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3.はじまりは十年前

 はじまりは十年前。シェリーは九歳で、まだルークという少年の存在すらも知らなかった頃。

 シェリーの両親はあちこちを飛び回る商人で家にいないことが多く、ほとんど祖母との二人暮らしみたいなものだった。淋しかったが、無理を言ってどうなるものでもない。それよりも、大病を患っていた母が元気に動けるようになったことの方が嬉しくて、淋しいのは良い結果なんだと思っていた。

 素直で大人しくて、不満も望みも言わない子。

 悪く言えば主体性のない子。

 シェリーはそんな子供だった――あの日までは。





 祖母に頼まれたお使いの帰り道。薄暗い朝夕ならともかく、まだ太陽は南の空高くにあり、そのことが却って油断を招いたのだろう。

 荷馬車や街の人が行き交う道の途中で、シェリーはふと足を止めた。

 石畳の街は白く見えた。緩やかに上っていく坂道は先が見えず、まるで空を目指しているかのようだ。道の両端には二階建てや三階建ての建物が並ぶ。

 商業区と住宅区の境。そのような区切りがはっきりとなされているわけではなく、概ね店が多い、民家が多いという程度のものであったが、とにかく雰囲気の境目にシェリーは立っていた。


 家に帰るには、緩く長く続く坂道を大きくカーブしながら上っていかなければならない。

 子供の足には大変な苦行だ。

 荷車を引いて歩く大人も苦しそうな顔をしている。


 近道、しようかな……。


 それは、単なる思いつきだった。

 シェリーの瞳は、ちょうど彼女の足下から伸びる横道に向けられている。

 表通りの半分もない狭さの、その先に住む住民以外使うことのないような細い路地。その、白い街にぽっかりと潜む洞窟のような暗がりに、シェリーはなんとなく引き寄せられた。

 この裏道は、憲兵の昼の巡回ルートから外れている。そんなことまでシェリーは知らなかったが、母から決して近づくなと言われたことは覚えていた。

 危ないから、と。

 しかし、何がどう危ないのか。うっかりしていたのか、それともそこまで言う必要はないと判断したのか、母は教えてくれなかった。なまじ聞き分けのよい子供だっただけに、軽い注意だけで十分だと思ったのかもしれない。


 青白い影に沈んだ路地を、琥珀の瞳でじっと見詰める。

 薄暗くて寒そうだということ以外、シェリーの家の周りと大差ないように見えた。ゴミなど落ちていないし、夜の賑やかな通りみたいに酔っ払いが座り込んでいるということもない。

 とても平和そうだ。

 ただ、一人の姿もないことが、先へ進むことを少しだけ躊躇わせる。人の声もなく、聞こえるのは通りを走る荷馬車の音と、小鳥の囀りだけ。


 そこで諦めてしまえばよかった。足がぱんぱんに膨れようが、元の明るい坂道を頑張って上ればよかったのだ。

 しかし好奇心に駆られたシェリーは、妖精に導かれるように歩きはじめてしまった。

 どんなに聞き分けがよくてもシェリーは子供なのだ。深く考えずに、どんどん奥へと進んでいく。


 足取りは軽く、左腕に通した籐のバスケットが前後に楽しそうに揺れていた。バスケットの中には黃と赤と灰色の毛糸玉が二つずつと、お使いのご褒美に店でもらったキャンディの包が入っていて、大好きな蜂蜜味の飴をおやつにすることをシェリーはとても楽しみにしていた。


(二つもらったから、レモン味はおばあちゃんにあげよう)


 祖母は飴なんぞいらんというかもしれない。そしたら二つともシェリーのものだ。でも、正直レモン味はあまり得意ではない。以前、変わったオレンジだと思って食べたら酷い目に遭ったから。だからやっぱりおばあちゃんに食べてほしい。


 民家が押し合う道をまっすぐ進んでいく。二階建てが多いけれど、時折苦しそうに平屋が挟まっている。人間に喩えるなら、肩身が狭そう。祖母と母の口論に巻き込まれた父みたいだ。

 古い石畳の上には、青白い影が屋根の形を投影して凸凹に映し出されていた。光の当たる場所と影になった場所が、くっきりと分かれている。

 それが、段々と影の割合が多くなっていった。

 いくつめかの十字路に差し掛かる頃には、シェリーの前方には影の小路が広がっていた。


 まだ日は高い、はず。

 空もちゃんと明るい。

 でも、暗い。


 まるで暗闇という名の怪物が路地の先に潜んでいて、シェリーを待ち構えているような気さえした。

 ぶるっ、と身体が震える。


(寒い。戻ろう)


