今夜、異世界のバーで 〜魔王と勇者が悪役令嬢の恋愛相談に乗る話
裏路地の闇の中、突然、紫電が走った。弾けるように光が揺らめき、雨粒が蒸発する。光と蒸気が霧散すると、黒い外套の男がいた。
「ガァウッ! ガウ!」 犬が鋭く吠え、「ウウウ……」 と喉を鳴らし、牙を見せる。
男の深紫の瞳に光が瞬く。犬はびくりと震えると、まるで操られるように向きを変え、夜闇へと消えていった。
男は静かに歩き始め、やがて、三日月とグラスの描かれた看板の揺れる、酒場の前に立つと、重厚な扉を開いた。店内では、小ぶりなシャンデリアが、柔らかな光を落としていた。
「いらっしゃいませ」と店主のトマスが声をかけた。
「奥の席を」と男の低く落ち着いた声が響く。
トマスは黙って頷くと、店の奥まった一角へと案内した。そこには、丁寧に磨かれた木のテーブルが置かれている。店内はいつにも増して混み合っていた。常連客に加え、悪天候を嫌った旅人や、商人らしき者たちがテーブルを囲んで談笑し、カードをシャッフルする音が賑わいに溶け込んでいた。
男が外套を脱ぐと、黒い髪が肩に落ちた。艶のある髪の下、左目の近くには稲妻のような細い傷跡が走っていた。
「いつものを」と彼が言うと、トマスは古いラベルの赤ワインのボトルとグラスを持ってきた。
男は微かに微笑んだ。「ありがとう」
彼の名はヴェルデン。魔族の国を支配する魔王。もちろん、人間の姿に変装している。暗黒の力を操り、全ての魔族を従えた恐るべき支配者は、今夜は一人の静かな旅人だった。
この「三日月の酒場」は彼の隠れ家だ。常に大きな責任を背負う魔王も、時には重圧から逃れ、ただの一人の客として酒を楽しみたいと思うこともある。今夜、彼は側近たちに行き先を告げずに魔王城を抜け出してきたのだった。
魔王ヴェルデンはワインを口に含み、その深い味わいに身を委ねた。酒精と芳醇な風味が絶妙に混ざり合い、舌の上で踊る。彼は目を閉じ、つかの間の平穏を味わった。
その時、扉が開き、雨に濡れた茶色い髪の若者が入ってきた。青い目と凛とした顔立ちの持ち主で、その姿勢と歩き方には鍛え抜かれた戦士の風格があった。
「いらっしゃいませ」とトマスが声をかけた。
若者は微笑み、「一人分の席を」と言った。声は若々しく、しかし芯の強さを感じさせるものだった。
トマスは彼を導いた。あいにく店内は客が多く、空いている席は魔王ヴェルデンのテーブルしかなかった。
「隣、いいかい?」若者が言うと、
「かまわない」とヴェルデンは返し、ワインのグラスを傾けながら、チラリと隣人を観察した。
若者は、濡れた外套を脱ぎ、椅子にかけた。その腰には大ぶりな剣が下がっていたが、布で包まれていた。
彼の名はグラン。勇者として知られる男だった。七つの試練を乗り越え、聖剣を手に入れた英雄。
彼は普段の派手な装束でなく、ごく普通の衣服をまとっていた。彼を象徴する鮮やかな赤髪は、変装のため髪型と共に魔法で茶色に変えられていた。
勇者の称号は重く、時に彼は息苦しくなる。特に最近は、魔王を倒すための準備に追われ、決戦の戦略会議と訓練ばかりの日々で、心の余裕を失っていた。
「エールを頼む。サミラスはあるかい?」とグランは注文した。
「お持ちします」とトマスは言い、カウンターの向こうでジョッキに琥珀色の液体を注いだ。
二人は黙って酒を飲んだ。窓の外では雨が強くなり、時折稲妻が闇を切り裂いた。その光が一瞬、二人の顔を照らし出す。双方とも互いの素性には気づかない。ただ、不思議と心地よい時間が流れていた。
「ひどい天気だな」と魔王ヴェルデンが沈黙を破った。
勇者グランは、軽く喉を鳴らしエールの泡を拭った後、「ああ」と応じた。「旅人か?」
ヴェルデンは答えた。
「そんなようなものだ。少し休息が必要でね。毎日が緊張の連続なんだ」
グランは深く頷きながら、
「わかる気がする。僕も少し休みたくてね。周りの期待というのは、時に重荷になる」
ヴェルデンは思わず苦笑した。
「期待か…私は逆に、恐れられることに疲れている」
グランは興味深そうに眉を上げた。
「恐れられる?何者なんだ、君は」
「ただの…管理職だよ。多くの者の上に立つ仕事でね。時に厳しさが必要になる」とヴェルデンは巧みにはぐらかした。
「なるほど」グランは頷いた。「僕は…そうだな、問題解決のスペシャリストとでも言おうか。困っている人を助けるのが仕事だ」
