第5話
どうやって部屋まで帰ったか覚えていない。そして、どんなに辛くて悲しくても、朝は訪れるものだった。
彼女にどんな顔で会えばいいか分からなかった。いっそ、サボってしまいたかった。
しかし、俺がこの城にいられるのは、仕事をしているからだ。だから俺は、ひどく憂鬱な気持ちを引きずったまま、なんとか彼女の朝食を作った。
そんな俺とは違い、彼女は普段と同じ顔で厨房にやってきた。少し俺の様子を伺うような姿もあったが、通常運転のクールさだった。彼女がいつもどおりだから、俺もいつもどおりに接することにした。
彼女と俺は、表面上今までどおりの生活をしていた。内心城を追い出されるのでは、とびくびくしていたが、彼女がそんなことを言い出すようなことはなかった。
彼女は、まるであの日なにも聞かなかったように振る舞う。だから俺も、まるでなにもなかったかのように仕事をした。
彼女を見ると、俺の心はじくじくと痛んだ。それにも気付かないふりをした。しばらくすると、その痛みにもだんだん慣れた。
1年が経ったころ、バルドゥルさんが城を訪れた。そして俺に、軽率なことを言ってすまなかったと謝った。
彼女に、料理人を調子に乗らせるな、とでも言われたのかもしれない。
俺は、もうふっきれたから大丈夫だ、と嘘をついた。バルドゥルさんは少し悲しそうに、そうか、と笑った。
バルドゥルさんは、それからよく城を訪れるようになった。南の帝国は相変わらず他国に戦争を仕掛けていたが、落ち着くタイミングもあるようだ。1年に数回来たと思ったら、連絡もなく5年くらい間が空くこともあった。
彼は冬の魔女の生存確認だと言いながら、いつも俺の料理をたらふく食べて帰っていった。
「随分とお前を気に入ってるようだな。引き抜かれないようにしろよ」
俺の気持ちも知らずに、彼女はそう言った。なんて残酷な人なんだろう。
◇
たくさんの年月が過ぎた。ちょうど、人間の一生分ぐらいだ。
私は、狩りができなくなった。山で足を滑らせて、怪我をしてしまったのだ。
次に、畑仕事ができなくなった。体が弱って寝込むことも増え、せっかくの畑を維持できなくなってしまったのだ。
でも、料理だけはなんとかしていた。私にはそれしかなかったからだ。彼女のためにおいしい料理が作りたかった。この城に残る理由が欲しかった。
それすらも、できなくなった。手元が震えて、怪我が増えたからだ。
料理だけは手放したくないという私の気持ちを見抜いて、優しい彼女は、料理を教える仕事をしろと命令した。
そうして、私は体調の良いときに、厨房の椅子に座って彼女に料理を教えることになった。魔法を使えばいいのに、彼女は律儀に自らの手で料理を作った。
彼女が、私の話を聞きながら、微妙な顔をすることが増えた。微妙とは言っても、少し眉尻が下がるくらいのものだけれど。まあ、だてに彼女の顔ばかり見てきていない。
「また、同じ話をしていましたか」
「……いや、私が聞きたがったからだ」
彼女の優しさに、いつも私は泣きたくなった。
私は、ベッドに寝ていた。ベッドの横にある椅子に、彼女が座っている。
彼女の銀髪が、光り輝いている。雪の妖精にも、氷の女神にも思える。この世のものとは思えない美しさ。
彼女はあのころと少しも変わらないのに、どうして私だけが老いてしまったのだろう。
「お役に立てず、申し訳ありません」
「大丈夫だ。数日もすれば、また元気になる」
「狩りもできなくなりました」
「お前が、好き嫌いせずに野菜も食えと言ったんだろう。肉は控えることにしたんだ」
「畑仕事もできなくなりました」
「……野菜は嫌いだから、いいんだ」
「料理もできなくなりました」
「大丈夫だ。何十年もお前に作ってもらったからな、今度は私が作る番だ」
「魔女様」
「リヒト、大丈夫だ。全部私がやってやるからな。お前はただそこにいてくれれば、それでいいんだ。
何がしてほしい、なんでもいってくれ」
「ふふ。では、最後に一つだけ」
「最後、なわけないだろう」
「魔女様。……あの世からも、あなたを想う私を、どうかお許しください」
「リヒ、ト、」
すぐそこに、永遠の眠りが私を待っているのがよく分かった。目を閉じれば、もう開かなくなることもよく分かっていた。
彼女のポーカーフェイスでない顔なんて珍しいから、よく見ておかなくては。だから、なんとか涙は我慢していた。ああ、彼女は、今日も美しい。
そして、私は目を閉じた。
遠くで、誰かが泣いているのが聞こえる。誰だろう。今すぐ駆け寄って抱き締めたいのに、体が動かない。
私の魂は、白い世界に浮いていた。ひどく冷たい。しばらくすると、それが雪であると分かった。その冷たさが、懐かしかった。
そのとき。強い風が吹いた気がした。細かい雪が巻き上げられるのと同時に、私の魂も高く高く昇ってゆく。
そして魂は、雪と一つになった。
「!!」
私は目を開けた。ベッドの上だ。『私』だった体の中にいる。
だがおかしかった。明らかに、体が元気になっていた。それこそ、ジャンプすれば魔法のように空も飛べそうなほど――
ベッドの横の椅子に、エルヴィーラが座っていた。『私』の知らない彼女の名前が、私には分かった。彼女の美しい銀髪が、俯く彼女の顔を隠していた。
彼女は、泣いていた。ひどく泣いていた。
「リヒト、すまない……。私は、お前に合わせる顔がない……」
「エルヴィーラ様」
「こんなこと、許されない。お前を、私の永遠のような一生に付き合わせることなどっ……。
お前が大切だったら、死なせてやるべきだったんだ!
でもできなかった。お前に置いて行かれるなんて、どうしても耐えられなかったんだ。
リヒト、お前を愛してしまった私を……一生恨んでいいから、どうか」
「エルヴィーラ様」
私は彼女の肩に触れた。『私』の一生の中で、彼女に触れるのはこれが初めてだと気付く。
彼女は、そっと顔を上げた。泣きはらした目は赤く充血し、頬にたくさんの涙の跡があった。酷い顔だった。
そんな酷い顔も、美しいとは何事だ。
「私を使い魔にしたんですね」
私の言葉に彼女がびくりと肩を震わせた。彼女は怯えている。私に拒絶されるのを恐れているのが、よく分かった。
私は、ベッドから身を乗り出して、彼女を抱き締めた。そうしてみると、彼女は幼子のように小さく感じた。
彼女からいい香りがする、きっと雪の匂いだ。
「エルヴィーラ様」
「ああ」
「あなたのことを、ずっと愛しています。
どうかあなたが死ぬまで、ずっと私をお傍に置いてください」
私が体を離して、彼女を覗き込むと、彼女は顔を赤く染めていた。ああ、こんないじらしい彼女を見れる日がくるなんて。
そしてまた、彼女をきつく抱き締めた。
◇
「それで、一つ不満があるのですが」
ギクリ、とエルヴィーラ。
「どうして老人になるまでに決心してくださらなかったのですか。
これでは、エルヴィーラ様に釣り合いません」
「なぜだ。私は、子どものお前も老いたお前も好ましいぞ」
「う……」
「くくっ。あと数日も経てば、魂が馴染むだろう。そうしたら好きな姿に変身できる」
「!! 数日か……。エルヴィーラ様、覚悟していてくださいよ」
「む。何か嫌な予感がするな」