55.風邪引いた(ネリーの場合)
息ができない。いや、口で呼吸ができるから、その表現は正しくない。
正しくは、鼻で息ができない、だ。
「鼻が詰まって苦しいか」
往診に駆け付けたレヴェントン医師にネリーは頷く。
熱に加えて鼻詰まりで、頭がぼんやりする。ネリーはフラヴィたちに用意してもらったタオルで鼻をかんだ。こうすると、一時的に鼻が通るのだ。
「かみすぎは良くないから、ほどほどにな。解熱と鼻通りを良くする薬を出しておくから、それぞれ朝昼晩と飲むように」
レヴェントンは優しくそう言って、粉薬を二種類処方した。薬包にそれぞれ「熱」と「鼻」と書かれているものが九つずつ。つまり三日分だ。
「まずは今、これを一個ずつ。ゆっくりでいいからね」
ネリーは頷いて、一つずつ薬を飲む。
昔食べた雑草の味がした。
ただ、鼻詰まりのせいで嗅覚や味覚も鈍っているらしい。息はしづらいけれど味に苦労せず二つとも飲み込めた。
「うん、ひとまずはこれでいい。あとはゆっくり寝ていなさい」
ネリーはこっくりと頷いて、ベッドに潜り込む。
「じゃあお大事にね」
出て行くレヴェントンに手を振って、ネリーは眠った。
コンコン
「ネリー、入るね」
ノックの音とフラヴィの声で、ネリーは覚醒した。
鼻詰まりは健在で、意識が浮上すると同時に息苦しくて嫌になる。
「ご飯食べれそう? ここに置いておくね」
フラヴィが机になにかを置く。それに対してネリーは横になったまま頷いた。
正直に言うと、まだ眠い。
「どうする? 濡れタオル持ってくる?」
フラヴィの問いに頷く。頭がぼんやりしている今、それはとても魅力的な提案だった。
「ん、じゃあ待ってて」
フラヴィが急いで部屋を出る。
ネリーは起きて待っていようと思ったけど、すぐにまた眠ってしまった。
――暗い。苦しい。
沈んでいく。沈んでいく。
戻れない。ダメ。嫌だ。
――死にたくない!
ネリーは息苦しくてまた目が覚めた。
心臓がバクバクと激しく脈打つ。
口から何度も深呼吸をして落ち着く。
暗い部屋。暖かい毛布。
(――あ、そうか。風邪引いたんだっけ)
ぼんやりとしながら思い出す。ゆっくりと起き上がると、頭からなにかが落ちた。
温く湿ったタオルだった。
(……フラヴィさん、来てくれたんだ)
ほっと安堵する。親を名乗っていた人たちとは違うとわかっていても、心のどこかで諦めや疑心暗鬼になる。
机の方を見ると、フラヴィが持ってきてくれた皿がまだ残っていた。それにも安堵する。
のそのそとテーブルの方に移って、布巾を取る。
甘い牛乳を吸って膨らんだコメが深皿に盛られていた。
(ええっと、たしかライスプディング)
フラヴィが体調を崩した時にアルベルトが作っていた。病人の特権だとも言っていた。
「そうそう。子どもの頃はそれを食べたくて風邪を引きたいなんて思いましたもんね」
スタニスラフが笑って頷いていた。そういうものなんだ、とこの時は思っていた。
スプーンですくって、一口。
さっぱりしていて甘い。冷たくてするすると喉を通る。
なんで病人の特権なのかはわからないけど、食べたいと思うのは頷ける。
食べやすくて、甘くて、心地いい。
あっという間に空になってしまって、ちょっと名残惜しいと思った。
(……そうだ、薬)
机の上にあった薬包の山から、一種類ずつ取り出す。
苦いそれらを飲み込んで、またベッドに潜った。
(さっき、変な夢を見ていた気がしたけど、忘れちゃった)
思い出しても楽しくなさそうだから、それは別にいいけれど。
(また変な夢を見るのは嫌だなあ)
体調を崩しているから変な夢を見たのだろうか。
でも体がまだだるいのは本当。
仰向けになって、まだ湿っているタオルを折り返して額に乗せてみた。ひんやりして気持ちいい。
(あ、喉乾いた)
ベッドに張り付いたかのように体が重かったけれど、それに抗って起き上がる。
水差しからコップに水を注いで、ゆっくりと飲む。冷たい水が喉を通じて胃を満たす。そこから全身にじわりと冷たさが広がるようだった。
コップを机に戻して、ネリーはまたベッドに寝転がる。タオルを額に乗せて、目を閉じた。
ぱちり、と目を覚ます。
なんの前触れもなく目を覚ます時があるが、今もそうだったらしい。
「あら、起きた?」
ディアナの声がして、横を見る。机になにかを置いたところだった。
「食欲はありそう? 料理長に薄味のスープを作ってもらったのよ。パンも付いているから、食べられそうだったら食べてね」
ネリーは横になったまま頷く。
相変わらず鼻は詰まっていて匂いはよくわからない。でも口を通じて、かすかに美味しそうな匂いは感じ取れた。
額のタオルが落ちるのも構わず、手足を空中でばたつかせて起きる。途中でディアナが助けてくれた。
「ご飯食べる?」
ディアナが訊ねてくれたので、ネリーは頷く。彼女が引いてくれた椅子に座って、トレーの上にあるスープを見た。
一口サイズよりもさらに小さくした野菜や肉が入ったスープだ。透き通っていて器の底も見える。
不意に部屋の中が明るくなった。ディアナがランプに火を灯してくれたのだ。
「ぜんぶ食べられなくても大丈夫よ。一口でも食べられたらいいわ。あ、薬は飲み忘れないでね」
ディアナは優しくネリーの頭を撫でて、酒場に戻っていった。
残されたネリーは、パンを手に取る。小さくちぎってスープに浸してから食べると、優しい味が口の中に広がった。水分を含んでしっとりしたパンが美味しい。
酒場は冒険者をはじめとした労働者が集まる場所だから、自然と味が濃くなる。でもこのスープは味付けが控えめだ。その分、パンの中にある小麦の味がより引き立つ。
具材の野菜や肉もほろほろと崩れて食べやすかった。最低限の味付けで塩もほとんど使っていなかったのだが、それが今のネリーにはちょうど良かった。
鼻呼吸ができないからゆっくりと食べ進める。そのおかげか、食べ終える頃にはすっかり満腹だった。
忘れないうちに薬も飲んでおく。それから、いつも使っているメモから紙を一枚破いてペンを走らせた。
『美味しかった。ありがとう。明日も風邪だったら、お昼はライスプディングがいい』
あまりわがままを言ったことはないが、これくらいのリクエストだったらきっと応えてくれる。それに、ダメそうならダメそうでちゃんと理由を言ってくれる気がした。
この店の人たちは、あの人たちとは違うから。
ネリーはそのまま睡魔に身を委ねて、毛布の中に潜り込んだ。
翌日のお昼は、ライスプディングだった。
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