プロローグ・鉄格子の向こう側
目が覚めるとそこは暗い箱の中だった。
ぎしりと音を立てて扉が開かれ、光が差し込む。いつぶりかの光に目が慣れない。
少しして目を開くと、そこにいたのは1人の男だった。男は柔らかい笑みを浮かべて、しかし真剣な様子でこちらに近づいてくる。
そしてキスシーンでも始まるのかという距離に顔を近づけてくる。
「君に選んで欲しいのだが」
男は少し間をおいて言う。
「殺しをやるか、ここで死ぬか。選んでくれないか」
真剣そうな顔で、少し苦しそうな顔をする。
いきなりの問いに一瞬思考が止まる。が、考えるまでもないことだった。自分が死ぬくらいなら他人を殺す。それだけだ。
そう答えると男は悲しげにそうか、とだけ言って俺の腕を拘束する鎖を外す。
「仕事をやろう」
そういうと俺の腕を優しく掴み、引っ張っていく。
そうして着いたのは牢屋だった。
鉄格子の向こう側には息をあげている男がいた。
「こいつを、これで刺せ」
そう言って俺の手にナイフを握らせてくる。これで、こいつを刺す。それだけか、と思う。
その鉄格子の扉を開けて、刺さる距離に近づいていく。
「や、やめてくれ。頼む。俺には妻も子供もいるんだ」
どこかで聞いたことのあるような、よくあるセリフだった。
そんな命乞いで俺の歩みを止めることはできない。
「俺が働かないと。あいつらには金がないんだ。俺が稼がないと」
足が止まる。金か。
俺の父親は金を稼ぐために俺を使ったが、こいつは子供のために自分を犠牲にできる、いい父親なんだろうな、と想像する。
また一歩足を進める。
「頼む。せめて、俺の、臓器とか。それで金を、頼む」
なんだか、少し足が重い気がする。それでも足を進める。
ついにそのときがきた。ナイフの刃を向けて、壁に追い詰めた。逃すことはないだろう。そこでナイフを構え、突き出した。
「頼む…」
それを最後に男は倒れた。
「どうだった?」
背後から声がする。咄嗟にナイフを構えるが、そこにいたのは俺を解放した男だった。
なんとも、と答えると、男の顔が曇った。
「そうか。まだ仕事はある。ついてこい」
そう言って、男はまた俺を引っ張っていく。
そうしてついた場所はとあるビルの一室だった。
いかにも家賃の高そうな部屋で、内装も豪華なことから、裕福な人間が住んでいるのだと想像できた。
「ターゲットを探して仕留めろ」
そう言って男は立ち去る。俺のいる場所は玄関だが、まだ気づかれていない。なら、寝室か風呂場ではないだろうか。
だが、部屋の位置がわからないことに気づき、しらみつぶしに探すしかないと悟った。
直感的に一つの扉を選び、慎重に開けていく。
その扉の隙間からベッドを確認できた。それも大きなサイズ。少なくとも2人は並んで寝ることができるだろう。
扉を開け切って、部屋に侵入する。
ベッドを覗くとそこには2人、男と女が寝ていた。
何をしていたのか、服を脱いでいた。全裸で過ごすという人もいると聞いたことがある。きっと2人はそういうタイプの人間なのだろう。そう納得した。
ここでふと考えた。ターゲット、とはどちらだろうか。
閃いた。どちらか1人を殺す、というのは中々にひどい所業ではないか。そして、殺すのは1人、と言われていない。なら、2人ともだ。
1人で死ぬよりマシだろう。そう考えて懐のナイフを握り、刺した。
金がありすぎるのも困り物かもしれない。
その後、死体の処理に困っていたとき、終わったようだな、と言って男は現れた。
「どうだった?」
男は先程と同じ問いを口にする。俺の答えは変わらず、なんともなかった。
そう答えると男はまた顔を曇らせた。
「聞きたいことがあるのだが」
そう前置きを言って、新たな問いをする。
「何故、2人殺した?」
そう問われる。
その問いに少し悩むが、素直にあのとき思ったことを言うことにした。
「1人だけ殺すのは可哀想、か。変なところで優しいな」
と、少し戸惑っていたが、想定内の答えのようだった。
「どうやら、完全に道徳を失った訳ではないようだな」
そう呟いていた。
「とりあえず、今日の仕事は終わりだ。次まで休んでいろ」
そう言われても、俺には家がない。そう文句を垂れる。
「…そう、だったな。仕方ない。うちに泊まれ」
俺はまた腕を掴まれ、引っ張られて、家に連れて行かれた。
そういえば、と、俺は男に名前を聞いた。さすがに一緒に暮らすにも不便だ、と。
「名前か、そうだな…」
男は悩んだ末に、こう言った。
「とりあえず、イコ。そう呼んでくれ」
わかった、とだけ言った。俺は引きずられていった。
「とりあえず、風呂にでも入ってこい。服はカゴに入れておけ」
家に入って開口一番にそう言われた。指示に従い、その通りにして風呂に入った。
浴槽に入る。肩までしっかり浸かっている。
今日の出来事は衝撃的だった。これからはあれが日常になるのだろうか。生きるためなら仕方ない、これは仕事だ。金だって手に入るんだ。
そのためなら、なんだって。
と、そんなことを考えているときだった。
「飯ができた。そろそろのぼせるぞ」
そう言われて、風呂を上がり、リビングに向かう。
そこのテーブルにはカレーライスが置かれていた。席に座り、彼の準備が終わるのを待つ。
「待っていたのか」
そう彼は言った。待たなくてよかったらしい。
「それじゃあ、いただきます」
と彼は言って、カレーライスにスプーンを突き刺す。続いて俺もスプーンを構える。
「待て、いただきますは言えたほうが良い。そういうのを気にする人も多い」
注意されて、まだ自分はいただきますを言っていないことに気づいた。
いただきますと言って食事を再開する。無言で食べるそのカレーライスはどこか、昔食べたことのあるような、そんな味がした。
起きろ、朝だ。そんな声と共に目覚めた。彼はエプロンを着けたまま、俺を起こしに来ていた。
その姿はどこか懐かしくて、そうだ、母さんだ。母さんに似ていた。
「どうした?泣いているようだが、悪い夢でも見たか?」
たった1日で理解した。彼は、イコは優しい人間だと。それこそ、母親と似ている。
これは、良い夢だ。
「なんでもない。朝ご飯にしよう。イコ」