38.薔薇の約束とオーウェン。
その後、パレードを眺め、食事もしたような気がします。
オーウェンはいつもよりもずっと優しかったし、とても楽しかったのだ……と思います。
推測でしか言えないのが悔しいのですが、記憶が薄ぼんやりとしてはっきりとは覚えていません。
想像以上にダメージを受けてしまったようです。
この衝撃は困ったことに、なかなか抜けてくれませんでした。
休暇が終わり、仕事に戻っても、ちょっと気力が湧かないというか。
前よりも仕事に対して意欲が下がってしまいました。いけないとは思うのですが。
プロ侍女を目指していたのに、最近の仕事のモチベーションが恋だっただなんて、自分自身でも驚いています。
人生7回目ですけど、人としてはまだまだだったようです。
というか、こういう時ってどうやって気持ちを切り離したらいいのでしょう。
過去の人生ではどうやって乗り越えてきたのでしょう。
「ダイナ。聞いてるの?」
イーディス様が私の肩を軽くさすりました。
私は我にかえり、仕事中であることを思い出しました。
待ち時間に小説を読んでいる最中にイーディス様に本のタイトルを尋ねられたのです。それなのに夢想してしまっていました。
ほんっとだめですね。
「あぁ申し訳ございません。ぼんやりとしておりました。題名は『薔薇の約束』です。20年くらい前に出版された本ですけれど、とても面白い恋愛小説です。よろしければどうぞ」
私は本を差し出すと、イーディス様は興味なさ気にパラパラとめくりました。
「『薔薇の約束』ね……。一昔前のベストセラーね。有名な本じゃない。ダイナはラブロマンスも読むのね」
「ええ。ロマンス小説は気楽に読めるので好きです」
「私の書庫にもたくさんあるわよ。読んでもいいわよ」
「ありがとうございます」
本代も馬鹿にならないので嬉しい限りです。
イーディス様は召使いにも気を遣ってくださるので、侍女冥利に尽きるというものです。
「ねぇダイナ。あなた休暇から戻ってきてからおかしいわ。何かあったのでしょう」
探るようにイーディス様がおっしゃいます。
「……申し上げることはできかねます。お許しくださいませ」
私は何も言えず(失恋したかもってことを主人に言えるわけないです)、ただ非礼を詫びることしかできませんでした。
イーディス様は肩をすくめ、
「ライトがカイル殿下の侍従を辞めたのがショックだった?」
ここでオーウェンの名前がなぜ出るのでしょう??
「え。ご……ご存知なのですか?」
「あら。ダイナはどうして私が知らないって思うのかしら? 以前、カイル様のことは全部知りたいって言ったわよね。ライトとのことも耳に入ってるわ、当然ね」
なんということでしょう。
全てお見通しというわけのようです。
イーディス様のカイル殿下への愛情ゆえの粘着を失念していました。
カイル殿下に関わること――それが召使いたちの動向であっても、イーディス様にとって把握されるべき範疇なのでしょう。
さすがイーディス様。私の主人です。
でもどこまで知られているのでしょう。
もしかしてあのデートとかも監視されていたとか?
オーウェンの言葉の一つ一つも報告されているとか?
だとしたら恐るべし、イーディス様。
最高の主人ですけれど。怖すぎます……。
「ライトはヒューズ侯爵家の出だと言っても生い立ちが複雑だから、ずっと侍従でいることはできなかったの。いずれこうなるのは最初から分かっていたことよ。辞めてしまったからといって、気にすることはないわ」
「オーウェンの出自……。イーディス様はご存知なのですか?」
「あら、ダイナは知らないのね。とても有名なゴシップなのに」
でも知らなくてもいいことだわ、とイーディス様はため息をつきながら『薔薇の約束』を閉じました。
有名なゴシップ。
私だけ知らない、ということなのでしょうか。
田舎の貧乏な男爵家で暮らしていたが故に、首都の流れから取り残され、知るべき情報を知らないのは忸怩たる思いがします。
「イーディス様。私は確かにオーウェン・ライトのことを慕っております。ですが、イーディス様のおっしゃる出来事は存じません。お教えいただけないでしょうか」
「スキャンダルとかゴシップとか、知らないほうが良いことも多々あるものよ。ライトが好きなら、周りのことなどどうでもいいでしょうに。彼の言葉だけ信じていればいいのではなくて? ねぇダイナ」
「左様でございますが……」
周知の事実を知らないというのは居心地が悪すぎます。
しかも自分が好きな人のことなのに。
「ですが知りたいのです。イーディス様がカイル殿下をお想いになられているように、私も……。お願いいたします」
「……面白い話ではないのよ。本人から聞いた方がよくなくて?」
「構いません」と私は拳をそっと握りしめました。
オーウェンとはいつ会えるのかも、話してくれるかも分からないのです。
何でもいいのです。オーウェンのことは知っておきたいのです。
「仕方ないわね。ちょうどダイナも『薔薇の約束』を読んでいることだし、いずれ知ることになるでしょうしね。いい機会かもしれないわ」
イーディス様は私の手の内にある古ぼけた本を指さしました。
「その話、現実に起こった事件を元に書かれているというのは知ってる?」
「ええ。本屋の店主から聞きました」
「当時は大変な騒ぎになったのよ。だって騒ぎの元は、建国の英雄を祖にもつヒューズ侯爵家だったのだから。ここまでいえばわかるでしょう?」
『薔薇の約束』はヒロインとヒーローの身分差恋物語。悲恋で終わります。
政略的結婚で愛のない生活をおくっていたヒーローが、偶然出会った庶民のヒロインと恋に落ち、真実の愛に目覚める。
でも二人は許されざる関係。結果、駆け落ちの末に引き裂かれてしまう。
20数年前、ということは。
もしかしてオーウェンの両親は……。




