8.親愛なるルーク・トライデン様
シェリーは緊張を抑えつつ、自室にある机の引き出しを開いた。一番上の、一番取り出しやすいところ。そこに大事に収められているのは、長方形の蓋のない文箱とセットになった便箋だ。箱はクルミの木を削って作られ、縁はヘラで押し潰したような凹みが模様みたいに連なっている。上部には繊細とは言い難い、それでいてどこか味のあるカーヴィングが施されていて、蔦のような文様の中央には白いつるっとした石が嵌め込まれている。
箱の大きさにぴったり合わせて収納された便箋は、一見何の変哲もない紙だ。これはヴィーグという魔術で育てられた木から作られた紙で、この〈伝信箱〉に欠かせないアイテムである。
〈伝信箱〉は、宛先を書けば遠く離れた相手ともほとんどタイムラグなしに意思疎通ができる魔術道具だ。相手も〈伝信箱〉を持っている必要があるが、とても便利なので、魔術嫌いの神官ですら文句を言いながらも利用しているのだとか。
シェリーは椅子に腰掛けてインクとペンを用意すると、箱からヴィーグ紙を一枚取り出し、一つ呼吸を整えた。
「よし」
まずは宛先。これは正確でなくとも、「古いモミの木の下に住むタンサおじさん」とか「三つの鐘楼の鐘が聞こえる赤い屋根のお家」とかでも届く。多少時間はかかるし、間違って届く場合もあるが、その時は人違いである旨を書いて自分の〈伝信箱〉に戻せば送り主の〈伝信箱〉に返送される。どうやって行き先を選別しているのかは謎。
「親愛なるルーク・トライデン様」
静かな夜空。清らかな空気が輪郭を包む。
開いた窓から、月明かりが室内に差し込んでいる。
魔術を使わなくとも、手元を見るくらいなら十分な明るさだった。
「先日は――」
先日は何も言わずに帰ってしまい、申し訳ありませんでした。
大変驚かれたかと思いますが、私も同じくらい動揺していたのです。
フローラさんのこと、聞きました。エリザベート・モーラ様という方がギルドへいらっしゃって、自ら語ってゆかれました。
その件で貴方とお話がしたいと思っています。
明日の昼、〈青の鈴蘭〉亭で昼食をご一緒しませんか。
そこで私の気持ちもお話しします。
待っています。
シェリー・ベルモット
書き終わると、ペン置きに万年筆を置いて数拍、瞳を閉じた。
あとは送信するだけ。
(勇気。勇気を出せ)
大きく息を吸い込み、えいやっと便箋を箱に戻して箱上部の白い石に人差し指をのせる。すると石がぴかりと光り、戻したばかりの便箋が風もなく浮き上がった。輪郭が金色の光に縁取られ、束の間ふよふよと漂ったかと思うと、便箋は隅の方から砂のように崩れはじめた。夜に沈む部屋の片隅に、光の粒が砕けた太陽のように輝きを放つ。
やがて、光は闇の中へ溶けるように消えていった。
送信完了だ。
「~~~はあああっ」
大量の息を吐きながら、机にべったりとしなだれる。
たった数行書いただけなのに、全力疾走したかのような疲労感だ。心臓がバクバク鳴って息が苦しい。
(もう届いたよね。気付いたかな。読んでくれたかな。短い文章だからもう返事を考えてくれてるかも。いや、やっぱまだ早いかな)
ルークと〈伝信箱〉を介してやりとしたことは数えるほどしかない。付き合って間もないというのもあるし、二人とも控えめな性格なせいか、何を書けばいいのか分からないのだ。その貴重な一回がこんな内容になるなんて、シェリーは残念で仕方なかった。
机に頬っぺたをくっつけまま、人差し指でグリグリと円を描いていると、〈伝信箱〉の石がまたぴかりと光った。
バッと跳ね起き、箱の中を覗き込む。
一番上の便箋に"ルーク・トライデン"の名があることを確認し――思考が停止した。
返信は短かった。
たったの一文。
『ごめん、行けない』
愕然として心が凍る。
どうして行けないの?
いつならいいの?
ごめんって、どういう意味?
疑問が次々に浮かんでは、心に消えない漣を立てた。
外は風が出てきたらしく、開け放ったままの窓から吹き込んで、レースのカーテンをざわりと揺らした。
どれくらい時間が経っただろうか。
シェリーはぼうっとした頭で、返事の意味を考えていた。
これから自分が何をするべきかも。
無意識に握っていた拳を解いて、シェリーは再び万年筆を取った。ルークの文字が滲んだ便箋を抜き取り、新しいまっさらな便箋にさらりとインクを滑らせる。宛先はさっきと同じ。本文を書こうとして書き出しに迷い、ペン先が黒い染みを作ったまま動かない。なんとか書き始めたものの、さっき以上に固く、ぎこちない文章になった。
それを送信し、返事を待つ。
相変わらず鼓動はうるさい。が、不思議と精神は落ち着いていた。心を二つに分けて、緊張した半分を冷静なもう半分で押さえつけているような感覚だ。落ち着いているというよりも、構えているのかもしれない。まだ終わってはいないのだから。
「きた……」
白い石が光り、一番上に置いた白紙にさらさらと線が描かれる。一文字一文字、現れるごとに目で追いかけ、書かれた短文とその裏に込められているであろう意味を必死で読み取ろうとする。
けれども。
『フローラには近付かないでほしい』
「…………」
紙に視線を落としたまま、瞬きをひとつする。睫毛が水滴を叩き、ぽたりと机に弾けた。
月明かりがしんしんと積もる。時計の針がコチコチと進む。ずきずきと痛む胸を押さえて、シェリーはその場に俯いた。薄青の髪がしだれて、青白い横顔を覆い隠す。
「ど、して?」
ここまでで彼の拒絶が分からないほど、シェリーは鈍感ではない。
話をしたくない。
会いたくもない。
それなら私はどうすればいい?