 自分でも呆気ないと感じるくらい、近道への好奇心は消え去っていた。

 その代わりに背中を押したのは、早く祖母のいる家に帰らなきゃという焦り。お使いを完璧にこなしたから、いつもは厳しい祖母も褒めてくれるに違いない。万が一道に迷ったりなんかしたら、それこそ怒られる。


(どうして近道しようなんて思ったんだろう。私のバカ。普通に帰れば、時間もムダにならなかったのに)


 くるりと踵を返して来た道を戻りはじめると、心臓を叩いていた焦燥感はわずかに落ち着いた。更に、通りの方角から二人の男性が歩いてくるのが見えたことで大いにほっとする。

 ()()()()()()()()()

 シェリーにとって、大人とはとても頼りになる存在だ。両親も祖母も、友達のおじさんやおばさん、神官のお兄さんも、いつも通っているパン屋の夫婦もみんな親切で優しいから、そうじゃない大人がいるなんて思いもしない。

 だから、大股で歩く不機嫌そうな二人組にもまるで警戒していなかった。シェリーをみとめた彼らが物珍しそうな顔をし、じっと視線を貼り付けてくるのも。なんだろうと思ったけれど、気にせず通り過ぎようとした。

 ところが。

 二人組とすれ違った瞬間、唐突に腕が後方に引っ張られ、シェリーは驚いて体のバランスを崩した。その拍子にバスケットを落としてしまい、足元に毛糸玉とキャンディの包みが散らばった。


「おっと、荷物落としたぜ。あーあ、派手にやっちまったな。お兄さんが拾ってあげよう」


 呆然としていると、男の一人がシェリーを追い越してひょいと屈んだ。転がったバスケットを地面に置き、長い腕を伸ばして散らばった毛糸玉を拾い上げる。

 シェリーはただそれを眺めていた。なぜなら、片方の腕をもう一人の男に掴まれたままだったからだ。そっと腕を引いてみると、それ以上の強い力で拒まれる。見上げると、長髪の男が無言でニコニコと笑っている。シェリーは男の瞳の中に抗いがたい何かを感じ、押し黙るしかなかった。


「はい、お嬢ちゃんのカゴ。お買い物だったのかな? ちゃんとしっかり持ってなきゃダメだよ」


 眉に傷がある青年が、シェリーの背丈に目線を合わせてバスケットを差し出す。一見人好きのする笑顔だが、やはりどこか不穏だ。早く逃げ出したくてたまらない。シェリーは震える手でバスケットを受け取り、縋るような瞳で長髪の男を見上げた。


「あ、あの……。もうだいじょうぶです。放してく、ください」

「お嬢ちゃん、可愛いね。何歳かな? 十歳くらい?」

「きゅ? 九歳です……」

「そうかぁ、若いなぁ。あのね、君みたいな子を探してる人がいるんだよね。とぉってもお金持ちなんだ、その人。会ってみたくない?」

「……いいえ」


 会いたくないです、とぶんぶん首を振る。すると長髪男の手に力が入って、骨の軋むような痛みが走った。


「いたっ……!」

「ああ、ごめんね。小さい子相手だと加減が分からなくてさ」


 ニコニコと笑う顔はもはや一片も信用できない。

 恐怖で涙が滲んで、全身が萎縮する。

 それを痛みのせいだと勘違いしたのか、しゃがんだままの傷の男が、顔をしかめながら言った。


「おい、気をつけろ。傷をつけるな」

「大丈夫だって。大人しくなるなら骨の一本や二本くらい折っても構わんでしょ」

「悲鳴をあげられたら困るんだよ。誰か来たらどうする」

「それもそうか。いやぁでもさ~。このコすっごい大人しいし、人を呼ぶ度胸なんてないでしょ。現にぶるぶる震えちゃってるし。かわいー」

「んなことどうでもいい。さっさと"家"に帰るぞ」

「ほいほい」


 腕が引っ張られる。大人の力に抗えず、シェリーは引き摺られるようにして歩いた。いや、歩かされた。


「痛いかな? ちょっとの間我慢してね。俺らのお家に君を招待したいんだ。それから、すっごく楽しいところに行こうねぇ。玩具がいっぱいあるよぉ」


 いやだ! 行きたくない!


