53.風邪引いた(フラヴィの場合)
その日はいつもより疲れていたと、フラヴィは自覚していた。
しかし疲労が溜まってしまうのはありがちなことだ。ゆっくりと寝れば次の日には元気になる。
だからいつものように店に立って、いつものように仕事をしていた。
「フラヴィちゃーん、こっち注文いいー?」
「はーい」
常連客に呼ばれて振り返る。
次の瞬間、世界が回った。
「キャーッ!」
「フラヴィ!? 大丈夫!?」
悲鳴が上がる。誰かが駆け寄る。
床が冷たくて気持ちいい。
その思考を最後に、フラヴィの意識は落ちた。
「あんた、こんなに熱があったのによく店に立てたな?」
往診に駆け付けた――というか連れてこられたレヴェントン医師が、心底呆れた表情でフラヴィを見た。フラヴィはぼんやりとしながら答える。
「一日寝たら……回復するんで……」
「風邪を甘く見るな。特に熱が高い時は、体が必死に病魔を追い出そうと戦っているんだ。追い打ちをかけてどうする」
レヴェントンは反論しながら、乳鉢でゴリゴリと薬草をすり潰す。
「体が熱くて、相当にしんどかったはずだ。あさって、また診にくる。それまで絶対安静だ。あと薬も処方しておくから、朝昼晩とちゃんと飲むんだぞ」
「はぁーい……」
そんなに心配すること? とは言えなかった。銀のカナリア亭で働く前なら、強壮剤などで無理やり誤魔化していた。ここではそんな無理をすると心配されるし、なによりディアナに怒られる。
かつて強壮剤を隠し飲んでいたところを目撃され、仕事そっちのけでお説教されたことがある。
腕を組み仁王立ちで、笑顔で説教する時の圧力は半端じゃなかった。
「昔は無理しろなんて言われたかもしれないけど、今は無理なんて許しません。あなたがフラフラしながら働いていても、誰も喜ばないわ。今は休んで、元気になるまで寝るのがあなたの仕事。わかったらベッドに行くこと! いいわね?」
(あの時の女将さん、今までで一番怖かったなぁ)
他人事のように笑って、ふと気付く。
(……あれ? これもしかして、また怒られるパターン?)
強壮剤を使っていなかったが、無理をしていたのは本当だ。笑顔で理詰めの説教をされるのは堪える。なかなか起き上がれない今は尚更だ。
「はい、これが今朝の分。ちゃんと飲みなさい」
「はーい……」
もだもだしながら起き上がる。いつもより体が三倍くらい重い。受け取った小さな丸薬を口に放り込み、水で流し込む。薬草の苦みと青臭さで顔が大きく歪んだ。
「苦い……」
「良薬は口に苦し。苦くない薬なんか薬じゃないぞ」
レヴェントンはカラカラと笑って、丸薬を一つずつ紙に包んだ。
「じゃあ、お大事にな。しっかり寝て休むんだぞ」
「はーい」
部屋を出るレヴェントンに手を振って、フラヴィはベッドに倒れ込んだ。
起き続けるのも億劫になるほど、今は体が重い。加えて全身が内側から燃えるように熱かった。
「……さむ」
そのくせ、毛布がないと寒くて寝られない。毛布を手繰り寄せて口元までかぶった。
こんな風に寝込んだのは、いつ以来だろうか。思い出そうと思ったけど、粘土のように重い思考はそこまで辿り着けなかった。
コンコン、とノックがする。誰だろうかと思っていたら、控えめに開いたドアの隙間からネリーが顔を覗かせた。
『大丈夫?』
近付いてきてメモを見せる。フラヴィは口元を毛布で隠したまま答えた。
「大丈夫じゃ、ないかな……。ネリーもあんまり長居しない方がいいよ。移っちゃう」
ネリーは頷いて、またメモを書く。
『なにかしてほしいこと、ある?』
聞いてなかったんかい、というツッコミはできない。きっとディアナあたりにけしかけられたのだろう。
それに、してほしいことも、ある。
「うんとね……。冷たいものが欲しい。濡れタオル、おでこに乗せたい」
熱さましの定番だ。熱くて寒いのは本当だが、ここに冷たいタオルを乗せておくだけで気分が軽くなる。
ネリーが頷いて部屋を出た。
すると、途端に静寂が気になってくる。キィーンという沈黙特有の耳鳴りが聞こえてきそうだった。
寝なきゃいけないのに、無音が落ち着かない。寝返りを打って誤魔化した。
(静かだと落ち着かないのかな? あたし……)
あまり長居はさせたくないが、また来たら話し相手になってもらいたい。
「っくしゅん」
寒い。フラヴィはのそのそと起き上がり、クローゼットから冬用の毛布を引っ張り出した。
(あー、あったかい)
冬はもうちょっと先だが、これが暖かいと感じるなら相当重症だ。
冬用と夏用の毛布の二段構えで寝ると、びっくりするくらいすぐに寝落ちた。
なにかが上からずるりと落ちた感触がする。フラヴィの意識は浮上したが、まだまどろみの中にいた。
(あー……熱出たんだっけ)
寝る前までの記憶を手繰り寄せて、なんとか思い出す。
ついでにまぶたを押し上げてやると、暗い部屋が映った。
なんとなしに寝返りを打ったら、白い物体が目に入る。
「……タオル?」
タオルは小さく折り畳まれていた。触れてみると、タオルは生ぬるく湿っていた。
「ぃ……よっこいしょっと」
