37.その者、人族にあらず
「――?」
ディアナの弁当作りを眺めていたネリーが、不意に二の腕をさすった。
「ネリー、どうした?」
気付いたアルベルトが訊ねるが、ネリーも首をかしげるだけ。だが二の腕をさする手は止まらない。
「風邪かな?」
フラヴィがネリーと自分の額に手を当てるが、「んー、平熱?」とこちらも首をかしげる。
「心配だわ」
ディアナが夕べの残りの野菜を炒めながら言った。
「念のため、夕方まで休んでいたほうがいいかもね」
振り返った彼女にネリーが渋々と頷く。
「頼もう」
その時、ドアが開いて誰かが入ってきた。
「わお」
とフラヴィが驚嘆のため息を漏らす。
その者のいでたちは、どこかの貴族のようであった。整えられた黒く短い髪に、彫像のような端正な顔。すらりとした体躯を包むのは白のシャツに黒の燕尾服。早朝なのにこれから夜会に出かけようかといった風情の男に、全員が呆気にとられた。
「ごめんなさい、今準備中なの」
フライパンを火から下ろしていたディアナが、少し遅れて客人を見る。
「夕方、に――」
あんぐりと口を開けて言葉が止まる彼女へ、男はにこりと微笑みかける。
「承知している。どうかそこを融通してはもらえぬか」
天使でも舞い降りたかのような微笑に、けれどディアナは動かない。
「…………」
「お、女将さん? 大丈夫?」
フラヴィが小声で呼びかける。
ゆっくりと口を引き結んだディアナの顔は青白い。なのにその目には敵意がありありと浮かんでいる。どう考えても普通ではなかった。
「……なにを、望んでいるの」
ディアナがやっと口を開いた。およそ客に対するものではない口調に、周りの四人がギョッとなる。
「そなたが扱う魔物の肉。あれを食べてみたい」
「それだけ?」
「それだけだ」
「それを食べたら、帰るのね?」
「ああ」
「…………」
ふぅー、とディアナが静かに、深く息を吐き出す。
「わかったわ。みんな、悪いけどテーブルを一組だけセッティングして」
「い、いいの?」
「今回だけ特別よ。それと、できるだけあいつに近付かないように。特にネリーちゃんは」
名指しで念を押されたネリーが、こくこくと頷いた。
「すまないな、無理を聞いてもらって」
「いえいえ。あ、こちらお水になります」
「ありがとう」
「ひぇ」
一組だけ整えられたテーブルに男がつく。ただのワインの水割りを持ってきただけなのに、そのお礼と微笑だけでフラヴィの顔がリンゴよりも真っ赤になった。
「あ、し、失礼します」
ぎくしゃくと礼をしてカウンターまで戻ってくる。
「大丈夫ですか、フラヴィ?」
「……大丈夫じゃない」
厨房に引っ込んで、男の死角でへなへなとうずくまる。
「あんな美形知らない……目の毒……魔性の人かなんか……?」
「ある意味で間違ってないわね」
シメリツユを拭き取ったモンディールの肉を、ステーキ大に切りながらディアナが言った。ちなみにネリーは宿の自室に引っ込んでもらって、念のためアルベルトが護衛として付き添っている。
「女将さんの知り合いですか?」
スタニスラフが訊ねた途端、ディアナの顔が苦虫を十匹くらい噛み潰したような顔になる。
「……そうね。昔の知り合い。二度と会わないと思っていた奴」
「それは、また……」
スタニスラフはそれ以上なにも言えなかった。これ以上聞いても答えない、とディアナの背中が語っていた。
スタニスラフとフラヴィが、厨房から目だけを覗かせて男を見る。
男は優雅に水を飲んでいた。それだけで絵になりそうだ。世の中の画家にこの瞬間を描かせてみたい。
「エルフでもないのにあの美形はズルいよね」
「たしかに」
美形の代名詞とも言えるエルフがかすみそうだった。
「ん?」
フラヴィがせわしなく瞬きをする。
「どうしました?」
「いや……なんでもない」
一瞬、男のこめかみあたりから角らしきものが見えた気がした。あとお尻のあたりから尻尾も。だが目を凝らしてもそれらしきものは見えなかった。
じゅうじゅう音を立てて焼かれるステーキの匂いが店内に充満する。それを嗅ぐ男の口角が自然と吊り上がった。
「いい匂いだ。こんなに美味しそうな匂いがするのだね」
「褒めてもなにもでないわよ」
ディアナが冷たくあしらう。
それを聞いたフラヴィとスタニスラフは顔を見合わせた。
「……なんか、元夫婦みたいな会話」
「ですね。旦那の方がまだ未練があって、妻の方が恨んでいるような」
「そうそう」
