12.ネリーの一日
ネリーは新人従業員というより、居候の身分である。
痩せすぎていて包丁を持たせられず、お皿一つ運ぶのも誰かのサポートが必要になるほど危なっかしいのだ。しかも――本人は自覚していないが――すぐに息切れを起こす。医者が太鼓判を押すくらい体力と筋力がつくまで、彼女の仕事は食べて寝ることが主だった。
そんな彼女の自室は、従業員用の部屋が集まる一階の最奥だ。物置だった場所を突貫でリフォームされている。
最初の頃は慣れないベッドでよく眠れなかったが、近ごろは布団の柔らかさや硬いマットレスに安心して身を委ねている。
外が騒がしくなった頃――冒険者たちが起きてチェックアウトする頃に、ネリーは目を覚ます。
ベッドを綺麗に整えて、フラヴィのお下がりのワンピースを着る。ディアナのお下がりでは大きくて着られなかったのだ。双方ともにちょっとショックな出来事だった。
髪を結んでドアを開けると、スタニスラフと目が合う。
「おや、おはようございます、ネリーさん」
ネリーはぺこりと頭を下げて挨拶する。エルフはとりわけ整った顔立ちの人が多い。スタニスラフも例外ではなくて、ネリーはその整った顔をまともに見れなかった。
「おはよー、ネリー!」
「おはよう、ネリー」
最年少のフラヴィや一番体の大きいアルベルトも挨拶してくれる。ネリーは二人にも頭を下げた。ボディーランゲージでしか伝えられないもどかしさは、ここ数日嫌というほど味わっている。
四人でフロントに顔を出せば、チェックアウト業務を終えた店主のディアナがいた。
「おはよう、みんな。今日もよろしくね!」
いつもの挨拶で、いつもの一日が始まる。
「はい、ネリー。朝ごはんだ」
アルベルトが小皿――に見えるボウルをネリーに差し出した。中にはスプーンと一緒に薄黄色の細かい山が積まれている。
「すりおろしたリンゴだ。それを食べたら、一緒に買い出しに行こう」
ネリーは頷いて、厨房の隅でそれを食べ始めた。
銀のカナリア亭の従業員は、基本的に昼と夜の一日二食だ。しかしネリーは体が栄養を欲しているため、三食提供される。ゆっくり食べさせている間に宿と酒場の掃除を終わらせる魂胆もある。水が入ったバケツを持ち上げようとして脱臼した事故は記憶に新しい。ネリーもあの一件がトラウマになったらしく、バケツとは距離を置いていた。
リンゴのすりおろしを食べ終えて、明日の食材を狩りに行くディアナを見送る。それからアルベルトやフラヴィ、あるいはスタニスラフと共に市場へ行く。
近所の牧場から運ばれてきた新鮮な牛乳。夜明け前に収穫された野菜たち。遠い町から流れ着いた珍しい果物。
それらを買い付けるのは、ディアナと共に厨房を守るアルベルトだ。フラヴィたちは食材を荷車に積む、いわば荷物係。ネリーもその役目を全うしたかったが、買い付けたケースを持ち上げられずに断念した。
それでも、横でアルベルトたちの買い物を聞くだけでも楽しかった。たまにとても艶のいい野菜や果物を見つけたら、運び入れるケースの中に入れてもらうよう頼んだ。
店に戻ったら、アルベルトたちは野菜の皮むきなどの下拵え。ネリーは文字や数字の勉強だ。ネリーがいた村ではそもそも勉強という発想がなかった。小さな子ども向けの勉強場所もあるのだが、ネリーは体が弱すぎて子どもたちの体力に負ける。それならここでゆっくり勉強する方がストレスがなかった。
ペンの持ち方から教わり、ディアナたちが作ってくれた文字表を基に、文字を一つ一つ書いて覚えていく。まずは銀のカナリア亭にいる従業員の名前からだ。
「ネリー、どこまでできた?」
野菜の皮むきが一段落したフラヴィがテーブルにやって来る。ネリーは練習用の古紙を見せた。線はガタガタだし、変に曲がったりとかしていて、上手とは言えない。それでも、自分を含めた従業員五人の名前は書いた。
「これがあたし?」
フラヴィが自分の名前を指さす。ネリーが頷くと、
「上手じゃ~ん!」
犬を撫で回すかのような手つきで抱き着かれた。驚いたネリーが体を硬くしてもお構いなしだ。
「こら、フラヴィ。ネリーが固まっているぞ」
「はぁい」
アルベルトに指摘されてようやく解放される。
「えへへ。他にもいろいろ書けるといいね」
