6.ある魔物の目から
その魔物は、スレンドの森と呼ばれる場所に長く暮らしていた。
魔物は基本的に臆病だ。己の住処を荒らされたか、仲間が多すぎて追われたなどの理由がない限り、森の外に出ることはない。
それでも魔物は毎日生まれる。土の中から、木の中から、あるいはなにもない場所から。
魔物は新しく生まれた同族と、その地の覇権を巡って衝突する。だいたいは新しく生まれた魔物の方が力が強いので住処を追われるのだが、その魔物は長らく己の住処を守ってきた。
魔物の力の全盛期は、生まれ落ちた直後と言われている。そこから少しずつ力が衰えていき、新たに生まれた同族に己の地位を譲る。そうやって緩やかに新陳代謝を行うのだ。
だというのに、その魔物はもうずっとその場所に君臨し続けていた。毎日飽きもせず現れる新参者を返り討ちにし、時には食らう。これも自然の摂理の一つ。たまになわばりを広げようと喧嘩を売ってきた魔物も同様だった。
いつしか、魔物は他の同族から一目置かれるようになった。魔物は悠々と、小さくもなければ大きくもない己の住処で暮らし続けた。食べ物は豊富にある。水場も近い。食べて、寝て、たまに喧嘩を買う。そこは魔物にとって楽園だった。
……しかし、最近魔物の周辺が騒がしくなった。なわばり争いで近くの魔物が世代交代をしたわけではない。そんなのは日常茶飯事だ。
見慣れない者たちがいる。二足歩行で、まるで襲ってくれと言わんばかりに集団で固まっている五体ほどの生き物。
冒険者だ。無断で住処を荒らすならず者。同胞たちが彼らの手にかかっていることは、その魔物も知っていた。
魔物は臆病だ。そして実力主義だ。強い者が良い場所を独占し、弱い者はやがて誰かの糧になる。しかし、冒険者はその絶対的なルールを踏みにじる。自分たちが正義だとでも言うように。
魔物は許せなかった。土足で自分たちの住処を荒らす者たちが。我が物顔で闊歩するならず者たちが。
魔物は実力主義だ。
ゆえに、王者はその地の安寧を守る義務がある。
◆ ◆ ◆
「突然変異個体?」
「ええ。冒険者たちが話していました」
酒場を閉めて、翌日に出す魔物肉の仕込みをしながら、ディアナとスタニスラフは言った。
「ビッグ・ベアの超巨大版みたいですよ。命からがら逃げきったみたいですけど、何人かはしばらく動けないそうで」
「そっかー。それでみんなちょっと元気がなかったのね」
ボアボアの塊肉を布で包んで、ディアナはため息をつく。酒場はいつものように満員御礼だったのだが、冒険者たちの覇気が弱いのが気になっていた。
後ろで棚の高いところに登っていたフラヴィが会話に入った。
「どこにいるかとかはわからないの?」
「そこまでは。ですが、女将さんがしばらく入っていない箇所を考えれば、おのずと絞り込めるかと」
「……だとすると、山脈に近い北西エリアね」
ディアナは地図を思い浮かべた。
スレンドの森は広い。どこを探索するかで景色が変わる。湿地帯を中心とした場所もあれば、木漏れ日が差し込む穏やかな場所もある。天然の洞窟にはシメリツユが群生しているが、同時に魔物たちの住処にもなっている。
北西エリアは穏やかな場所だ。トレントはおらず、季節を問わず木の実が豊かに実っている。ボアボアとビッグ・ベアの共存地だ。
まんべんなく森を回っていたが、見落としがあったらしい。巨大な突然変異個体ともなれば、その力は通常の個体をはるかに上回る。
「ギルドの依頼を横取りすることにならないか?」
アルベルトが静かに口を開いた。ディアナもうーんと首をひねる。
「そうなのよねえ。でも、犠牲者が出てからじゃ遅いのよ」
ディアナは冒険者ではない。だから公に依頼を受けられない。冒険者たちも生活が懸かっているから、そのあたりの住み分けにはとても気を遣う。
だが、イレギュラーな突然変異個体は、時に冒険者のランクをしのぐ。よそからの応援を待っている間に誰かが死ぬ可能性がある。
それは避けたかった。
「冒険者の皆には悪いけど、明後日のメインディッシュになってもらおうかな」
ディアナがアルベルトの方を見れば、彼は仕方なさそうに肩をすくめるだけだった。
◆ ◆ ◆
まただ。また冒険者が来た。
先日、なわばりに入り込んだ愚か者たちを一蹴してやっとというのに、性懲りもない。
魔物にとって意外だったのは、次の相手は一体――一人であったこと。
「こんにちは、ビッグ・ベアさん」
にこやかに、その冒険者は語り掛ける。
「突然で悪いけど、死んでもらえないかしら」
手にしていた巨大な武器が軽々と振り回された。
魔物――ビッグ・ベア突然変異個体ギガント・ベアは、伏せてその軌道を外れる。そのまま四肢に力を込めて突進した。
だが冒険者もこれを軽々と避ける。
この間の一団とは違う。あちらはまとまっているが故に精彩を欠いていたが、こちらは一人である分、心置きなく暴れられる。
「ガアアアアッ!!」
咆哮を上げて再度突進、爪を振り上げる。一振りで同胞の胸を切り裂いた立派な爪だ。あの変な鉄の塊だって粉砕できる。
そう思った。
ガキィン、と音を立てて爪が受け止められる。鉄にちっとも食い込まない。
小さい体だというのに、ギガント・ベアの膂力と拮抗――いや、押し返している!