「さっきも言ったけど、お金持ちがいるんだよ。君みたいな可愛い子を探しててね、オレたちも協力してるんだ。その人のところに行ったら贅沢できるよ。綺麗な服とか宝石とか、あと、キャンディもたくさん。楽しいよぉ」


 必死に首を振るシェリーを嘲笑うかのように、腕を掴む男は愉しげに声を弾ませる。バスケットにキャンディの包みがあったのを見たのだろう。秘密を暴かれたような厭な気分だ。

 シェリーはひくっとしゃっくりのような声を上げた。

 大声を出さなきゃ。分かっているのに、身体は言うことを聞いてくれない。ささやかな嗚咽が漏れるばかり。


「助けを呼ぼうってか? 無駄だぜ。この辺は昼間"からっぽ"なんだ。いたってろくに動けねぇ老人くらい。危険を冒してまで他人を助けようなんざ思わねぇ。諦めるんだな」


 ぽろぽろと涙が溢れ、地面に点々と染みを作ってはすぐに消えていく。


「にしても、こんなところでこんな逸品が手に入るとはなぁ。寄り道もしてみるもんだぜ」

「見たところ中流階級の娘ってとこだな。割といいもん着てる。孤児に比べてリスクは高いが、このスペックは見逃せねぇ。なんたって美人は」

「金になる」

「そういうこと」


 男たちはクツクツと笑った。

 その間も、シェリーが自力では追いつけないような早足で進んでいく。ぐんぐんと。暗闇という怪物が潜む路地奥へ。


(おばあちゃん――だれか、だれか助けて)


 琥珀を溶かしたような涙が、シェリーの瞳からぽろりと溢れる。その滴が陽光を跳ね返して光った。


「いッてぇっ!」


 突然、長髪男が背を反らして悲鳴を上げた。腕の力が緩み、シェリーは前へつんのめる。傷の男が驚いた顔で仲間を振り返った。


「今だ、逃げて!」

「…………っ」


 誰のものかも分からない声に従い、シェリーは転びそうになりつつ必死に駆け出した。


「あっ待てっ!」


 咄嗟に伸ばされた男の手は、すんでのところでシェリーをのがす。うずくまった長髪男がいい具合に障害物となったようだ。傷の男は舌打ちをして仲間を飛び越え、逃げていくシェリーを追う。


「待てって言ってるだろ!」


 駆け足は得意な方じゃない。むしろ、運動全般苦手だ。しかも相手は大人。勝ち目なんてないに決まっている。

 案の定、あっという間に追いつかれた。

 無骨な五本の指がシェリーの肩を掴む、その直前――すれ違うように金色の光が駆け抜けたかと思うと、追いかけてくる傷の男に向かって勢いよくぶつかっていった。


「うわっ!? なんだこのガキっ……離れろっ!」


 困惑する男の声に、思わず足を止め振り返る。

 金色の光の正体は、金髪の男の子だった。背丈はシェリーとそんなに変わらない。後ろ姿を見ても、特に大きいわけでもない。そんな子が大の大人の腰にしがみついているのだ。懸命に。

 たまたま近くを通りかかったのだろうか。となると、それだけの理由でシェリーを助けてくれたことになる。

 傷の男は拳を振り上げ、何度も少年を殴りつけた。しがみつく力は緩むどころか、服が破れそうなほど必死に食らいついていく。

 そこへ、長髪の男が痛む頭を振りながら追いついてきた。

 気付いた傷の男が長髪に向かって怒鳴る。


「おい! 女のガキどもを捕まえておけ!」

「命令すんな……クソ、頭いてぇ。このガキ、人の頭にこんなもの投げつけやがった。殺す気かよ」


 傷の男に舌打ちを返し、長髪男は手にした煉瓦を無造作に捨てる。煉瓦はゴンッ、と重い音を立てて一度だけ跳ねた。

 血走った目とシェリーの目が合った。

 途端に足が竦んで動けなくなる。

 長髪男は、ニタリと形容する他ない凶悪な笑みを浮かべ、勿体ぶった動きでゆっくりと足を踏み出した。

 まるでヘビに睨まれたカエル。逃げなきゃと思うのに、足に根が生えたように動けない。少年がせっかく作ってくれたチャンスも、これでは無意味になってしまう。

 がしかし、少年が猫のように素早く身を翻し、余裕ぶっていた長髪男の背後に飛びかかった。


「このガキっ! いい加減にしろよ!」


 傷の男が少年の襟首を持って引き剥がし、新聞か何かのように地面に叩きつけた。それだけでは収まらず、男は何度も少年の腹へ爪先を食い込ませる。長髪の方も一緒になって暴行を加えはじめた。