フラヴィはそう言って野菜の下拵えに戻った。
ネリーは手で髪を直しつつ、胸の奥に広がるふわふわしたものを持て余していた。
お昼を食べたら、ネリーは自室に戻る。というか押し込められる。
「勉強を頑張ったご褒美ですよ」
とスタニスラフは言うが、要は夕方の酒場オープンに向けて体力を回復させておかなければならないのだ。
ネリーとしてはまだ頑張れると思って抵抗するのだが、ほとんど意味なくベッドに連れていかれる。そしてベッドに入ると五秒で眠ってしまう。
次に目を覚ましたのは、酒場が開いた夕方だ。悔しそうに唇を尖らせながら、ネリーは酒場に顔を出す。
「あら、ネリー! 起きたのね!」
狩りから戻ってきていたディアナが出迎えてくれた。
「ご飯は用意してあるわ。先に食べちゃう?」
ネリーは首を横に振った。お昼を食べてすぐに寝ちゃったので、まだお腹がすいていない。
「あらそう? じゃ、せめてお水は飲んでいってね」
喉が渇いていたのでそれには頷く。いい感じに丸め込まれた気がしないでもないが。
カップに水を汲んで、厨房の隅に置いてあるカウンター椅子に座る。すっかりネリーの定位置になった。
ちびちびと水を飲みながら、ホールの様子を見る。
冒険者や町の人たちで賑わう店内。出されるメニューが魔物メシというだけで、その賑やかさは他の店に引けを取らない。最初の頃は祭りでも始まったのかと思った。今ではすっかりこのお祭り騒ぎにも慣れた。
お酒を飲んで顔を赤くする常連客。魔物肉の料理に舌鼓を打ち、美味しいと口々に言う。やれあの時の動きが悪かっただの、手柄は自分だの、不穏な空気はディアナとフラヴィがいち早く気付いて対処する。この店で喧嘩はご法度だ。事故ならともかく、わざと皿をひっくり返そうものならこの二人が揃って店外に追い出している。
対処方法も見ていて気持ちがいい。どちらかが聞き役に徹して、公平な第三者という立場からジャッジが下される。特にディアナはよく森で狩りをしているからか、冒険者たちからそういう判断を持ち込まれることがある。
西に広がる森がダンジョンだとネリーが知ったのは、つい昨日だ。言葉は使えなくても心配しているのが分かったのか、ディアナは大丈夫だと何度も宥めてくれた。
(いいなあ)
朝早くから起きて、森に毎日狩りをして、酒場も宿も切り盛りしている。自分よりずっとパワフルなディアナがネリーは羨ましかった。
自分を拾ってくれた恩返しがしたいけど、それを止められているようでは話にならない。幸いにもこの店には、自分を追い出そうとする人はいない。とりあえず文字と数字を覚えるのと、固形物を食べられるようになるのが今の目標だ。
椅子から降りて、アルベルトの背中を叩く。
「ん? ああ、ネリーか。どうした?」
振り向いた彼に、両手をお椀の形にして差し出す。すぐに意味を理解してくれた。
「夕食か。ちょっと待ってろ」
かまどの奥の小鍋からスープボウルによそわれる。
「まだ熱いから、気をつけて食べなさい」
渡されたのはパン粥だった。なんと卵もついている。
村では高級品だった卵も、この店では当たり前に使われている。たまにコカトリスを狩ってきた時は、その大きな卵も利用して提供されていた。
ネリーはカウンター椅子に戻って、言われた通り息を吹きかけて冷ましながら食べた。
野菜と動物の骨でとった出汁の優しい味が広がる。魔物の骨は煮込んでも美味しくないそうで、よその飲食店から出た骨を格安で売ってもらっているそうだ。トロトロになったパンは抵抗なく喉を通るし、ふわふわの卵が出汁をよく吸ってさらにふわふわになっている。
胃に負担をかけないよう、ゆっくりと食べる姿は特にカウンター席からよく見える。にこにこしながらパン粥を食べるネリーに常連たちの顔がだらしなく緩んだ。
「ネリーちゃん、それ美味しい?」
カウンター席の一人が訊ねると、ネリーはにこにこしたまま頷いた。
「そっかー」
「ゆっくりお食べ」
かける声が完全に幼い子どもに向けたそれだが、誰も突っ込まないしネリーも気にしていない。返事をするように頷いて、時間をかけてはふはふと食べていく。
「懐かしいなー。昔風邪を引いたときは、おふくろとかがパン粥作ってくれたっけ」
