいるの。ここで、泣いてるの。お姉ちゃんに会いたいって、ずっと・・・」


そう言うと、七海を名乗る人魚は、大粒の涙をこぼした。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


七海は、野犬に襲われたのではなく、人喰い人魚に食べられたのだと言う。


人魚は、食べた人の記憶や、想いをその身の内に取り込む。


この人魚は、食べた七海の記憶と、強い想いをその体に、その魂に抱えていると言うのだ。


そうして、人魚は、尾を損傷して動くことが出来ない。


ならば、夏子がやることは、ただひとつであった。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


千鳥浦の小さな漁港は、朝早くから漁師たちが戻り、取れた魚が船から水揚げされていた。


銀の鱗が光を反射し、魚たちがコンクリートの上に滑り落とされる。


だが、その中には、売り物にならない魚も混じっている。


大きさが揃っていない、傷がある、色が悪い・・・規格外の魚たちだ。


そうした魚は、選別の段階で脇へと放られ、やがてコンテナの中で冷たく横たわる。


誰も目を向けないそれらは、ゴミとして扱われ、海に放り込まれる。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


朝早く。


空気には、潮の香りと、魚の匂いが混じっている。


夏子が、港に着くと、ちょうど漁師たちが戻ってきたところだった。


魚が次々に放り出され、バシャリと音を立ててコンクリの地面に滑り落ちる。


売り物になる魚は、すぐに発泡スチロールに詰められ、トラックへと運ばれる。


残されたのは、傷ついた魚、ちょっと小さすぎる魚、色の悪い魚たち。


誰にも見向きもされず、次々とコンテナに投げ込まれていくその魚が、夏子の目的の品であった。


コンテナに近づき、静かに中を覗き込む。


そこには、ごちゃっと積み重なった魚たちが、横たわっていた。


用意しておいたズタ袋を開き、ひとつずつ拾い上げる。


冷たくぬめった鱗が、指に張りつく。


見た目が悪いが、さっきまで生きていたことに変わりはないし、まだ、ピクンピクンと動いているものさえいる。


売り物にならず、この後、海に投げ入れられる予定の魚だ。


遠慮する必要などない。


ズタ袋の中で、魚たちが重なり合い、少しずつ重くなっていく。


鼻に立ちのぼる魚の生臭さに顔をしかめながら、袋の口を結ぶと、夏子は、ゆっくり歩き出した。


誰にも気づかれず、誰にも話しかけられない。


夏子の足音と、袋の中で小さく動く魚がこすれる音だけが、静かについてくる。


海風が頬を撫でたが、彼女は、振り返らずに歩き続けた。


林道を越え、木の柵を越え、巫女の岩場へ。


いまだ泳ぐことが出来ない人魚・・・七海のために、魚を運ぶのだ。


彼女は、よく食べた。


そして、人魚の回復力は、驚異的だった。


魚を食べるごとに、傷が目に見えて埋まっていくのだ。


それでも、傷は大きく、1日や2日で治るといったものではなかった。


彼女は、毎日、朝は、ズタ袋を岩場へと運ぶ作業を続け、夜は、暗くなるまで七海と話をした。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


ある日のこと。


いつものように空が薄暗いうちに、夏子はそっと布団を抜け出した。


畳がひんやりとして、足裏に朝の気配が染みる。


音を立てないように障子を開け、ズタ袋をリュックに放り込む。


そうして、玄関をそっと開けたその時だった。


「どこ行くんだい?こんな朝っぱらから・・・」


不意に飛んできた声に、心臓が跳ねた。


振り返ると、そこに立っていたのは、祖母。


夏子は、とっさに笑った。


「ちょっと・・・海っ。朝の海って、気持ちいいから。」


「海なんて、昼でも見られるだろう。なんで毎朝、毎朝、こんなに早く・・・悪いことでもしてるんじゃないのかい?」


祖母の目が細くなる。


彼女は、笑顔を崩さず、肩をすくめた。


「そんなわけないじゃん。波の音、聞きたいだけだよ。まだ、こっちの学校に慣れてないから、少しでも、千鳥浦の様子を知りたいんだっ。そうすれば、みんなと共通の話題も出来るし・・・」