 彼らの足下からくぐもった声が聞こえる。容赦なんてない、本物の暴力。大人による蹂躙。


「や、やめて……」


 どうしてこんな酷いことをするのだろう。

 彼はシェリーを助けてくれようとしただけなのに。

 少年の体が衝撃で揺れるたび、低い呻き声が漏れる。驚いたことに、そんな状態でも彼は石畳についた指に力を込め、立ち上がろうとしていた。柔らかい金色の髪がたわんで何度も地面を掠める。その金色に赤い色が混じるのを見た瞬間、シェリーは呪縛が断ち切れたように自分を叱責した。


(何してるの私! 早く助けを呼ばなきゃ!)


 大きな通りにさえ出れば、人はいくらでもいる。大人に対する信用は揺らいでしまったが、憲兵ならばきっと少年を助けてくれるはずだ。来た道を戻るとなると少し時間がかかってしまうが、すぐ動かなかった自分のせいでもある。

 間に合うだろうか。いや、間に合わせるんだ。


(ごめんなさい。すぐ戻って来るから!)


 自分の代わりに痛みを負ってくれている少年を残していくことに、罪悪感が揺さぶられる。しかしこの選択が最適なんだと自分に言い聞かせ、シェリーは男たちが気付く前にそろりと背中を向けた。 

 が、振り返ったそこに、いるとは思わなかった人影を認めてぎょっとした。

 いつの間にか彼女の背後に、人形のように愛くるしい顔立ちの少女が立っていたのだ。

 ダークブラウンのミディアムヘアをたっぷりと膨らませた髪型。子供らしい丸みを帯びた頬。ヘーゼル色の大きな瞳。顔の真ん中にちょこんと乗った小さな鼻に、桜色の瑞々しい唇。どれを取っても可愛い以外の言葉が思い浮かばない。まるで住む世界が違うような――。

 シェリーが呆気にとられていると、少女はすうっと息を吸い込んだ。


「ルーク! 頑張って!」

「えっ?」


 無邪気な応援。

 あまりにも場違いだったが、そのおかげでシェリーははっと我に返った。

 ルークというのが金髪の少年の名前であることはさすがに察した。少女は彼の友達なのだろう。今まさに暴力を振るわれている友達に対して頑張ってなんて、なんて悠長なんだろう――いや、既に助けを求めた後なのでは? だからこそ、こんなにも余裕なのだ。きっとそうだ。

 シェリーは期待しながら、少女に声をかけた。


「ね、ねぇ。いま、助けを呼びに行こうと思ってたの。でも、もしかしたらあなたが呼んでくれたんじゃないかって……」

「呼んでないわよ」

「え?」


 返答の内容が信じられなくて、一瞬頭に空白が生まれる。

 空白の中に疑問が落ちた。

 ――じゃあ、なんで呑気に応援なんかしているの?

 戸惑いが大きく、続く言葉が出てこない。

 一方で、ダークブロンドの少女もまたシェリーの顔をジロジロと見ていた。

 唐突に彼女はシェリーの手首をしっかりと掴んだ。繋ぐのではなく、掴んだ。強い力だ。


「あ、あの?」

「フローラよ」

「フローラ、さん? あの人たち、悪い人たちだよ。大人を呼ばなくちゃ」

「どうして?」

「どうしてって……」


 一際乱暴な怒号が聞こえて、何かが固いものにぶつかる音が響いた。衝撃が空気を通じて伝わるかのようで、思わず息を呑む。振り向けば、少年が民家の壁に叩きつけられていた。少年は苦しそうに大きく口を開けて喘いでいる。二人の男は、それを見て笑っていた。


「ひどいっ!」


 咄嗟に駆け寄ろうとするが、腕を引っ張られてたたらを踏む。フローラに掴まれているのを忘れていた。


(こんな時に、一体何のつもり?)


 シェリーは生まれて初めて、人を睨んだ。


「離してよ! 友達なんでしょ!?」


 それを聞いたフローラは、くすりと笑った。思わず背筋がぞっとするような。艷やかで美しく、それでいて冷え切った微笑みだった。


「助けなんていらないわよ。見てて」

「見てて、って……」


 言い返す力は弱々しい。フローラが見せる得体のしれない美しさに、感覚が麻痺したかのようだ。

 シェリーは為す術もなく、フローラが指差す方へ視線を向けた。

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