「そうそう。たまに麦を潰した奴とか出てたよな」
「料理長ー。ネリーちゃんに麦粥は作んないの?」
常連客が身を乗り出して訊ねた。アルベルトが新しい肉を焼きながら答える。
「麦はまだネリーには負担だ。もう少し食べ慣れてからだな」
「そっかー」
「ネリーちゃん、まだ美味しいものいっぱいあるからな!」
「元気になったら一緒に食おうな!」
常連客たちの言葉にネリーは頷く。
かつては麦が数粒浮いたお湯が当たり前だった。それが遠い昔の記憶のようで、懐かしいとすら思えてしまう。
あの時の麦は、もったいなくて甘くなるまでずっと噛んでいた。でもここの麦粥なら、きっと最初から甘くて美味しいのだろう。
時間をかけてパン粥を食べきっても、すぐには動かない。以前、仕事を覚えようと食べてすぐに動いて倒れたからだ。
「食べてすぐは、お腹が熱くてちょっと苦しいの。だから、お腹の熱が体全体に広がったら、動いてもいいわよ」
倒れた後、ディアナがそうアドバイスをしてくれた。それを実行してみると倒れなかったから、今も忠実に守っている。ちなみに、仕事の合間に賄いを食べている四人に関しては、特別な訓練を受けているものだと思っている。
お腹がこなれるのを待っている間も、ホールを見て彼女たちの動きを見ることができる。
ディアナは厨房のヘルプに入ることも多いため、カウンター近くを動き回っている。フラヴィが一番店全体を走っている。なのにまったく息切れしないし、走っているように見えない。スタニスラフは店の中央から奥を担当しているようで、人ごみの中でたまに水色の髪が見える。三人とも止まることがほとんどなく、止まった時は注文を受けた時か、客の雑談に巻き込まれた時である。
テーブルの案内から注文、配膳、会計、掃除まで、全員がそのスキルを持って対処に当たっている。
自分では、まだそれができない。そもそもあの人ごみの中をすいすい泳げない。それが悔しかった。
(いつか、ああなりたいな)
だから今は、見て盗んで覚える。
いつか医者のお墨付きをもらって、物も運べるようになったら、この店の一員として恥じない振る舞いをしたい。
そんな熱視線にディアナたちが気付かないはずもなく。
「今日も見てるね」
「ええ、勉強熱心ね」
「ちょっとやりづらいけどね」
すれ違いざまに言葉を交わしていた。
最後の客が帰ったら、全員で軽く掃除をする。掃除はネリーもできる数少ない仕事だ。床に落ちた大きな食べこぼしなどを箒ではき、店の外に作った穴に放り込む。
それが終わったら、明日に備えて魔物肉の水気を切る作業だ。と言っても、ネリーの腕力ではまだまだ持てないくらい重い。ネリーには雑巾で空の棚を拭いてもらった。
今日の分がほとんど出て、残っているのは明日のお弁当の分だけだ。すっかり空っぽになった棚の一つ一つを、ネリーは水拭きで丁寧に拭いて、乾拭きでカビの繁殖を抑える。地下だから気温も湿度もほとんど変わらないが、だからこそ余計な水分は拭き取っておかなければならない。
すべて終わってディアナの横に座ると、彼女も気付いた。
「あら、終わった?」
頷く。
「ありがとう。先に帰って寝る?」
首を横に振った。先に寝るのは仲間外れにされた気がして寂しかった。
「そう。じゃあもうちょっと待っててね」
また頷いて、みんなの仕事を見る。
大きなタライいっぱいに詰まっていたお肉が、あっという間に棚に並べられる。布に包まれて整然と待っているのを見るのは壮観だった。
「よーし、終わり!」
最後の一つを棚に置いて、ディアナは高らかに宣言した。
タライに残った水は店の裏に撒いて、金庫や食糧庫に泥棒が入らないよう魔法で戸締りする。
「じゃあみんな、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみー」
「おやすみなさい」
それぞれの部屋に戻って、ネリーも数時間ぶりにベッドに入る。
(明日はもうちょっと元気になっていますように)
いつの間にかルーティーンになっていた願い事を心の中で唱えて、眠りについた。
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