4.小さな英雄
好奇心で足を踏み入れた先には危険が待っていた。
不運にも遭遇した、二人組の人攫い。
為す術もなく捕らえられたシェリーを助けたのは、見ず知らずの勇敢な少年。
しかし、子供一人の力で大の男に敵うはずもなく、少年は理不尽な暴力に晒され続けている――。
「ハハ、オレたちゃツイてるな。こんだけ暴れても人が来ねぇし、それどころか商品が増えた。バカだねぇ、今のうちに逃げればよかったのに」
長髪男が目をやった先には、フローラと彼女に腕を掴まれたシェリーの姿。助けを呼びに行くはずだったのに、なぜか味方であるはずのフローラに止められて動けないでいる。
フローラは余裕綽々で、相手が大人だろうと怯まずに傲然と構えている。その点だけは凄い。凄いけれど、何を考えているのか全然分からないから羨ましくもない。
「ふんっ。あんたたちの思い通りになんかならないわよ。私になにかあったら、ルークが絶対助けてくれるんだから!」
「ルークってこのガキか? 欲しけりゃ返してやるぜ。ほら、よっ!」
男は大きく片足を振りかぶると、勢いよくぶん回してルークの横腹に突き刺した。
「ぶっ」
堪らず開いた口から、血の混じった唾液が飛び散る。細い体は軽々と吹き飛び、何度も地に跳ね返って回転しながら壁際まで転がる。ようやく停止したが、体はもうボロボロだった。
「ああっ」
力なく横たわる少年。シェリーは絶望の悲鳴をあげ、彼に駆け寄る。同時に、フローラは掴んでいた手をぱっと放していた。
「大丈夫っ?」
「う、く……」
シェリーはルークを抱き起こそうとしたが、彼の怪我はそれを躊躇わせるほどの有り様だった。
大部分は服に隠れているが、露出した腕や顔はあちこち腫れ上がっている。唇や鼻からは血が出ているし、他にも細かい切り傷や、蹴られた時に付着した土や泥で全身が黒く汚れていた。
怖いのは見えないところについた傷だ。あれほど腹を蹴られたのだ。大人の力で、容赦なく。もし内蔵が傷ついていたら、シェリーには打つ手もない。医者か神殿に治療してもらわなければ。
苦しげな呻き声が痛々しい。シェリーはどうすることもできず、ルークの頬に手を当てる。
すると、彼は力なく瞼を持ち上げてシェリーを見つめ返した。透き通った青い色。目を見ればその人がどんな人物なのか分かるなどとは言わないけれど、とても澄んだ瞳をした彼は心の優しい人なのだと直感した。
(助けたい……。私に力があれば……)
不意に少年の目が見開かれ、シェリーの体が宙に浮かんだ。意に反して離れていく地面。自由を奪う大きな手。シェリーは足をバタバタさせて抵抗する。
「いやぁ! はなし――」
「静かにしろ! 暴れるな! おい、そっちは?」
「捕まえた。ビビってんのか大人しいもんだ」
「んー! んんーっ!」
大きな掌で口を塞がれ、小脇に軽々と抱えられてしまう。隣ではフローラも同じように捕まっている。
シェリーたちより男たちの方が余程騒いでいた。それでも周囲から人が出てこないところを見ると、留守なのか関わりたくないかのどちらかだろう。だが、喧嘩ではなく子供の誘拐だと知れたらすぐに通報される。目に見えて男たちの動きが変わった。
「よし、急ぐぞ。まずは"家"に戻る。先に行け」
「おう」
揺れ動く視界の中、シェリーは頭を巡らせて少年の姿を探そうとした。無論、フローラに「見てて」と言われたからではない。自分が傷だらけになるのも厭わず助けてくれた彼を、治療もせず放っていくことが出来なかったからだ。ちゃんと彼の怪我を治してくれるなら、この人たちについて行ってもいいとさえ思った。
(ルークくん……!)
開かない唇が音を辿る。
傷つきながらもなお立ち上がろうとする少年の姿が、曲がり角へ消えようとするシェリーの瞳に映った。
――彼は諦めていないのだ。
(どうして、そこまで必死になるの)
拳を地面に叩きつけ、それを支点にぐぐっと上半身を持ち上げる。苦しそうだ。膝をつき、四つん這いの状態から、壁に拳を這わせて辛うじて体を持ち上げる。起き上がってもまだ足は震えていた。その膝を、掌でぱしっと押さえる。食いしばった歯が今にも折れそうで、見ているのも辛い。だけど、倒れないように――今度こそ少年は二本の足で立ち上がった。
荒く上下する両肩。
金色の前髪から覗く青色の双眸。
強い光。
(幻覚じゃない?)
