間話2 消えないお菓子の謎・中編
その後、ラビィも休憩を終えて業務に戻ったのだが、時間差で沸々と怒りが沸いてくるのだった。
(なんですか。なんなんですか! 先輩のヤツめ!)
運んでいるのは、上司に言われて取りに行った資料だ。それを皺が寄りそうなほど抱きしめ、どすどすと廊下を突き進む。彼女が近づくと、鬼気迫る表情に慄いたギルド職員が慌てて左右に飛び退いていった。怒りに燃える本人はそのことに気付いていない。
脳裏を占めるはオレットの勝ち誇った顔。眠そうに半分瞼を閉じて、眦を下げたにやけ顔。実際にはそんな顔は一度もしていないのだが、これは想像上のオレットだから別にいいのだ。
一番腹が立つのは、彼の言うことも尤もだと思ってしまったこと。
『謎を解き明かしたいってのはお前の都合、好奇心だ』
誰だって、秘密の一つや二つ抱えているものだ。それを暴こうとする行為は、確かに褒められたものではないだろう。そんな当たり前のことをオレットに諭された。
(分かってる。先輩が言ってるのは正論だ。でも、あたしだってただの好奇心で動いたんじゃないもん)
感情が昂り、目に薄っすらと涙が滲む。
歳の割にしっかり者で、芯も強いため頼りにされがちなラビィ。
けれど、まだ十七歳の少女でもある。
そんな彼女が親に捨てられたのは、記憶に残らないほど小さい頃のことだった。
* * *
孤児院での生活は、あまり良いものとは言えなかった。お腹はいつも空いているし、同室の子たちは夜泣きが酷いし、年上からは虐められる。そんな毎日だった。
親の愛情が欲しくて泣くというのは、ラビィには理解できなかった。自分を捨てた人たちのために流す涙なんて水の無駄遣いだと、本気で思っていた。彼女のそういうところは、大人からすると手のかからない"いい子"となり、同じ境遇の子供たちからすると"人の気持ちの分からない悪魔"に見えたようだ。
ラビィはいつも悪者だった。よく殴られたし、数少ない持ち物を取られたり、大人に分からないよう食事の量を減らされたりといった嫌がらせも日常茶飯事。
唯一の救いは、年下の子供たちだけは慕ってくれたことだろう。幼い子の目にはラビィを虐める年長組はとても恐ろしいものに映っていたらしく、たった一人で堪え抜くラビィはヒーローだったようだ。それに、ラビィは年下に優しかった。だから好かれるのも当然だった。
一年、また一年と耐えるにつれて、孤児院の環境はラビィにとってそう悪いものではなくなっていった。相変わらず年上は敵意剥き出しだが、毎年数人ずつ減っていったからだ。
十五歳になると、孤児院を出て働かなければならない。それが孤児院のルールである。
ラビィも例に漏れず独り立ちする時がやってきた。
院長に聞かされるまではラビィも知らなかったが、出院した孤児は院長が紹介する職場で働かせてもらえるらしい。ラビィは読み書きが得意だったので、そこそこ大きな職場を紹介してもらえた。
働きさえすれば生きていける。一番怖いのは、どこでも雇ってもらえなくて犯罪に手を染めるしかなくなることだ。そう知っていたラビィは、これで一安心と胸を撫で下ろした。
――だが、それも束の間。
実際は下女のように扱われ、住み込みだと与えられた部屋は牢獄のように狭く、おまけに給料も安いという劣悪な環境。別に部屋が狭いのはいい。使用人みたいな扱いも、もしかしたら今だけかもしれない。だけど、安月給なのはいただけない。昼食を抜かなければ貯金もできない有り様なのだ。しかも、節約分は雀の涙。
これでは一生奴隷と同じだ。
ラビィはすぐに逃げ出す決意をした。ただ、紹介してくれた孤児院には一応育ててくれた恩がある。なのでしばらくは我慢することにして、半年後、一方的に退職願を叩きつけて職場を飛び出した。連れ戻されるかもと思ったが、何の接触もないところを見ると許されたのだろう。まあラビィより扱いやすい人間を雇った方があっちも楽だし、逃げる奴はいらないといったところか。ラビィにとっては幸いだった。
しかし、今度は何をして稼ぐかという問題が頭を悩ませた。地道に働き口を探すべきなのだろうが、見窄らしい身なりの子供を雇ってくれるところが真っ当である確率を考えると鬱だった。孤児だからっていいように利用されるのはゴメンだ。
――そうだ、冒険者になろう。
降って湧いた閃きをすぐさま実行に移したのは、相当に疲れていたか切羽詰まっていたのだろうと冷静な今なら判断できる。普通に考えて、何の訓練も受けていない十五歳の娘が安易に踏み込める世界ではないのだ。たぶん、当初の予定通り冒険者登録をしようとしても、受付の職員に断られただろう。