「聞こえてるわよ」
こそこそ話していた二人は、ディアナの声に飛び上がった。
「憶測は勝手にしていいわよ。でも本人のいないところでしてちょうだい」
「はい」
「はぁい」
まだなにか言いたそうにディアナと男を交互に見ていたが、無視する。
焼き上がったステーキを端に寄せ、ラチカの実とコジマソース、香りづけに料理用のワインを数滴垂らしてソースを作る。それをステーキに絡めれば完成だ。
それを皿に盛りつけ、カトラリーと一緒に持っていく。
「お待たせしました」
「ああ、ありがとう」
差し出された皿を見て、男は目を輝かせる。
「ほう、これが。なんの肉か聞いても?」
「モンディールよ」
「あれか。怒らせると怖いだろう?」
「だから子育て中の個体は近付かないわよ。それ以外を狙って狩っているわ」
「なるほど」
男は一つ頷き、ナイフとフォークを手に取る。
「……ん?」
フォークを右手で逆手に持ち、ナイフを左手で握りこむ。うまく切れないことに気付いて、男は首をかしげた。
「……あんた、利き手は?」
見かねたディアナが口を出す。
「利き手?」
「……どっちの手が使いやすい?」
「こちらの手だな」
「じゃあそっちでナイフを握って。握り方は……持ってくるわ」
厨房に戻ったディアナに、聞き耳を立てていたスタニスラフが一式を渡す。
「はい、女将さん」
「ありがとう」
短いやり取りをしてテーブルに戻る。
向かいに座ったディアナが、ナイフとフォークを構えて見せた。
「こうよ。鏡合わせにしてあげるから、これを手本にして」
「ふむ、こうか」
男はすぐに正しいナイフとフォークの構えになった。
「おお、切れるぞ!」
「鈍らは置いてないわよ」
子どものように歓喜する男を、カトラリーを置いたディアナは半眼で見つめる。
男は一口より明らかに大きな切り身を口に押し込んで、ゆっくりと咀嚼する。
「んむ、むごむご」
「口の中の物をよく噛んで飲み込んでから言いなさい」
まるで親子のようなやり取りだ。
男は口いっぱいの肉をどうにか飲み込んで、それから口を開く。
「美味いな。そして柔らかい」
「ええ。味には自信があるの」
そう答えるディアナの目は冷たい。いつもなら朗らかに笑って「ありがとう」と返すのに。
「……どうしてここに来たの。いえ、なんで生きてるの?」
「我は死なぬよ。王だからな」
「答えになってないわ。あの時、たしかに首を落としたのよ」
「それでも、だ」
男は先ほどより小さめに肉を切り、また味わう。
「……しかし、そうだな。わかりやすく言えば、我もまた魔物だということだ」
「「――!!」」
男の言葉に、フラヴィとスタニスラフは息を呑む。思わず声が出そうになって、互いの口を互いの手で塞いだ。
ディアナも目を見開き、それから苦々しい顔になる。
「……魔物は天の理から外れた存在。どれだけ狩ろうと月が昇れば蘇る。だったかしら」
「より厳密に言えば、月の陰りと共に我らもまた増える。そして我は月のない夜と共に力を蓄え、傷を癒す」
「首が落ちるほどの重傷でも?」
「そうだ」
男はあっけらかんと答えた。
「聖剣や聖女がいれば復活に多少の時間はかかるが……。今世は平和な道を選んだようだな」
男の視線が宿の方へ向く。ディアナの視線が一層鋭くなった。
「うちの従業員に手を出すなら、また殺すわよ」
「殺さないさ。それに、しばらくはちょっかいを出すつもりもない」
ディアナは黙って男の次の言葉を待つ。
「そなたの生きようと足掻く様に、我らの肉を利用する食への探求心に興味が湧いた。しばらくは人の世に紛れ、それらを観察するのも良いと思ってな。これはその足掛かりだ」
「…………」
ディアナがなんとも言えない顔になった。
「……魔物を凶暴化させないっていうなら、こちらとしては願ったりだけどね」
「その点は保証しよう。まあ、何十年後かにまた戯れで術をかけるかもしれんがな」
「未来の子どもたちを巻き込むな」
「本能のようなものだ。諦めろ」
「…………」
にこやかな男と、鋭く睨むディアナの目が交錯する。体を圧迫するような緊張感に、フラヴィとスタニスラフはたまらず互いにしがみついた。
やがて、口を開いたのはディアナの方だった。
「……もしも、次にあんたが暴れ出した時。聖光教会が役に立たなかったら人類は滅びるわね」
「賭けるか? そなたらと我ら、どちらが勝つか」
「その時はとっくに死んでいるわよ」
「そうか。残念だ」