フローラに近付くなって、何を心配しているの?
教えてくれなきゃ分からない。
シェリーは顔を上げた。
琥珀の瞳は涙に濡れている。しかし、闘志は失われていない。
時計を見る。時刻は午後八時過ぎ。
ルークが部屋に帰っていることは、すぐに返事が届いたことからも分かる。
彼のパーティは仲がよく、たまに飲みに行くこともあるようだ。そうではない日は、彼は早く休むことが多かった。冒険者は体が資本なので、必要がなければ無理をしないというのが基本的な考え。それでも若い頃は無理をしがちだが、ルークは先輩冒険者の教えを素直に実践している。
たぶん、今日はもう家から出ないだろう。
椅子をずらして立ち上がる。衣紋掛けにかけていた薄手のコートを羽織り、カバンも持たずに部屋を出る。階段を駆け下りる際、まだ帰ってこない祖母のことが頭を過ぎったが、言い訳ならいくらでも考えればいいとそのまま玄関へ向かった。
鍵を開けて外へ出れば、ひんやりとした冷気が足元を這う。自室でも窓を開け放っていたけれど、全身を外に晒すのとはやはり感じる寒さが違う。
シェリーはぶるりと身を震わせると、肩に羽織ったままだったコートに袖を通しながら歩き出した。
ルークが暮らしているのは、二区画先のアパルトマンだ。彼の生まれはもっと西にある職人街だが、十五歳になると親元を離れて一人暮らしをはじめた。所属するギルドが東王都なので、住居もその近くに移したのだと聞いている。それと、両親と仲がよくないのだとも。
どの辺りに住んでいるのかはギルド職員として知っていたが、実際に行くのは今日が初めて。まさか約束もせず押しかけるのが最初になるなんて、思いもしなかった。
思えば、恋人らしいことなんてまだ何もしていない。初デートは潰れてしまったし、手を繋ぐなんて簡単なこと、今じゃ子供でもやっている。
肩をくっつけ合って歩きたかった。キスの一つもしてみたかった。ソファに並んで座って、手を繋いで眠りたかった。こんなことになるなら……。
(こんなことって何? まるでもう終わったみたいな考え、やめよう。諦めたくないのは私だって同じだ)
ともすれば負けそうになる性根を叱咤し、ひと気のない夜の道を躊躇わずに歩いていく。子供だった頃と違い、今のシェリーには魔術がある。あまりに強力な術を街なかで使えば罰を受けるが、防衛手段としては有りだ。危険な場所に近付かず、大きな通りを歩くくらいなら問題ない。
三叉路で一度だけ悩んだ以外は、迷うことなく目的地へと辿り着いた。
四、五軒先に青い屋根の縦長のシルエットをみつけ、シェリーはほっと息を吐く。
「きっとあそこだ」
管理人の趣味で、玄関脇に地妖精の置物を置いてあるのだとルークが言っていた。間違いないだろう。
(こんな時間に入れてくれるかな。門前払いされないかしら)
急に不安になってきて、足が止まった。
いつものルークだったら、たとえ何時だろうと家へ上げてお茶の一杯でも出してくれただろう。だけど、シェリーは先程彼に拒絶されたばかりだ。追い返されるんじゃないかと、悪い想像をしてしまう。
ふと、街灯の明かりが人影を照らし出していることに気が付いた。気付くのが遅れたのは、その人物が扉の前にいて動かなかったためだろう。扉が開いたことで、自然とそっちへ焦点が合ったのだ。
そこはルークが住むアパルトマンだった。
「あれって……フローラ!?」
"さん"付けするのも忘れて、フローラを凝視する。驚きのあまり口をぽかんと開けた。だが次の瞬間には、さらに信じられない光景を目撃することとなった。
「ルー……ク……」
心臓を握り潰されたような衝撃がシェリーを襲う。
アパルトマンの扉から出てきたのは、彼女の恋人だった。距離が離れているにしても見間違えるはずがない。柔らかな金髪は暗がりと街灯の明かりのせいで色合いが少し違うけれど、均整の取れた立ち姿は彼女がずっと憧れ続けた人だと物語っている。
二人は何言か言葉を交わしている様子だったが、すぐに建物の中へと入っていった。
あとには、街灯の白い明かりが、閉まった扉と沈黙するノームを照らすのみ。
ぐらりと視界が回ったかと思うと、シェリーは地面に崩折れていた。コートの裾がふわりと広がり、遅れて石畳の上に落ちる。
体中の血が急激に全身を巡っていた。それなのに手指の先まで冷たく、裸で放り出されたかのようだ。
頭の中では、今見たことに理由をつけようと必死で言葉を探していた。だけど、どうあってもそんなもの見つからない。見たことは見たこと。それ以上でも以下でもなくて、絶望の波に揉まれる。
シェリーを保っていたものが、ぷつんと切れた。
――その後は、どうやって帰ったのかも分からなかった。