夏子は、靴のかかとを踏んだまま足を突っ込んだ。


祖母の視線が、背中に刺さるのを感じる。


喉が詰まりそうになった。


けれど、そっぽを向いたまま、ドアに手をかける。


「すぐ帰るから。心配しないで。ん-と・・・朝ごはんまでには、戻るよっ!」


後ろのほうで、祖母のため息が聞こえた気がした。


でも、振り返らずに歩く。


突っ込んだポケットの中。


手のひらが、汗ばんでいた。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


ぬるくなった夕方の空気が、むわりと体を包んだ。


家の中は薄暗く、灯りもつけずに祖母が座っていた。


腕を組み、まっすぐにこちらを見ている。


靴を脱ぐ間、視線に胸がきゅっと締めつけられた。


「いま、何時だと思ってるのさ。」


祖母の声は低く、でも、怒っているというより、心配をこらえているような響き。


夏子は、玄関でしゃがみ込み、靴を片付けながら答えた。


「ごめん・・・ちょっとだけ、遠く行ってたから」


「日が暮れるまで帰れない場所が、『ちょっと遠く』なのかい?」


「うん・・・その・・・新しい友達と一緒に、海見てたら、時間わかんなくなっちゃって・・・いろんな話もしてたし。」


嘘ではない。


ただし、相手は、友達ではなく、七海である。


遅くなっているのは、分かっていたが、彼女と離れたくない気持ちが勝ったのだ。


祖母の目が、細くなったのが分かった。


彼女は、視線を合わせず、リュックの肩ひもを外す手を忙しく動かした。


「ちゃんと帰ってこないと、心配するに決まってるだろ。何かあったんじゃないかって」


「うん、ごめん。ほんとに、ごめん。悪いって分かってる。」


立ち上がって、祖母のそばに行く。


そうして、テーブル越しに腰を下ろすと、わざと明るく言った。


「明日は、ちゃんと早く帰る。夕方には、戻るから。暗くなる前に!」


「ホントだね。ウソじゃないんだろうね?」


「うん。ホントに。明日は、早く帰る。おばあちゃんに心配かけたくないもん。」


見つめる祖母の顔の皺が、少し深くなった気がした。


夏子は、小さく笑って、コップに手を伸ばした。


冷めたかったはずの麦茶は、少しぬるくなっていたが、妙に丁度よく感じた。


祖母の視線を感じながら、彼女は、静かにそれを飲みほした。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


岩場を駆けると、靴の底が、ガリリと嫌な音をたてた。


木の根がところどころ顔を出し、息を切らしながらも、つまずかないように足元ばかりを見ている。


早くしないと日が暮れるというかのように、夕日がチラリと枝葉の隙間から差し込み、夏子をせかす。


祖母の顔が、頭の中に浮かんだ。


今日は、晩御飯に遅れちゃいけない・・・絶対に。


林道の前の木の柵の向こう。


ピタリと立ち止まる。


不意に人の影があらわれたのだ。


その足元には、明るい色のおしゃれなスニーカー。


あの人は、学校で講演をした大学の・・・。


それは、以前、学校で講演をしてくれた海洋生態学の研究者の女性だった。


「あー・・・海野先生?なんで、こんなところに?」


「えーと・・・夏子ちゃん?こんなところで会うなんて・・・私、さっきまで、海に潜ってたのよ。夏子ちゃんは、こんな場所で、ひとりで何してたの?」


明るく、でも少し驚いたような声。


先生は、ニコニコしていたけれど、その目は、じっとこちらを見ていた。


とっさに、おばあちゃんへのカモフラージュで採ったズタ袋の中の山菜を掴んで取り出した。


「わ・・わたしは、山菜を取りに・・・ほら、これミズナ。クセがあんまりなくて、おばあちゃんが、煮物とかきんぴらにしてくれるんだけど、茹でて水に通して、包丁で細かく刻んだらトロトロになるから、それを冷やしても、美味しいの。水の滴る影のある場所とか、崖のあたりに生えているから、この先がちょうどいいんだ。」


自分でも驚くほど自然に、口から言葉が流れ出た。


先生の表情が、へえ~っと緩むのを見て、ほっとする。


でも、安心はできない。


先生が、柵を越えて道をまっすぐ行けば、七海の居る巫女の大岩に辿り着いてしまう。


「あっ、でも、海野先生は、ダメだよ。慣れてないと、この柵の先は、危険だから。昔、この先で事故もあったらしいからねっ!」


誰にも知られたくないし、知られちゃいけない・・・


「雨で、土もゆるんでて、崩れかけてるとこあったし・・・。」


できるだけ大げさにならないように、でも、引き返したくなるくらいには心配そうに言う。


「じゃね。遅くなったら、おばあちゃんに怒られちゃう。ホントに、そっちの柵の先には、行っちゃダメだよ。」


渡したミズナを眺める先生をその場に残し、夏子は、音を立てて走った。


背中に視線を感じたが、振り返らず、林道を駆ける。


これで、秘密は、守られるはず・・・


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


翌朝、夏子は、巫女の大岩の前で立ちすくんだ。


手に持つズタ袋には、魚が詰まるが、それを渡すはずの相手は、すでに居なかった。


昨日まで、七海が横になっていた場所には、ひとりの女性・・・


喉は、食い破られ、腹の肉は食いちぎられたように欠け、胸の皮膚はまるで何本もの爪で引き裂かれたかのよう。


そう・・・あの木柵の前で出会った海野美咲先生が、横たわっていた。


夏子は、七海が人魚に喰われたことを、聞いたはずだった。


人魚に喰われるということが、どういうことかを、聞いたはずだった。


しかし、目の前の遺体を目にするまで、それを現実として、とらえられていなかった。


両手で持った重いズタ袋が、風に揺れ、夏子は、巫女の大岩の前で、立ちすくんだまま、ずぅっと海を眺め続ける。


やがて、力尽きたようにしゃがみ込むとつぶやいた。


「七海・・・」


しかし、海から、何かの返事がかえってくることは、いっさいなく、ただ波の音だけが夏子の耳に響いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