1.女将降臨
「っはあ、っはあ、っはあ……っ!」
走る。走る。森の中をひた走る。
後ろから響く足音は聞こえないふりをした。湿っぽくて荒い息遣いも同様だ。
背の高い草むらをかき分け、ランダムに生える木の隙間を潜り抜けて。
ジョシュアはひたすらに走った。
でも、途中で振り返ってしまったのは。
「ひっ……!」
まだ辛うじて安全圏にいると思いたかったから。
目が合う。涎で光る牙が見えた。巨大な爪が大きな刃物のようにぶら下がっている。
体長三メートルはあるだろう大型の魔物ビッグ・ベア。B級冒険者なら腕試しになるだろうが、C級になったばかりの自分たちでは歯が立たなかった。
「バカ、しっかりしろ!」
隣を走っていた仲間がばっしと背中を叩く。
「走れ、死ぬぞ!」
強張っていた体がいくらかほぐれた。止まりかけていた足がまた動き出す。
別の町から来たばかりのジョシュアには、この森の様子なんてさっぱりわからない。だから新しくパーティを組んでくれた冒険者たちとともに、様子見を兼ねて簡単な依頼を受けた。
近くの村の畑を荒らす、中型の魔物ボアボア。その親子の討伐を目指していたのに。
よりによってビッグ・ベアに当たってしまうなんて!
ビビった仲間の悲鳴によって、ビッグ・ベアは標的を自分たちに絞った。散り散りになっても森の中で遭難したり、他の魔物に遭遇したら目も当てられない。だからあえて五人で固まって疾走していた。
でも、スタミナがいつまでも続くわけじゃない。
「あっ!」
「おい!」
ジョシュアの背中を叩いてくれた仲間が、石か木の根に躓いて倒れた。すぐそばにはビッグ・ベア。
「立て、走れ!」
「あ、こ、腰が……」
ジョシュアが彼の腕を掴んで立ち上がらせようとするが、下半身に力が入っていない。
ビッグ・ベアがすぐ目の前に来る。さっきほど焦りが見えないのは、自分たちがすぐに逃げないとわかっているからか。
狡猾だ。圧倒的な体力や脚力でこちらを疲弊させて、動けなくなったところで仕留める。
〝ギフト〟でも埋められない差を見せつけられて、ジョシュアは立ちすくんだ。
「ジョシュア、逃げろ……!」
「無理だ」
「でも……!」
実際、ジョシュアも限界だったのだ。たまたま仲間が横で転び、助けようと止まったのが運の尽きだった。
他の三人の気配はない。気付いていないのか、見捨てられたのか。それすら確認のしようがない。
獲物を爛々と見つめるつぶらな瞳から、どうして目を逸らせよう。
「……お前だけでも、なんとか立って逃げろ」
「え?」
仲間の手を離す。代わりに腰の剣に手をかける。
ジョシュアは冒険者だ。五年かけてC級まで上り詰めた経験や努力は伊達じゃない。
腰のロングソードが抜かれ、銀色の刃がビッグ・ベアに向けられる。
むざむざやられるくらいなら、一太刀でも傷を残して――!
「あぶなぁぁ――――い!!」
鳥のような軽やかな声が割って入った。
と同時に、ビッグ・ベアが姿を消す。
「……は?」
呆然としている間に轟音が響く。そちらを見やれば、木と巨大な刃物……だと思うものの間に挟まれてぐったりしているビッグ・ベアがいた。
「あなたたち、大丈夫?」
正面に気配を感じてそちらに意識を戻す。
女性だった。
後ろでお団子にまとめた蜂蜜色の髪に、若葉を思わせる透明な緑色の瞳。ちょっとシャープな顔立ちだが、纏う雰囲気はどこまでも柔らかい。
そしてエプロン姿だった。どこかで給仕でもしているのか、それとも主婦なのか、紺色のエプロンに深緑のワンピースを着ていた。森の入り口の野イチゴを摘みに来たような格好である。と思ったら、背中にリュックを背負っていた。横にくくりつけられているスコップは年季が入っている。
「え、っと……?」
「あら、ひょっとしてあなた、新しい人? 見ない顔の冒険者よね?」
「あ、はい。今日からここで冒険者をやってます、ジョシュアです」
「ジョシュアね。私はディアナよ。『銀のカナリア亭』の女将をやっているの」
「はい?」
ジョシュアの声がひっくり返った。
「ど、どういう……」
「お、お、女将さぁ~ん!!」
訊ねようとしたジョシュアの横で、やっと事態を飲み込めた仲間が号泣した。
「ありがとう、ありがとう! 本気で今日は死ぬかと思ったぁ~!」
「ヨハン、あなたいつもそんなこと言うじゃない。今日はなにを狙って森に入ったの?」
「ボアボアの親子ですよお。近くの村から依頼が出てたんですう」
「おい、そんな喋っていいのか?」
というか、一般人がこんな森の奥に入ってくること自体、危ないのではないか?
