60.留学!?
「嫌です」
「うん、知ってた」
きっぱりと断るネリーに、向かい合って座ったポドロフ枢機卿が頷いた。
「しかし、この町で生きていく上で、自分の力を正確に把握できていないのは困るだろう? ミス・ネリーもそれを自覚しているはずだ」
ポドロフの言葉にネリーはぐっと言葉を詰まらせる。
呪術師襲撃事件をきっかけに、ネリーは声を出せるようになった。さらに無意識なのか、喋っていても聖女の力が暴走することはなかった。
ただし、それがいつまでも続くとは限らない。なにかの拍子に暴走してしまうのを、教会はもちろんネリーたちも危惧していた。
件の呪術師の正体が教会関係者だったことから、聖光教会は上を下への大騒ぎだ。同時に聖女からの文通で「声が出るようになりました」と報告が来てさらにてんやわんや。
呪術師の処遇は他の枢機卿に任せて、ポドロフがこの町までやってきたのだった。
「聖法国への留学は、あなたにとって多大なメリットがある」
ポドロフは言葉を続けた。
「この店に永遠にいられないわけじゃない。むしろそのために、今は聖法国で聖女としての力を学ぶ必要がある。聖法国にいる間は私が後見人となろう。邪な奴らから守ってやれる」
「…………」
ネリーは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
食材の皮むきをしながら、フラヴィたちはその様子を窺う。手元が狂うと危ないのであまりよそ見はできないが、スタニスラフが風を操ってくれるおかげで会話がちゃんと届く。
「それに、今すぐという話ではないんだ。知っての通り例の呪術師のせいで国も教会もバタバタしている。それが落ち着いてから改めて君を受け入れる方針でもいい。……私としては、この機に乗じて留学を始めておくのも悪くないと思うけどね」
「……期間は、どれくらいになるんですか?」
ネリーが言葉を絞り出す。ポドロフは顎に手を添えて唸った。
「勉強の度合いにもよるが……。一年から三年と見ている。場合によっては、もうちょっと期間が延びるかもしれないし、早く帰れるようになるかもしれない」
「一年から三年……」
ネリーが難しい顔で黙る。ポドロフは優しい声で言った。
「ミス・ネリー。何度も言うけれど、今すぐ決めてほしいわけではないんだ。ただ、今回は私も簡単に引き下がれない。あなたやこの店の安全を願うなら、少しでも聖法国で学んだ方がいい」
ネリーも頷く。
「それは、わかっています。……すみません、時間をください」
頭を下げるネリーにポドロフは頷いた。
「焦らないでいい。大事なことだからね。店の皆さんとよく話し合って決めておくれ。私も一週間はこの町に滞在している予定だ。なにかあったら、町長の家に来るといい。そこに泊めさせてもらっているからね」
ポドロフは席を立つと、厨房にいた三人に礼をして店を去った。
とぼとぼと戻ってきたネリーにフラヴィが声をかける。
「聖法国に留学かあ……。たしかにいい案だけど、やっぱ離れるのは心配だなあ~」
「だが、たしかに枢機卿の言う通りメリットは大きい」
イモの皮剥きをしながらアルベルトが言った。
「あそこには歴代聖女の記録があるとの話だ。どのように自分の力をコントロールしていったか、その手掛かりは十分に価値がある」
「ええ、まあ、メリットは全員理解していますよ。ネリーも留学自体は嫌ではないんですよね?」
スタニスラフの問いに、剥き終わったイモの山を眺めていたネリーは頷いた。
「うん。……みんなと離れるのが嫌なの」
全員が唸った。
「あと、いろいろ言われるのも」
「だよねえ~」
フラヴィが項垂れる。
魔物肉の店で日常的にそれを食べていたのだ。教義に思い切り違反している。いくらネリーが聖女として覚醒したとしても、その事実は覆せない。そしてポドロフがかなり地位のある人間でも、潔癖な信者からなにを言われるかおおよその予想がついてしまう。そもそも教会自体が門を閉ざしてしまう可能性もあるのだ。