「ああ、やっぱり強いのね、あなた」
冒険者が独り言ちる。一歩踏み込んで、ナタが振り下ろされる。柔い手の平から胸にかけて、血飛沫が舞った。
「ギャグワァァッ!」
「こんな奥深くにいたから、しばらく誰も気付かなかったのね」
可哀想に。
付け加えられた言葉の意味を、ギガント・ベアは理解できなかった。
そもそも使用している言語が違うからそうなのだが、ニュアンスは伝わる。
哀れみ。
初めて向けられたその感情に、ギガント・ベアは全身の血が沸騰したような気がした。
「ガアアアアッ!!」
殺す、殺す、殺す!!
その小さい体を切り裂き、踏みにじり、食わずに腐らせ朽ちていく様を嘲笑ってやる!
勢いをつけて振り下ろされた手が土塊を跳ね上げる。続いてもう片方の手を横薙ぎに振る。
跳ね飛ばしただろう手応えは、ない。
「ごめんなさいね」
その声が聞こえたのは、後ろだった。
「あなたの体は、みんなの糧にするから」
それが、ギガント・ベアが聞いた最期の声だった。
◆ ◆ ◆
「よーいー……っしょ、っと」
ギガント・ベアに負けない巨木にその体を吊るして、ディアナは一息ついた。
「はー……。久しぶりにいい汗かいたわあ」
汗だくの顔を持ってきたハンカチで拭う。それから、放血しているギガント・ベアの体を改めて見やる。
細い枝のようにゴワゴワとした毛並みはほとんど灰色。皮膚には老化によるたるみが目立つ。毛皮に覆われていて詳しい年代こそわからないが、スレンドの町の冒険者たちに依頼されるビッグ・ベアよりもずっと年老いている。
それでいてその体は二回りも三回りも大きい。パワーも体の大きさに比例していた。まともに冒険者がやりあうなら、A級以上の実力者でなければ太刀打ちできなかっただろう。
「魔物に寿命があるのかはわからないけど……。きっと、長く生きすぎちゃったのね」
ディアナは首から切り離した頭部に手を当て、なにも映さないその目を閉ざしてやった。
「お疲れさま」
短い祈りを捧げて、ディアナはスコップを手にする。頭部を埋めるために地面を一つ掘り返したところで、背後に気配を感じた。
「……あら、お友達かしら」
そこにはビッグ・ベアが数体いた。一体がのそのそとディアナに近付き、その傍らにある頭を見る。
ディアナは手を止めて、ビッグ・ベアを見守った。もし敵討ちなどの行動に出てきたら、こちらも反撃しなければならない。
だがビッグ・ベアはしばらく頭部を見つめるだけで微動だにしなかった。ディアナの存在も目に入っていないようである。
「……ウォォォォー」
やがて、遠吠えに似た声を上げた。
「ウォォォォー」
遠巻きにしていた他のビッグ・ベアたちがそれに合わせて遠吠えをする。
「ウォォォォー……」
遠くからも別のビッグ・ベアの遠吠えが聞こえる。
まるで鎮魂歌を歌っているかのような、静かな合唱だった。
遠吠えがこだまのようにして止んでいく。完全に止まるのを聞き届けると、ビッグ・ベアがギガント・ベアの頭をくわえて仲間の元へ戻っていく。
ディアナはそれを、しずかに見送った。
あの頭をどうするのかは知らない。畏敬の念を持って飾るのか、ただの遊び道具にするのか。それは彼ら次第だ。
そのやり方に口を出すのは違う。殺し殺される間柄以前に、彼らはこの森で生きている。その生き方にまで手を加えるのは傲慢というものだ。
ビッグ・ベアの群れはそのまま森の奥へと消えていった。ディアナの側に残ったのは、大きなギガント・ベアの体だけ。
「……大丈夫。あなたの体は、余さず有効活用させてもらうから」
ディアナは、誰に言うともなしに言い聞かせた。それから、今しがた掘ったばかりの小さな穴に、土を埋め戻した。