両側を民家で囲まれたこの路地は、昼間であろうと青白い影に包まれている。だが、僅かな箇所だけ太陽の光が差し込む明るい場所がある。
ルークは満身創痍でそこに立っていた。
背に光を纏わせた様は、伝説に登場する太陽の化身のようだ。
背後の気配に気付いたらしい。男たちは立ち止まり、怪訝な顔で振り返る。その顔が揶揄の色に染まった。
傷の男が皮肉気に口を開く。
「英雄にでもなろうってのかい、お坊ちゃん」
「いいや」
ルークは否定し――首を振ったあと、微かに何事か呟いた。シェリーたちのところまでその声は届かない。
代わりに、彼の腰元できらりと光るものがあったので目を凝らすと、それはベルトに吊るした銀色の飾りだった。太陽の盾を象った、ソルレシア王国の主神ソルグラシアの聖印だ。この国の者なら子供だって持っている、特段珍しくもない代物。その盾が自ら輝いたように見えた。気付いたのはシェリーだけだったようで、男たちもフローラも変わった反応はない。
「あのさ、もうコイツも連れて行こうぜ。どうせ顔を見られたんだ。放っていくと後々マズイことになるんじゃねぇか?」
フローラを抱えた長髪男が、右手で髪を撫でながら言った。
「それもそうだな。処分方法はあとでゆっくり考えるか」
「ってことだからよぉ。わりぃな。って、今更か」
長髪男はフローラを荷物のように落とし、パキパキと拳を鳴らす。尻餅をついたフローラが痛がっているが、それどころではない。男たちは本気でルークを見逃さないつもりだ。
「ルークくん! 逃げて!」
「おっと、お前はまだ黙ってな」
「んんっ」
顎をしっかり閉めるように塞がれ、強制的に噤まされた口の中で歯噛みする。無力だ。こんな場面でも何もできないのかと、悔し涙がこみ上げる。
長髪男は流れるように走り出し、ものの一秒でルークとの距離を詰めた。
口元には嗜虐的な笑み。振りかぶる拳。
「ガキは寝てろ!」
「ぐ……!」
ルークの額に男の拳が突き刺さる、直前、ルークは頭を左に動かし、紙一重で拳を躱した。それだけではなく、伸びた男の腕を両腕でがっしりと抱え込む。
「お前らなんかに……負けるかよ!」
「何を、うわあ!?」
「ぐお!?」
突如、眩いほどの光が男たちの目を焼いた。まるで太陽が落ちたかと錯覚するような、強烈な輝き。それは少年を中心に瞬く間に広がり、辺り一帯を白く染め上げる。
シェリーはびっくりして目を見開き――光が彼女を傷つけないことには気付かなかった――かと思えば、次の瞬間には固い地面の上に放り出されていた。肩から派手に落ちるも、目の前で起きた衝撃が強すぎて痛みを感じない。
ぺたんと尻をつき、呆然として光が収まりゆくのを見詰めていた。
「…………」
時間にすれば、三十秒かそこらだったろうか。長いような気もするし、短いような気もする。
ルークから放たれた光はすっかり消え去り、元の青白い影が小路地を支配している。
地面には男が二人。眉に傷のある男と、長髪の男。シェリーを恐怖のどん底に突き落とした人攫いたちが、ぴくりとも動かずに倒れている。
(終わった……?)