結果を言えば、ラビィは冒険者登録をしなかった。門戸を叩いたラビィを就職希望と勘違いしたシェリーが、そのまま面接手続きに入ってしまったからだ。
この勘違いが、人生最大の幸運となった。
しかし……。
(でも、ここはあたしに相応しい場所じゃないんじゃないかって、ずっと思ってた)
ここは、ラビィが育った孤児院とは何もかもが違っている。名前すら呼ばれず扱き使ってくれた前職場ともだ。
職員はみんな清潔で、泥や土のついた服を着ている人なんて一人もいない。宿舎の窓は隙間風など入ってこず、ベッドのシーツもボロボロじゃない。食堂で食べ物を取り合う光景なんて見たことがない。部下にお金をせびる上司もいない。
仕事は決して楽じゃなかった。最初はとにかく大量の知識を詰め込まれた。読み書きは得意な方だけれど、比較対象は同じ孤児院の子供たち。普段から一日に数千語、数万語を読み込む人からしたら幼児みたいなものだ。その上、掃除でも荷運びでもない頭を使う仕事はやったことがなく、脳が糖分を欲するという感覚を初めて経験した。分からないことも多くて、周りの先輩たちには多大な迷惑をかけてしまった。
それでも、みんな優しかった。失敗すれば叱責されたけど、怒鳴り散らすような怒り方じゃないことにびっくりした。次からは気をつけてね、で締め括られた時はあまりの衝撃で動けなくなった。彼らは、人を嘲ったり貶したりすることに時間を割かない。もしかしたら影で陰湿な嫌がらせが行われているのかも、などと疑う余地もないほどに風通しが良い。
今まで出会った大人とは違う。痩せこけて見窄らしい子供が新人として入ってきても、使用人扱いしない。他の人と同じように、対等に接してくれる。
それは嬉しいことのはずなのに……何故だろう。ラビィは、とても怖かった。
親などいらないと啖呵を切れる反抗心。年上に殴られてもへこたれない心の強さ。それこそがラビィの力の源だった。逆に言えば、常に敵意に晒されているからこそ、その力が発揮されていたとも言えるのだ。
今、周囲に敵はいない。みんな味方だ。その真ん中にぽつんと、ラビィだけが膝を抱えて座っている。
妙な胸のざわつき。心の痛みとも体の痛みとも違う、何らかの苦痛。
毎日、毎日、毎日。
毎日、毎日、毎日……。
自分でも理由の分からない不安に苛まれ、ラビィは次第に神経を擦り減らしていった。
そして、あの日。
冒険者ギルドに勤めて初めての給料日がやってきた。渡された明細を見た時、前職との差に足が震えて立てなくなった。文字通り桁が違う。よくよく考えると、冒険者ギルドの給料が特別高いわけではなく、前職が酷かったからなのだが……。この時はまるで貴族にでもなったような心地がした。
――これで色んな物が買える。
見栄えのする服に新しい靴。もう先輩から櫛を借りなくてもいいし、洗濯も業者に依頼できる。空いた時間で勉強をして、もっと役に立てるようになりたい。それに、食事の量も増やしたい。
欲求が山のように湧いた。
だけど一番キラキラと輝いていたのは、このお金で孤児院の弟妹に美味しいものを食べさせてあげたいという願いだ。昔、ラビィにも思い描いた夢があった。黄金色のお菓子が空から降ってくる夢だ。
さすがに降らせることはできないけど、甘いお菓子を買ってあげることはできる。そしたら子供たちも元気になるだろうとワクワクして、休日になると早速孤児院へ向かった。
その途中、最悪の展開が待ち受けているとも知らずに。
ラビィが育ったネレン地区は、北王都に位置する。しかし、新天地として選んだのは東王都。
そうしたのには理由がある。
かつてラビィを苛め抜いた奴らが北王都で冒険者をしているからだ。そんなところへ行くのは、自ら火の中に飛び込むようなもの。流石に被虐趣味は持ち合わせていない。
だけど、その日は完全に油断していた。
まさかの街角で鉢合わせ。
会いたくもない顔触れを見たラビィは思いっきり顔を歪めたが、彼らはそれ以上に驚いたことだろう。過去苛めていた少女が、それなりに整った身なりで目の前に表れたのだから。
得てして、あくどい人間ほど勘が鋭く働くものだ。
ラビィはひと気のない路地裏に連れ込まれて、抵抗したけれど、結局お金を全部奪われてしまった。
あの道を通らなければよかった。
あいつらの顔を見てすぐ逃げればよかった。
もっと早くお金をお菓子に変えていればよかった。
後悔しても、後の祭り。