気合を入れて体を起こす。テーブルの上に桶が乗っていた。小さなメモもある。
『本当はつきっきりで看病したかったけど、うつったら困るって女将さんに怒られた。タオル、乗せておくね。ネリー』
書かれた内容にフッと笑みがこぼれる。桶を持ったままそわそわしていて、ディアナに見咎められたのだろう。情景がありありと浮かんでくる。
コンコンと、ノックの音が飛び込んだ。
「フラヴィ、入りますよ」
スタニスラフの声がして、ドアが開く。手にトレーを持っていた。
「おや、起きて大丈夫なんですか?」
「今起きたとこ。それなに?」
「お昼です。料理長が作ってくれましたよ」
「本当? やったー」
いつもなら両手を上げて元気に喜んでいるところだが、今はベッドの上で微笑むだけ。それだけ体力を持ってかれている証拠だ。
「食べます?」
「食べる」
「じゃあ膝に載せちゃっていいですか?」
「うん」
トレーが膝の上に載せられる。それからランプに火を灯された。
「あ、ライスプディング」
「風邪引きさんの特権です。ゆっくり食べてくださいね。あと薬も」
「はーい」
「後で回収しますので、食べ終わったら机に置いておいてください」
「うん、わかった」
さっさと撤収するスタニスラフに手を振り返す。
ドアが閉められて、また部屋が暗くなる。机の上のランプが心強かった。
「いただきまーす」
スプーンを手に取り、ライスプディングをすくう。口に運ぶと、冷たくてトロッとしたソースが口の中を満たした。
(ああ~美味しい~)
つぶつぶのコメも軟らかく煮られている。それもミルクをふんだんに吸ってくれているので甘くて冷たい。熱で火照った体にありがたかった。
ばくばく食べるのがもったいなくて、ゆっくりよく噛んで味わう。昼はともかく、夜は仕事の合間に詰め込むようにして食べるから、美味しいのに味わう余裕がなかった。
(まあ、熱の時くらいはいっか)
うつったら困るので隔離看病されている。店に顔を出すなんてもってのほか。邪魔されることもないから、久しぶりにのんびりした食事時を過ごすのも悪くなかった。
ただし、それと寂しさは別物であって。
名残惜しくもライスプディングを完食して、薬を飲んでランプを消す。
横になったら、またなんとも言えない寂しさが襲ってきた。
(寂しい、か)
昔は一人が当たり前だった。一人で仕事をこなして、一人でものを食べて、一人で眠る。
この店に来てから、誰かと一緒にいるのが当たり前だった。寝るときに一人なのは変わりないが、周りに誰かがいることの安心感は、暗殺者をしていた頃は知らなかった感情だ。
今も、店にはアルベルトたちがいる。だから一人ではない。だが一度自覚した孤独を振り払うのは、熱に侵された状態では至難の業だった。
(誰か、来てくれないかな)
まどろみの中で考えているうちに、いつしか意識は深く沈んでいった。
「――ィ? 入るわね」
遠くから声が聞こえる。それに引っ張られるようにして意識が浮上した。
「あら、起こしちゃったかしら」
入ってきたのはディアナだった。テーブルにトレーを置いて、ランプに火をつける。
「……女将さん」
「しんどうようなら、寝ていた方がいいわ」
ディアナがフラヴィの髪をかき上げる。フラヴィはそれに答えず、ディアナに問いかけた。
「女将さん、怒ってる?」
「え? どうして?」
「だって……具合悪いの、隠してたから」
毛布を鼻まで持ってきて、もごもごと続ける。
ディアナはぱちくりと瞬きをして、小さく破顔した。
「病人に追い打ちをかけるようなことはしないわよ。その様子なら、反省しているんでしょ?」
フラヴィが頷く。
「だったら、次からはちゃんと報告、連絡、相談すること。また急に倒れたらびっくりするからね、私たちもお客さんも」
フラヴィがまた頷くと、ディアナは優しい手つきでフラヴィの髪を梳いた。
「ご飯はここに置いておくわ。残しちゃっても構わないから。薬はちゃんと飲んでね」
「んー……」
曖昧に返事をする。毛布の下からのろのろと手を出して、離れかけた手を掴む。
「あら、なあに?」
「…………」
訊ねられて、返事に困る。回らない頭で考えた末、ストレートに答えた。
「もうちょっと、一緒にいたい」
「…………」
ディアナはちょっと困ったように部屋の外を見た。おそらくもうすぐ酒場が開く。フラヴィもなんとなく察しはついている。でも、手を離したくなかった。
「……わかったわ」
ディアナがため息交じりに頷いた。椅子を持ってきて、そこに腰掛ける。
「珍しく甘えてきたものね」
「ん……」
改めて言葉にされると恥ずかしい。空いている手で毛布を引き上げる。
ああでも、一人じゃないって、安心する。
視界が暗くなる。体が沈んでいく。
「ゆっくりおやすみ、フラヴィ」
ディアナの声が心地いい。
眠気と倦怠感に身を任せて、フラヴィは眠りに落ちた。
次に起きた時はきっと、もうちょっと体が軽くなっているはずだ。
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