翌日の、銀のカナリア亭。今日も今日とて満員御礼である。
「なあなあ女将さん、今日はなにがあるんだ?」
冒険者の一人が酒を片手に問いかける。
「今日はねえ、ビッグ・ベアのステーキよ。昨日、とっても大きなビッグ・ベアが狩れたの」
次の瞬間、冒険者たちが水を打ったように静まり返る。
「……うん? みんな、どうしちゃったの?」
「…………。女将さん、そいつ、灰色のビッグ・ベアだった?」
「そうねえ。そんな感じの色だったわ」
「体もこう、もっと大きくなかった?」
「ええ。普通のビッグ・ベアが子どもに見えたわ」
再びの沈黙。厨房からビッグ・ベア――もといギガント・ベアの肉を焼く音だけが店内に響く。
「……め」
やがて、一人が声を震わせる。
「女神だあ~!!」
それに呼応するように、冒険者たちが雄叫びを上げる。
「うおおおおお!!」
「マジか、マジなのか!」
「女将さんマジ女神!」
「勇者だ、救世主だ!」
「ありがとう、ありがとう!!」
「抱いて!」
拳を突き上げ、抱き合って喜ぶ冒険者たち。一部不埒な言動をした奴はフラヴィたちに小突かれていた。
「え、えええ……?」
「ありがとう女将さん! これで仲間が浮かばれる!」
「おい勝手に殺すな!」
号泣して祈り始めた冒険者の頭を仲間がひっぱたく。どうやら討伐や調査に行って返り討ちに遭った一団のようだ。
「でもマジでありがとうな。俺らじゃ歯が立つか微妙だったんだ」
「まあ、そうだったのねえ」
微妙どころか太刀打ちできなかっただろうなとは言わないでおいた。
「おーい、第一弾焼けたぞ」
アルベルトがカウンターにステーキを並べる。
「女将さん、ちょっと手伝ってくれ。手が足りそうにない」
「わかったわ」
「ビッグ・ベアのステーキ、順次持っていくから待っててねー!」
いよっしゃあ、と冒険者たちが歓喜に沸く。五つつあるかまどがフル稼働でステーキを焼いていく。
「自分たちで討伐できなかったから、ちょっと悔しいですか?」
ステーキを配膳がてら、スタニスラフが小声で訊ねる。
「否定はしねえよ。でも、だからこそ食って力を付ける!」
冒険者はそう答えて、肉にかぶりついた。
「良い食べっぷりですね。そうだ、いいものがあるので持ってきますね」
「おう……って勝手に追加注文すんな!」
気付いた冒険者が振り返って抗議したが、スタニスラフは「まあまあ」と笑顔で厨房に引っ込んだ。すぐに小皿を持って戻ってくる。
「こちらです」
「あ? なんだこれ」
出てきたのは細長く切られた肉のようなものだった。
「ビッグ・ベアの内臓の煮物です」
「煮物」
「試食させてもらいましたけど、美味しかったですよ。嫌な臭いもなくて、淡白な味わいでコリコリした食感がクセになりそうな一品なんです」
そう言われると、好奇心がうずく。おそるおそる一切れ食べてみる。
木の実よりも柔らかく、それでいて肉よりも弾力がある。でも嫌な感触ではないし、ちょっと力を込めて噛んだら噛み切れた。肉そのものが淡白な分、ちょっと濃い目の味付けがうれしい。――美味い!
「へえ、これ面白いな」
「スタニ、それまだある?」
「ええ、もちろん」
あちこちのテーブルから、ステーキだけでなく煮物の注文が入る。
「スーくん、賄いの分まで残しておいて!」
「善処しまーす」
「料理長、ちょっとフライパン見てて! お肉確保するから!」
「ハイ!?」
料理長の珍しく焦った声に、店内がドッと沸く。
いつもより賑やかな夜だった。
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