会話は自然に続いた。二人は互いの素性を明かさず、しかし不思議と心を開いていった。話題は世界の在り方から人間の本質、そして日常の些事にまで及んだ。互いの顔を真正面から見ることは無かったが、二人は相手を理解し始めていた。
その時、突然、酒場の扉が勢いよく開いた。
激しい雨と共に、一人の女性が駆け込んできた。金色に輝く長い髪は雨で濡れ、豪華な衣装もところどころ泥で汚れていたが、その姿は一目で高貴な出自を物語っていた。金と銀の刺繍が施された深緑のドレスには、高名な貴族の家紋が控えめに輝いていた。
しかし何より目を引いたのは、彼女の表情だった。若草色の瞳には涙が溢れ、白い頬は悲しみで歪んでいた。彼女は明らかに何かに傷ついていた。
店内の会話が一斉に止み、全ての視線が彼女に注がれる中、少しフラついた。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」とトマスが駆け寄った。彼は彼女の腕を取り、支えようとした。
「少し...酒を」と彼女は震える声で言った。普段は人前で取り繕うことに慣れているはずの声が、今は感情に溢れていた。
トマスは彼女を店の奥の人目のつきにくいテーブルに案内した。ヴェルデンとグランの隣だった。
「これを」とトマスはブランデーを注いだ。「体が温まります」
女性は一瞬ためらったが、一気に飲み干した。喉が焼けるような感覚に、彼女は咳き込んだ。しかし、その目には少し力が戻ってきた。
「もう一杯」と彼女は言った。声はまだ震えていたが、先ほどより少し落ち着いていた。
トマスは黙って従い、ブランデーと一緒に、真新しいタオルを持ってくると彼女に手渡した。そして、去り際に気を利かせ、テーブルに備え付けられた、遮音の魔道具を起動した。
すると、店内の他の客たちは、彼女に興味を示しながらも、次第に元の会話に戻っていった。
グランとヴェルデンは女性を見つめた。彼女の姿は明らかに場違いだった。貴族街に近いとはいえ平民向けの酒場に、高貴な女性が一人で来るなど。しかも、この悪天候の中を。
グランが優しく声をかけた。
「失礼ですが、何かあったのですか?」
女性は驚いたように二人を見た。一瞬、その目には警戒の色が浮かんだが、すぐに諦めたような表情になった。彼女はもう一度ブランデーを飲み、深く息を吐いた。
「……婚約者に裏切られたのです」と彼女は静かに言った。彼女の声には、悲しみと共に怒りも混じっていた。
「私はロザリンド・フォン・エルツベルクと申します」
グランとヴェルデンは驚きの表情を浮かべた。エルツベルク家はこの国の有力貴族で、特にロザリンドは「氷の悪女」と呼ばれる悪名を轟かせていた。彼女は、美貌と知性を武器に多くの策謀を巡らせ、数々の政治的陰謀の中心に、その名があるとされていた。
「なぜそんな話を見知らぬ者に?」とヴェルデンは静かに訊いた。彼の目は彼女を値踏みするように細められた。
「もう…どうでもいいのです」と彼女は三杯目のブランデーを手に取った。アルコールが彼女の頬を薔薇色に染め始めていた。
「私は…本当は…違うのに」
彼女の言葉は途切れた。彼女はグラスを見つめ、その中に何かを探すようだった。
「婚約者とは?」とグランが優しく促した。彼の青い目には純粋な思いやりが宿っていた。
ロザリンドは深く息を吐き、決意したように顔を上げた。
「カイル第二王子です。隣国の。政略結婚でした」彼女は苦笑した。「最初は単なる取り決めでした。でも、時間と共に私は本当に彼を愛するようになったのです。なのに…なのに彼は…」
「別の女性と?」とヴェルデンが柔らかく言った。
ロザリンドは頷いた。その動きと共に、涙が頬を伝った。
「侯爵家の分家の娘です。 彼女は…純粋で、素直で…私のような悪評とは無縁の女性です。王子は私の前では愛を囁き、裏では…」
彼女の声は再び涙に溺れた。頬が濡れる。そこには「氷の悪女」の面影はなく、あるのは、ただ純粋な乙女の瞳のみだった。傷ついた心を偽りなく晒している姿に、グランとヴェルデンは言葉を失った。
雨は窓を打ち続け、雷鳴が遠くで響いた。三人の出会いは運命のように思えた。
「どうすれば彼を取り戻せるでしょう?」と彼女は悲壮感の漂う声で言った。
グランとヴェルデンは、やや赤らんんだ顔を見合わせた。しかし、ここまで聞いたからには答えないわけにはいかない。こうして、酔いの回った魔王と勇者による恋愛相談が幕を開けた。
◇◇◇◇