それを見越して、ポドロフは呪術師の混乱に乗じた留学を決めようと考えているのだろう。受け入れたあとは枢機卿権限で黙らせる気だ。
「でも勉強したいのも事実」
ネリーはホールの方を見た。三人もつられてそちらを見て、「ああ……」とため息をつく。
床の一部に、綺麗な円形の焦げが作られていた。
ネリーが覚醒した翌日のことだ。
いつものように、酒場の掃除に入った時のことである。
ホールには掃除しきれなかった残飯に害虫や害獣が群がっていた。それ自体は本当にいつものことなので、遠慮なく叩き出す。
しかしこの日は違った。
「ヒイッ!」
ネリーが悲鳴を上げた。彼女は虫が苦手だった。特に黒い楕円形の頭文字G。
それ自体はよくあることだ。ご近所でも悲鳴を上げて助けを求める人はいる。
だからネリーはいつも後ろに隠れて、アルベルトたちが追い払った後に水を汲んで床掃除をしていた。
「おー、いるいる」
フラヴィが頭文字Gに苦笑いする。なぜか今日はいつもより多い気がした。増えたとしても一匹二匹だが、苦手な人からすれば十分多い。
その頭文字Gの下が、突然発光した。
「え」
光は円柱状になって天井を突き抜ける。
ジュッ、となにかが消し飛ぶ音がした。
円柱の光はすぐに消える。
頭文字Gをはじめとした害虫や害獣は消えていた。
床が綺麗に円形に焦げていた。
「「「「…………」」」」
全員が沈黙する。
光の柱を見て、思い浮かぶのは聖女の力。
アルベルトたち三人がネリーを見ると、彼女も自分が信じられないような顔をしていた。
「……床」
ネリーが呟く。
「綺麗になりますかね?」
思わず敬語になった問いかけに、全員が顔を見合わせた。
「……どうだろう」
焦げは落ちなかった。
◆ ◆ ◆
「えー! ネリーちゃん聖法国行っちゃうの!?」
夕方からオープンした酒場で、早速冒険者が驚きの声を上げた。
周りの客がギョッとネリーを見る中、ネリーは慌てて手を振る。
「ま、まだ決まったわけじゃないんですよ。でも聖女の力を勉強するには最適な環境なのも事実で……その、またああいうことになるのは避けたいですし」
「ああ……」
冒険者たちはなんとも言えない顔で丸い焦げを見た。
ネリーが起こした「頭文字G発光事件」は、瞬く間に町中の知るところとなった。なんせ朝っぱらから小規模な光の柱が出たのだ。目立つ。
「でもあれ以来、聖女の力が暴走したことはないんでしょ? だったらわざわざ聖法国に行かなくっても練習を続ければいいと思うんだよね」
「聖法国にはここを目の敵にしている奴もいるんだろ? そんな怖いところにネリーちゃんを行かせたくない」
「お気持ちはありがたいんですけど……うーん……」
お盆を抱えてネリーは難しい顔をする。
聖女の力を学べるいい機会だとは思う。喋れるようになった分、いつどんなタイミングで暴走するのか自分でもわからなくなったのだ。コントロールが出来なければ今度は床を焦がす程度では済まされない。
「なーなー、女将さんはどう思ってるの?」
話を向けられたディアナが、配膳を終えて腕を組む。
「うーん……。私がどうこうというより、ネリーが行きたいかどうかよねえ」
「それは、たしかに」
客たちも頷く。
「ただ、それとは別に私個人の感情で言わせてもらうと、行っておいで、と思うのよ」
「えっ!?」
フラヴィが勢いよく振り返った。スタニスラフもアルベルトも同様だ。
「お、女将さん、ネリーとしばらく会えないんだよ!?」
「それはわかっているわよ。ここに居続けていても聖女の力の勉強はできる。それも理解できるわ。だって先人がいないんだもの。でもね、ここに居続けていたらわからないこともあるわ。外の世界を見て、いろいろと見るのも悪くないと思うの」
「それは、そうだけど……」
ディアナの言葉に、フラヴィは尻すぼみになる。
「それに、帰りたくなったらポドロフ卿にお願いすればいいじゃない。あの人、そういうところは融通が利きそうだし」