心臓は飛び跳ね、半身が水に浸かっているみたいに冷たい。
ペタリとへたり込んだ膝先を見た。投げ落とされた拍子に怪我したらしく、赤い血が滲んでいる。だけどこんなものよりもっと酷い怪我を見たから、何も感じなかった。むしろ、こんな傷ひとつで申し訳ないなどと思ってしまった。
ザッ、と土を擦る音がして、視界に見慣れぬ爪先が映り込んだ。顔をあげると、優しい面立ちをした少年がシェリーを見下ろし、手を差し伸べていた。
「もう大丈夫だよ。立てる?」
顔も手も体中ボロボロで、シェリーよりも彼の方が痛いはずなのに、なんでもないような顔をして立っている。
柔らかい面差し。優しい微笑み。湖面のように透き通った青い眼差しから、どういうわけか目が離れない。
頬がじわじわと熱くなってきた。まるで、ルークという太陽に照らされたみたいに。
「あ、ありがと――」
小さな英雄。眩いほど強い輝き。
自分に向かって差し伸べられた手へ、シェリーは右手を伸ばした。
しかし。
「ありがとうルークっ! 私を助けてくれて! やっぱり貴方は私の英雄だわっ! 最高、かっこいい!」
取ろうとした彼の手を、横から別の両手が現れて奪い取る。シェリーはびっくりして手を引っ込めた。その隙があろうかなかろうかという寸瞬の間に、座り込んだシェリーの目の前に少女が背を向けて立ちはだかった。ダークブラウンの艷やかな髪。仕立てのよいふんわりとした衣服。
ルークの姿は、フローラの後ろ姿に隠れてしまった。
理由不明な寂しさが込み上げてきて、引っ込めた右手の指を握る。
フローラの明るい声が追い打ちのように胸を刺す。
「まったくもう、無茶するんだから」
「フローラ――うん。無事でよかった」
「ううん、いいの! やっぱりルークは私の王子様ねっ! 土壇場であんなすごい力――あれは一体何だったの?」
「よく分からない、けど。たぶん、神様が助けてくれたんだよ」
「すごい! 本当に? 神様が? だったらルーク、それって奇跡ってやつじゃないの! 神様に選ばれたんだわ、すごーい!」
はしゃぐフローラの甲高い声を聞きながら、浮足立った気持ちが急速に冷えていくのを感じる。
どうしてだろう。喜んでいいはずなのに。怪我はあるけど、三人とも命は助かったのだから。
だけど、こうも思ってしまう。
(どうせなら、ルークくんが怪我する前に助けてくれればよかったのに)
そんな考えは、神に対する不敬なのだろう。"神に救いを求めてはならない"とは、神殿の説教師がよく使う文言だ。神は人を助けて当然と思うのは、浅ましい感情なのだと。安易に神を頼らず、己を顧み、研鑽し、自らの力で苦境を乗り越えることが最上だという考えはあらゆる神に共通している。
祖母だったら一言で、「自分の問題は自分で片付けな」とでも言うだろうか。
(己を顧み――)
痛い言葉だった。
人攫いが一番悪いのは言うまでもないことだが、母親の言いつけを破って知らない道に入ったのはシェリーだ。そんなことしなければ人攫いに遭うこともなく、ルークたちを巻き込むこともなかった。原因の一端は間違いなくシェリーが握っている。
「あの……」
シェリーは立ち上がると、思い切って声をかけた。親しい二人の会話に入っていくのは気が引けたが……。
「何かしら?」
振り向いたフローラの目は笑っておらず、急に怖くなったシェリーは勢いよく頭を下げた。
「ごっごめんなさい! 私のせいで、大変な目に巻き込んでしまって! それと、助けてくれてありがとうございました。このご恩は、一生忘れません。その、お礼になるか分からないけど……」
シェリーはフローラと視線を合わせないようにしながら、担がれていた時もしっかりと握りしめていたバスケットをごそごそと漁り、キャンディの包みを取り出した。それを掌にのせ、おずおずと差し出す。
――いや、こんなのがお礼って失礼だよね……。
やってしまってから思い至り、嫌な汗がこめかみを伝う。いくら子供といったって、三歳や五歳の幼子ではないのだから。とは言えひっこめることもできず震えていると。
「ありがとう。いただくね。本当にキミが無事でよかったよ」
「…………!」
フローラを押しのけて前に立ったルークが赤い包を摘み上げ、太陽のごとき笑顔を向けた。その光を浴びたシェリーの胸中もぱぁぁっと明るくなる。体が風船みたいに軽くなって、今にも飛んでいってしまいそう。浮かれた気持ちを顔に出さないようにするのが大変だった。
「え、っと……」
「ルークが貰うんなら私もいただくわ!」
その言葉と共に、掌からもう一つの包が手品みたいにパッと消えた。
まさに一瞬の出来事。
フローラは黄色い蝋紙の匂いをかいで、嬉しそうに口角をあげた。
「あ、レモン味? 私、好きよこれ。懐かしい香り。昔、家の庭に生えてたのよね」
「家の……? フローラの家にレモンの木なんてあったっけ」