魔王ヴェルデンは、グラスに残った深紅のワインをゆっくりと口に含んだ。彼はそれを舌の上で転がし、自分の考えを確かめるように一瞬目を閉じた。
「貴族なら、政治的に解決するのが常道だ」と彼は言った。声は低く、身体の隅々まで響くようだった。
彼の深紫色の目は、ロザリンドの若草色の瞳を捉えて離さなかった。その目には、権力を知り尽くした者の冷徹さが潜んでいた。
「エルツベルク家の持つ情報網を使え。第二王子の密会の証拠を集めろ。手紙、証言、目撃者。すべてを集める。そして、表に出せない『ホコリ』の情報も集める」
ヴェルデンはワインを一口飲み、座った目で、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「その後、王子の父親である国王に密使を送り、これを政治的な問題とすると言い交渉しろ。あなたの家が他国に持つ鉄鉱山の利権の一部を条件にしてもいい。そうすれば、王自らが息子を正すだろう」
グラスを手の中で回しながら、彼は、遠い過去を振り返るような目で続けた。
「愛などという感情は当てにならない。しかし、損得勘定と恐怖は確実に人を動かす。少なくとも表面上は、彼はあなたに従うだろう」
魔王の指先が、テーブルの上で静かに動いた。まるで見えない糸を操るかのように。
「それが現実だ。甘い言葉で飾られた嘘よりも、冷徹な真実の方がずっと役に立つ」
勇者グランは思わず眉をひそめた。
「それは違う」と彼は静かに言った。「脅しや恐怖で繋ぎとめた愛など、本物ではない」
彼は穏やかに微笑み、ロザリンドの手をそっと包み込む。そのまま、まっすぐに顔を寄せ、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「嘘や策略ではなく、素直な気持ちを伝えるべきだ。あなたが本当に彼を愛しているなら、その気持ちをありのままに見せるんだ。誠実さこそが人の心を動かす」
グランの青い目は真摯に輝いていた。
「王子の心が本当にあなたから離れているなら、無理に引き留めても幸せにはなれない。あなたは氷の悪女ではなく、心優しい女性なのだから、その姿で勝負するんだ」
ロザリンドは真面目な顔で二人の言葉に耳を傾けた後、長い間黙っていた。
「二人とも、ありがとう」と彼女は微笑んだ。「でも、私はどちらの道も選べない気がする」
彼女は顔を上げ、どこか遠くをじっと見つめる。
「王子は...私の心を本当には見ていなかった。私が誰なのかを。そして私も、彼を本当の意味で理解していなかったのかもしれない」
しばらくの間、それぞれが思考の海に沈みながら、静かに杯を傾けた。夜は静かに更けていく。
やがて、沈黙を破るようにグランがぽつりと呟いた。
「実は……私は勇者なんです」
ヴェルデンの目が、一瞬揺れた。グラスを持つ手が止まり、静寂が訪れる。彼はわずかに苦笑し、ぽつりとこぼした。
「……私は魔王だ」
魔王と勇者は顔を見合わせ、「なるほど」とでも言いたげに頷いた。そして、しばしの沈黙の後、堪えきれずに三人とも吹き出した。
「私が、魔王と勇者に恋愛相談をしていたなんて!」
ロザリンドは顔を覆って笑った。グランもヴェルデンも肩を震わせる。
ヴェルデンは目を細めたまま言った。
「私の部下たちは今頃、勇者との決戦の準備に躍起になっているというのに」
グランが肩をすくめる。
「私も同じだよ。魔王討伐の準備で、城中が戦の足音に満ちている」
その後、三人は堰を切ったように夜明けまで語り合った。交わらぬはずだった道。重なるはずのない気持ち。だが、この夜は違った。決して知るはずのなかった互いの心を、静かに、丁寧に紐解いていった。
ロザリンドはゆっくりと息をつき、目を閉じた。
「婚約者のことは……もう大丈夫です」
彼女の声はどこか晴れやかだった。
「私は自分の道を歩きます。氷の悪女でも、王子の許嫁でもなく、私自身として」
そして、二人の瞳をチラリと見る。
ヴェルデンとグランは顔を見合わせた。微笑みとともに、言葉にならぬ何かを伝え合う。
ロザリンドはひと息ついた後、言った。
「ところで、あなた達。面倒で下らない戦争は……お休みにして来週もここに来なさい」
彼女は、机の彫刻に残るホコリを指でつまみながら、氷のように透き通った笑顔を浮かべる。
「そうしないと、魔王と勇者は、密かに通じてるって言いふらすわよ?」
朝が来る。
酒場の扉が開き、外の世界が流れ込んできた。柔らかな光に包まれ、三人の影が淡く混じり合う。