男はくすくすと笑い、最後の一切れを食べた。どこからか取り出したハンカチで優雅に口元を拭い、カトラリーを置く。
「馳走になった。また来るぞ」
「二度と来るな。あと、誤魔化すならちゃんと誤魔化せ」
「おや、擬態が不十分だったかな?」
「角と尻尾、見えてたわよ」
「ふむ、もう少し練習が必要だな」
呑気に会話しながら、男は店を出て行く。
「ではまたな」
「だから二度と来るな!」
男の目の前でドアを乱暴に閉め、厨房の奥のナタを持ってきて閂の代わりにする。そうしてやっとディアナは大きくため息をついた。
「はぁ~~~~……。っとに、なんなのよ……」
「女将さん」
厨房から顔を出したスタニスラフが、人差し指をくるくる回す。
「風の精霊の力を借りて、女将さんの周りに結界を張りました。大声も足音もまったく響かないので、よかったらどうぞ」
言っている間に、ディアナの周りをひゅるひゅると風が踊る。試しに床を叩いてみたが、いつもの硬い音が返ってこなかった。
ディアナが立ち上がり、にこりとスタニスラフに笑いかける。口の動きだけで「ありがとう」と言っているのがわかった。
それから二人に背を向けて、ディアナは激しく地団太を踏んだ。同時になにかを叫んでいるのはなんとなくわかった。リズミカルに足を踏み鳴らしたかと思えば、一歩一歩力を溜めるように間を置いてから踏んだり。お団子にした髪が今にも解けて逆立ちそうだった。
「あたし、女将さんがここまで荒れてるの、初めて見たかも」
「本当ですか?」
スタニスラフとドン引きしながらフラヴィが言う。
「うん。いつもニコニコしてて、怒ってる時でさえ笑ってたし」
「たしかに……」
いつだったか、聖法国の偉い人たちが乗り込んできた時も、笑顔で殺気を振りまいていた。そんな彼女が、珍しく怒りの感情を露わにした。あるいは、動揺していたからこそ、あんな態度になったのかもしれない。
「魔王を名乗るくらいですもんね。あながち間違いじゃないかもしれませんね」
「うん。……ねえ、あの人……人? また来ると思う?」
フラヴィの問いにスタニスラフが固まる。
「…………。できれば来ないでほしいですね。それこそ営業時間中にやってきたら大騒ぎですよ」
「うん。でも、もう一回来てほしい気がしなくもない」
「勇者ですねえ」
「自分でもそう思うよ。でもなんかこう、もう一回話したい。好奇心で」
「女将さんがそれを許してくれれば、ですけどね」
「そこだよねえ~……!」
フラヴィが頭を抱える。
男の飄々とした様子からして、ディアナのことなどお構いなしにまた来そうである。フラヴィもスタニスラフも好奇心から歓迎するが、ディアナが良い顔をしないのは間違いない。あと、店の常連である冒険者たちに魔王だとバレた日が怖い。絶対に阿鼻叫喚になる。
「まあ、その時になったら女将さんが対処しますよ」
現時点で解決しない問題は未来のディアナにぶん投げて、スタニスラフは食器を片付けた。テーブルマナーは知っていたらしく、ソースがテーブルや床に飛び散ったりはしていない。なのにフォークやナイフの扱いはわからなかったのだから、一体どこで学んだのか。それも、彼がもし訪ねてくることがあれば聞いてみてもいいかもしれない。
手早く食器を洗っていると、後ろから背中を叩かれた。振り向くとディアナがいた。
「もう大丈夫ですか?」
頷くディアナに、周りの魔法を解く。
「ありがとう、スーくん」
ちょっとかすれた声でディアナは言った。
「スッキリしたわ」
「お役に立てたようで何よりです」
「悪いけど、お弁当作りを頼んでもいい? あとで食べに戻るから」
「わかりました」
ディアナはいそいそといつもの装備を担いでいく。
「じゃ、狩ってくるわね」
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃーい」
スタニスラフとフラヴィに見送られ、ディアナは森へと駆けていく。
「……ねえスタニ」
「なんでしょう」
「料理長とネリーにどう説明する?」
「…………。どうしましょうね」
結局、ありのままを報告して、アルベルトの頭を抱えさせることとなった。
「見た目はいい人だったんだよ、見た目は」
そう力説するフラヴィに対し、ネリーはものすごく複雑な表情を浮かべていた。
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