よろよろと宿舎に戻って、ラビィは自分のベッドで泣き臥せた。人生で一番涙を流した日だった。
お金を取られたことよりも、奴らに負けたことが悔しい。どうして自分はこんなに弱いんだろうと、ひたすら枕を叩いた。
だけど、結局はどうすることもできない。
ラビィはまた働いた。誰にも相談できなかった。そもそも、誰かに相談するという発想がなかった。今までも、辛い時はいつだって一人だったから。
ある日の休憩時間。
小さなパンを紅茶で胃に流し込んでしまったら、後は椅子に凭れてぼうっとしていた。
何を考えるでもなく。何をするでもなく。
満たすものの何もない、空虚な時間。
お金を奪われてからというもの、ラビィはこういった時間を過ごすことが多くなっていた。
ふと気付けば、部屋の中には誰もいない。
いつの間にか、自分一人になっていた。
確か、もう一人いたように思うが……。
同僚が出ていったことにも気付かないくらい、注意力が散漫になっているようだ。
こんな有り様じゃ、仕事にも遅からず影響が出るだろう。
気を引き締めなきゃと自らに言い聞かせ、立ち上がろうとした。その時だった。
机の上の皿に目が留まった。
毎日同じ場所に置かれている、お菓子の皿だ。クッキーの日もあれば、カップケーキや四角く切られたパウンドケーキが並べられている日もある。気になってはいたけど、未だに手を付けたことがない。だって、怪しいから。美味しい話には罠がある。それは世間の常識だ。
お菓子を見ると、弟妹に食べさせてあげられなかった苦い記憶が蘇る。
ツンと痛みが胸に走り、ラビィは菓子の皿から目を逸らそうとした。
しかし、皿の下に差し込まれた紙切れが彼女の気を引いた。
こんな紙切れ、いつもあっただろうか?
何か文字が書かれているようだ。
不思議に思って、彼女は手を伸ばした。
その紙には――
『疲れた時に食べてください。甘いので』
筆跡を誤魔化すためか、定規で引いたようにカクカクした文字。
(……脅迫文?)
そう思ってしまうのも無理はない。
正直不審しかなかったが、「甘い」という一語に心が惹かれ、恐る恐る菓子を手に取ってみた。
貝殻のような形をした黄金色の焼き菓子。なんていう名前なのか知らないけれど、見た目は可愛い。
何度かひっくり返して確かめたのち、思い切ってぱくりと口に含む。
その瞬間。
「…………!」
しっとりとした甘さが口内に広がる。濃厚なバターと卵の優しい味わい。ふんわりと香る匂いは一体なんだろう。甘いだけじゃなくて、温かみを感じるミルキーな香り。
うっとりするほどの夢見心地だった。まるで天に昇ったかのような――。
ラビィは理解した。
警戒など必要なかった。そこに罠など何もなかった。
あったのは"誰か"の優しさだ。ラビィだけじゃなく、疲れている全ての人に向けた優しさなのだろうけど、そんなのはどうでもいい。
メモを残してくれた"誰か"。
彼か、彼女か。
分からないけれど。
ふんわりとした残り香が、"誰か"とラビィを繋げているような気がした。
それは、お菓子よりも甘やかな幸福だった。
(あたしは……ここにいて、いいんだ)
今さら気が付いた。
ずっと孤独を感じていたのだと。慣れない環境についていこうと必死になりながら、自ら周りに壁を作っていた。すぐ傍には、こんなに優しい人がいたのに。
無意識に強張っていた体が解れ、ラビィは感じるがままに涙を溢した。
理不尽な暴力と共に、ピンと張り詰めていた糸が切れたあの日。その糸が、もう一度するすると結ばれていく。今度は張らずに、しなやかな結び目を作って。
――ありがとう。もう大丈夫。
優しさをくれた名前も知らない"誰か"へ、感謝を告げる。
今は心の中で呟くしかできないけど、いつか面と向かってありがとうと言いたい。
ラビィの胸に、小さな目標が生まれた瞬間だった。
* * *
誰かが残してくれたメッセージとお菓子のおかげで、ラビィは元の明るさを取り戻した。彼女の元気がないことは周囲の人たちも心配していたようで、みんな復活を喜んでくれた。職場が合わないと感じているのかもしれないと、仕事の量や声掛けの仕方などラビィの知らないところで気を遣っていたらしい。
――みんなが優しいことも忘れていた。
下ばかり向いていると大事なことも見逃してしまうのだと、ラビィは自らを戒めたのだった。
ちなみに、ラビィから現金を強奪した冒険者はギルドを通して告発し、無事復讐完了している。彼らは冒険者ギルドを除名処分にされた上、牢獄で罪を償っているはずだ。