「あったわよ。随分前に切り倒したから、ルークは覚えていないのね」
「そうかな……」
「そうよ。ふふふ」
顎に手を当てて訝しむルーク。そんな彼をうっとりとした目で見つめるフローラ。そしてシェリーは、フローラに気付かれないようこっそりとルークを盗み見ていた。
案外元気そうにしているけれど、全身ボロボロなのは変わっていない。あの謎の光のおかげで動けているのかもしれないが、単に痛みを我慢しているだけかもしれないから、早く治療した方がいいのは確かだろう。
彼の怪我の原因も自分にあることを考えると、シェリーは萎れた花のようにしょげ返った。
「本当にごめんなさい。ルークくんにこんな大怪我を負わせて……。フローラさんも、私のせいで怖い思いを」
「いいんだよ、そんなに思い詰めなくて。結果的に無事だったわけだし。俺の怪我も、見た目よりひどくないみたいなんだ。だから、責任なんか感じなくて大丈夫」
「でも、治療費とか……。あの、私はお金ないけど、おばあちゃんに頼んでみるから」
「そんな必要ないわよ!」
急に大声を出したフローラに、シェリーはびくっと肩を揺らした。
「お金ならうちが出すわ! 私とルークは家が隣なの。遊ぶのだって勉強するのだってご飯を食べるのだって一緒。お互いの両親もそれが普通だって思ってるのよ。だから治療費を出すくらい問題ない。私を守るために怪我したんだって言えば尚更惜しまないわ!」
フローラはどこか鬼気迫る顔をして、睨むようにシェリーを見据えていた。怖いと言うより圧倒されて言葉が出てこない。
「そうよ。それが真実なのよ。ルークは私を守ってくれたの。だって、あなたが攫われそうになっていることに気付いたのは私だもの。私が助けなきゃって飛び出したから、ルークが率先して危険を冒したの。つまりね、私より先にあなたを助けることで、ルークは私を守ったの! あなたはついで! そうよね? ルーク?」
シェリーは瞳だけ動かしてルークの表情を確認した。無意識の行動だった。フローラの言葉が本当かどうか、ではなく、間違いであることを確かめたかった。どうしてそんな風に思うのか自分でも分からないが、シェリーはルークがフローラの言葉を否定することを願っていたのだ。
二人の少女に見詰められた少年は、ただ静かな微笑みを浮かべていた。
「うん。そうだね」
「でしょ?」
フローラが嬉しそうにルークの腕に抱きつき、彼もそれを拒まないのを見て、シェリーは厚かましくもがっかりする。
(そっか……。そうだよね。見ず知らずの女の子より、よく知ってる友達の方が大事だよね)
それでも、助けてもらった事実に変わりはない。がっかりするなんてルークに失礼だ。
自分の嫌な部分を見つけてしまったみたいで、二重に落ち込んだ。
(恋人、なのかな)
ぴったりくっついてるし。ルークも嫌がってないし。少なくとも、単なる友達の距離感ではない。
胸をぎゅうぎゅうと軋ませる謎の痛みに耐えながら、シェリーはしっかりしないと、と自分に言い聞かせた。
「あ――そうだ、この男の人たち、どうしよう?」
「そういえばそうだったな。……うん、まだ気絶してる。当分大丈夫みたいだ。俺がこいつらを見張ってる。キミとフローラは通りに出て憲兵を連れてきて。ええと――」
ルークと視線がぶつかり、全身に緊張が漲った。
「シェ、シェリー。私の名前は、シェリーって言います」
「シェリー」
何が面白かったのか、傷ついても端正な顔立ちがふっと微笑んだ。
シェリーは直立のまま真っ赤になる。
「シェリー、さっき言ったこと頼める?」
「はい」
「タメ口でいいよ。そんなに年齢変わらないだろうし」
「う、うん。じゃあ、行ってくるね。すぐ戻るからっ」
彼の腕に巻き付くフローラの、面白くなさそうな顔。ついてくる気配はない。でも、そんなことも気にならないほど心臓がドキドキしていた。
血の流れが速い。どくんどくんと、休まずに走る。
通りに出たシェリーは空を見上げ、明るさに数秒目が眩んだ。
やがて目が慣れてきて、焦点がはっきりと空の形を捉える。
青と白。綿のような雲。横切る小鳥たち。
――帰ってきた。
水から上がったような解放感。行き交う人々は変わらない日常を背負って歩いている。自分一人だけ、異邦人みたいだ。
ぐ、と腿の横で拳を握る。
道を挟んだ反対側に見知った憲兵の制服を見つけ、シェリーは走り出した。
ルークくん。
金色の髪に、透き通った青い瞳。
不思議と気になる少年だった。彼のことを思い浮かべると、なぜだか落ち着かない気分になる。同時に、胸の真ん中が温かくなって幸せな気持ちで満たされる。
シェリーはその感情をなんと呼べばいいのか分からなかった。知るのは、もう少し先。そして――ルークという名の少年が神に奇跡を授かり、その力を活かして冒険者になったと聞くのは、それから三年後のことだった。