ネリーがハッとした顔になる。
「そっか。向こうに行ったら最低でも一年はいなくちゃいけないのかなって思ってた」
「聖女の力を勉強する前に、環境が合わなくてダウンしちゃったら元も子もないじゃない。なんなら最初は見学ってことでもいいんじゃないかしら? 枢機卿権限で聖女関連の本をこっちに持ってきてもらえれば、ここでも勉強できるんだし」
「女将さん、天才!」
「いやでも聖女関連の本って簡単に持ち出せるの?」
「写せばよくない?」
「おおう……歴代聖女の本をか?」
「そこらへんは枢機卿に任せようよ。だって枢機卿だし」
「そうだな!」
冒険者たちは無責任に笑う。
同じころ、町長宅で食事をしていたポドロフを悪寒が襲ったとか襲わなかったとか。
「一人で悩むより、いろいろと相談した方がいいわ。聖法国のことをポドロフ卿に訊ねてみるのもいいし。一週間、じっくり悩みなさい」
「はい。……あの、女将さんは寂しくないんですか?」
ネリーが問いかける。快く送り出してくれるのはありがたいが、彼女に限って薄情な選択をするとは思えない。でも、自分だけが不安や寂しさを抱えているのではないかとも錯覚してしまう。
「そりゃあ寂しいわよ」
ディアナは即答した。
「なにかあっても助けに行ってやれない。手紙だって時間がかかるわ。ポドロフ卿がいるとはいえ、あなたをすべての脅威から守れるほど人は万能じゃない。でもね、あなたの家はここよ。怖かったり、嫌なことがあったりしたら、すぐに帰る手配をしてもらいなさい。それだけは誰にも止められないわ。止めた奴がいるなら私が駆けつけるし」
「おっ、それなら俺らもついてっていい?」
冒険者の一人が名乗りを上げた。
「可愛い妹分を誘拐したってことで」
「はあ!? ネリーちゃんはみんなの妹分だろうが!」
「突っ込むところそこ!?」
「当たり前だ! 聖法国がこっちをどう言おうが勝手だが、直接手を出すってんなら話は違う!」
「その通り! 銀のカナリア亭の常連の名に懸けて、売られた喧嘩は高値で買ってやる!」
「「「おおおおおうっ!!」」」
酔っぱらった冒険者たちが拳を突き上げる。比較的理性の残っている常連たちは苦笑しているが、誰も止めない。
「……うん」
ネリーは頷く。嬉しくて泣きそうだった。
「ありがとうございます、みなさん」
行くか、行かないか。どちらを選択しても、きっと誰も責めない。責める理由がない。
硬くなっていた心がほぐれていくようだった。
◆ ◆ ◆
「見学か。そうだね、なにも知らない場所にいきなり行くのは、たしかに負担だ」
翌日、ポドロフは顎を撫でて頷いた。町長宅で向かい合ったネリーは訊ねる。
「歴代の聖女様は、幼い頃から教会で暮らしていたのですか?」
「ええ。聖女様のギフトは特別な力を持つ。三歳の信託の儀式でギフトが明らかになると、すぐに教会に保護される決まりだ。……そういえば、ミス・ネリーは信託の儀式を受けていないのかな?」
「記憶がないので、たぶん」
物心ついた時には飢えと格闘していた。喋れない恥さらしを世に出すくらいならと、餓死を目論んだのだろう。
「ならば、観光ついでに信託の儀式を改めて行うとしよう。こちらで手配しておく」
「ありがとうございます」
頭を下げたネリーは、ふと思いついて顔を上げる。
「あの、ポドロフ卿。聖法国に行く道中で、歴代の聖女様のことを伺ってもよろしいですか?」
「もちろん。長旅になる。私が知っている限りではあるが、お教えしよう」
「ありがとうございます!」
事前知識があるのとないのとでは大きく違う。
「では、来週には出発ということでいいかな?」
「はい。お店の皆さんにも伝えてきます」
礼をして去るネリーを見送って、ポドロフは一人聖句を唱えた。
「あまねく照らす光の神よ。どうか彼女の旅路に祝福を」
今後は不定期更新となります。よろしくお願いします。
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