あれからというもの、休憩時には皿の下をチェックするのが習慣になった。カクカクの文字で書かれた置き手紙があったら、真っ先に目を通せるように。
しかしラビィの期待に反して、もう二度とあの文字を目にすることはなかった。
知りたい。置き手紙の主は誰なのか。文面からして、お菓子を用意している人物と同一だろう。だったら、休憩室に入っていく人を見張ればいい。お菓子を補充している場面を直接目で確かめればいいのだ。
そう思ったものの、対象が多すぎるし、いつでも張っていられるわけでもない。それに始めたばかりのギルドの仕事を疎かにしたくなくて、手紙の主探しは後回しになっていった。
そうこうしている内に一年が経ったけれども、なんとしてでも直接感謝を伝えたいという気持ちに変わりはない。
ただ、好奇心が全くないかと問われれば、ないと言い切れる自信もない。
オレットの言い分を完全に否定できないのだ。
「あーーっ!」
資料を抱えて上司の部屋へ向かう途中、丁度通りかかった部屋から絶望したような悲鳴が聞こえてきた。
思わず足を止めて部屋を覗くと、一人の職員が束になった書類を焦った様子で捲りまくっている。なんとなく悪寒のする光景だ。
「やばい、鍛冶ギルドのサイン貰うの忘れた……! 今日中に提出しなきゃいけないのにーっ」
「あーあ。やっちまったな。今から急いで行ってこいよ。遅れそうになったら俺が副長に説明しとくからさ」
「わああありがとう! 助かるーっ」
職員は涙目で同僚に手を合わせると、急いで鞄を引っ掴み部屋を飛び出した。ラビィはぶつからないよう、咄嗟に後ろへ下がった。案の定鞄の蓋が鼻先を掠めたが、風を切るようなスピードで駆けていく職員はラビィの存在にすら気付かなかった。
(左右の確認くらいしてよ、もー)
焦る気持ちは分かるが、そういう時こそ冷静になるべきだ。目先のことしか見ていないと、思わぬ方向から飛び蹴りを食らう羽目になるんだから。特に安全なんてものは、最悪命と引き換えになりかねないのだから、絶対に気をつけなきゃダメだ。
「大丈夫だろうって思った時に限って、重傷級の罠にかかるんだよね。下手すると死……ん?」
頭の片隅に何かが引っ掛かり、ラビィは首を傾げる。
(安全――命と引き換え――下手すると死ぬ?)
どこかで聞いた組み合わせだ。いや、聞いたことがあるからこそ口を衝いて出たんじゃないか?
そう、あれは確か――。
(あー、思い出した。ライオットさんのパーティが生焼けのお肉を食べて集団食中毒になった時だ)
あの時は大変だったなぁ、と遠い目で思いを馳せる。森の中での発生だったため誰も気付くことができず、パーティの一人が這う這うの体で近隣の村に助けを求めるまで一時行方不明扱いとなったのだ。幸い誰一人命に別状はなかったが、ラビィたちギルド職員も救援に向かった冒険者たちも、王都の近くに凶悪な魔獣が出たのではないかと気が気じゃなかった。真実が分かった時はみんな魂が抜けたものだ。
ギルド全員上から下まで崩折れる中、一人ケロリとしていたオレットが放った台詞――
『無事で良かったっすよ。下手すると死にますからねぇ、食中毒って。ま、良い教訓になったんじゃないすか? 野営がある以上、食も冒険の一部。戦闘と同じように、食の安全にも気を遣ってほしいっすね。そこ疎かにして命と引き換えなんてことになったら、目も当てられません』
そうだそうだ、そんなことを言っていた。間違いない。先輩にしては真面目なこと言うじゃないかと感心した覚えがある。
思い出せてスッキリしたラビィは、止まっていた足を再び動かした。飛び出していった人がいた部屋は、まだ忙しそうにざわついている。
(さっきの人も大変だな。鍛冶ギルドって北王都でしょ。帰って来るの、七時越えるんじゃない。サイン忘れかぁ)
地味だが痛いミスだ。〈伝信箱〉でやり取り出来ても、サインは直接貰わなければならない。ラビィには関係のない話ではあるが、他所様が関わったトラブルというだけで身の毛がよだつ。無事の収束を願うばかりだ。
「……ん? サイン?」
その時、ラビィの脳内でぱっと光が閃いた。
今まで全く見向きもしていなかった方向に、探していた糸口がひょっこりと顔を出している。
ラビィは廊下のど真ん中にいることも忘れて立ち尽くした。
どうして思いつかなかったんだろう。正体を隠している人の影を踏もうとして、躍起になっていた。だが、そっちは遠回りでしかない。正しい道を探すなら、光のある場所を目指すべきだったのだ。
「もしかしたらあの人が知ってるかも!」
ラビィの瞳に希望の光が灯った。