ジョシュアは色々と突っ込みたかったが、次から次に新情報が入って来て整理できなかった。
「あら、ボアボア! ウリボアは下処理しなくても柔らかいからいいのよねえ~。目当ての親子かはわからないけど、あっちの方に親子がいたわよ。両親が二頭と子どもが五匹の大家族ね」
そう言いつつディアナが指さしたのは、今しがたジョシュアたちが走ってきた方向だ。
「あ、きっとそいつらです。……つっても、あいつらも逃げちゃったし、俺も動けねえし、今日の依頼は失敗かなあ」
ヨハンが項垂れる。多少休憩したところで、そして仲間が戻ってきたところで、今更ボアボアの一家を仕留められるだけの力は残っていない。
「あら、残念。町には帰れそう?」
「はい」
「あなたも? 無理してない?」
「平気です」
「そう。じゃあ私はビッグ・ベアの処理をしているから、気にせず休んでてね」
ディアナはジョシュアとヨハンの頭を順番に撫でると、軽い足取りでビッグ・ベアの方へと近付いていった。
「え? ちょっと、危ないんじゃ……」
呆然としたのも束の間、ジョシュアが手を伸ばす。
しかしその手は届かず、ディアナはビッグ・ベアを木に縫い付けていたもの――よく見たらナタのような形をしていた。大きさはディアナの身長を軽々と超えている。刃渡りだけで二メートルはありそうだった――を引き抜く。
ナタを軽く振ってビッグ・ベアの首を落とし、背中のリュックから取り出したロープで両足を縛る。もう片方のロープの端を持って木に登り、すぐに下りて力いっぱい引っ張る。あの細腕のどこにそんな力があるのか、と思うほど軽々とビッグ・ベアの体が逆さまになって吊るされていく。ロープを木の幹にぐるぐる巻きつけて固定し、作業は一段落した。滝かと思うほどおびただしい量の血が傷口から流れていく。
「おーい、ジョシュアー。生きてるかー?」
足を叩かれたジョシュアが我に返る。足元を見れば、まだ立てないヨハンが「座れ」とジェスチャーしていた。
「女将さんに見とれてたか?」
「……まあ、うん」
ロングソードを収めて、ジョシュアも座る。
「なんか、夢を見ているみたいだ」
「わかる。女将さん、森に入ると別人みたいに強いから」
ヨハンがけらけらと笑った。
「なあ、あれがこの町じゃ当たり前なのか?」
「んなわけねえだろ? 女将さんみたいな人がいっぱいいたら俺ら商売あがったりだ!」
「だよな……?」
よかった(?)。ディアナが規格外なだけで、他の人は普通らしい。となれば、あれは彼女のギフトによるものか。
「女将さんの……つーか『銀のカナリア亭』の七不思議。女将さんの怪力」
ヨハンが笑いながら教えてくれた。
「規格外のギフトを持っているからっていうのが通説だな」
「やっぱり?」
ヒューマンやエルフ、ドワーフなど、人族がこの世界で生き抜くため、神から与えられた祝福〝ギフト〟。速く走れたり、剣の達人になれたり、その恩恵は千差万別だが、あそこまでの力は見たことがない。
改めてディアナの方を見ると、その姿はもうなかった。なぜかスコップが突き立てられている。一体どこに行ったのか。
「女将さん、冒険者になればいいんじゃないか?」
「実際、ギルドからもスカウトが来たっぽいんだよ。でも断られたって」
「は? なんで?」
「『宿の方針で、副業を禁止しているからできない』って」
「なんだそりゃ!」
たしかに冒険者はその名の通り危険と隣り合わせだが、そんな理由で冒険者にならないとは!
ジョシュアとヨハンがひとしきり笑っていると、どこからか誰かを呼ぶ声がした。聞いたことのあるその声の方向を見れば、おっかなびっくり自分たちを呼ぶ三人の姿があった。
二人は顔を見合わせる。
「……どうする?」
「……まあ、一応パーティメンバーだし」
次に組むかは置いておいて、今この時は仲間なのだ。
二人は立ち上がり、三人に恨み言を言うべく歩き出した。
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