もふもふ令嬢と婚約破棄
吹雪になりそうだった。
何やらもふもふした生き物と悪漢たちが相対していた。
「おとなしく来てもらおうか」
悪漢の首領らしき人物がそういった。相対するもふもふした生き物――毛皮の外套に身を包むのはこの気候であるので当たり前ではあるが、外側も内貼りも頭をすっぽり覆ったフードの縁も手袋もブーツも何もかも毛皮なのは少々やりすぎに思えた。主に見た目が――それはつまりもふもふした格好をした人物であったが、答えた。
「お断りいたしますわ」
鈴のような声だった。清楚で耳に心地良い。それでいて消え入りそうだというわけではなく、はっきりと届いた。
「それなら少しばかり痛い目見てもらうしかなさそうだな」
残念そうに悪漢の首領は言ったが、その癖非常に愉しそうな表情をしていた。実際愉しみだったのだ、うら若い女性の悲鳴を聞くのは愉しみなものだ。それが滅多に会えるものではない令嬢であればなおのこと。さらに護衛らしき影も見えないとなれば舌なめずりして当然と言えた。
「痛い目、ですの?」
不思議そうに令嬢は、言った。もふもふして直には見えないが、きょとんと眼を瞬いたのがはっきり分かるようだった。
さらに首をかしげて彼女は言った。
「それは‥‥貴男方のほうではなくて?」
次の瞬間、真っ白い爆発が起こった。
事の起こりは数日前だ。
フォウンテン子爵領領主の館にて、フォウンテン子爵は娘の告白を受けた。
「お父様、困ったことが発覚いたしましたわ」
娘は15歳。見目は麗しいというよりは可愛らしい。とぼけたところはあるが概ね非の打ちどころのない令嬢である。隣領のエインズ子爵令息への輿入りが決まっており、最近は教育の合間を縫って輿入りの準備をしているはずであった。
困ったこと、というものにまったく心当たりのないフォウンテン子爵は、執務机の書類から顔を上げ、娘と同じ鳶色の瞳を瞬かせた。
「困ったこと、とは?何があったんだいエレーネ」
「わたくしこのままでは重婚になってしまいますの」
フォウンテン子爵は固まった。倒しそうになったインク壺を一旦手の近くから除けて、ゆっくりと娘に尋ねた。
「‥‥それはどういう意味だい‥‥?」
娘は心底困ったように答えた。それまで気づかなかったが、その手には一枚の紙を持っていた。どうやら正式な書類のようであるが。
「お隣の‥‥反対隣のギー子爵領に、お墓参りしなければなりませんわ」
「‥‥どういうことなんだい?」
「これをご覧あそばせ」
フォウンテン子爵は娘からその紙を受け取り衝撃を受けた。
「‥‥これは」
「婚約締結書、ですの」
それは文字通りのものだった。
フォウンテン子爵は慌てて手元の書類に魔力を通した。正式に締結されたものである証に、左上の魔力印が淡く輝いた。
そうしながら書面を改めたフォウンテン子爵は、しかし怒りよりも困惑を露わにした。
「これは‥‥正式な書類ではあるが‥‥お相手は‥‥それにこの署名は‥‥」
父そっくりに眉根を寄せた娘は、軽く頷いて答えた。
「わたくしもすっかり忘れていたのですけど、それは、友情の証、ですわ」
「友情の?」
婚約締結書であるが。
「子どもの頃‥‥恐らくクリストファー様との婚約が結ばれる前後でしたと思いますが、ギー子爵様がご一家で逗留されたことがおありだったでしょう?その時に、子爵令嬢のコロガリーヌ様と‥‥」
「‥‥書式は?‥‥予備か‥‥」
「えぇ。クリストファー様とのそれが恙なく結ばれたものですから、その後確認されなかったのではないでしょうか。お兄様も当然婚約はお済でしたし」
「魔力は‥‥足りたのだろうな、お前もフォウンテン子爵家であるし、しかし5歳でか‥‥」
フォウンテン子爵家の名の由来は、『魔力の湧き出づる泉』と言われている。それほど魔力量が多いのだ。魔力量だけとも言えるが。
正式な魔術契約には少なくない量の魔力が必要とされるが、魔力量の多いフォウンテン子爵家の娘であったこと。お互いの気持ちが純粋な愛であったこと、友愛ではあるが。また木炭であり子ども特有の読みにくい字ではあるが正式な署名ができてしまったこと。予備とはいえ本物の書類であったこと。これらにより、幼い娘たちの「ずっと一緒にいようね」との約束が結ばれてしまっていたのだ。
「だがギー子爵令嬢は‥‥
あぁ、それで墓参りなのだね」
ギー子爵令嬢は8年前に流行り病で亡くなっている。
「そうなんですの。
これは正式な書類ですから、お互いの同意がないと破棄できませんわ。婚姻ではなく婚約ですから正確には重婚には当たらないのでしょうけど、正式に婚姻を結ぶにあたってはそれと違う婚約は無効にしておくのが常識ですし‥‥と言ってコロガリーヌ様はすでにお亡くなりでしょう?
強引に破棄もできますが、せめて墓前にて行いたいと思いますの、『ずっとおともだちよ』とお約束したのですもの、お友達であることは変わらないのですわとお伝えしたいのです」
ちなみに普通は強引には破棄できない。締結された時を大幅に上回る魔力を一気に通すことで書類を無効にするのであるが、正式書類に必要とされる魔力量は普通の貴族が一度に流すことのできるそれとほぼ同等であるためである。フォウンテン子爵家は普通の貴族ではない。
「ですのでお父様。この時期ではありますが、わたくしギー子爵家にお参りしなければならないのです」
フォウンテン子爵は娘の懇願に負けた。
それから準備を整えて、それは主に防寒と護衛について手配し、先触れの手紙をギー子爵家に送り、いざフォウンテン子爵家を出立したエレーネ・フォウンテンであったが、その彼女が何故一人で悪漢たちと相対していたのかといえば――
「‥‥わたくしまた迷子ですのね‥‥」
はぐれたのである。
王都から遠いフォウンテン子爵領である。両隣の子爵領含め、近隣の領はいずれも広大で、言ってしまえば田舎なのであった。
田舎であるので乗馬は必須項目であるから、エレーネも令嬢だてらに上手く手綱を取る方だが、いかんせん彼女には方向感覚がなかった。選りすぐりの護衛3名とはぐれて、雪の林道をしょんぼりと歩かせているうち、いつの間にか森の中に入っていたのだった。そしてそのあたりを根城とする野盗の一群と出会ってしまったのである。
魔力にあかせて野盗たちを気絶させたあと、とりあえず逃げ出したのだが、これがまたまずかった。さらに森の奥に入り込んでしまったようで、エレーネは途方に暮れていた。
そもそも逃げ出す必要はなかったのである。野盗は気絶したのだし、そこに首魁はいたのだし、大爆発だったのだから護衛は駆けつけてきたはずで、そうすれば合流できたのである。魔力量だけで魔力操作は得意でなく、また実践経験もないため陥った窮地であった。
遠い目でとぼとぼと馬を歩かせ――いい加減歩みを止めるべきであるがその判断もできていない――エレーネは小さな泉を見つけた。
「まぁ‥‥こんなところが」
ようやく馬を降りたエレーネは、これまで走ってくれた相棒を労わるために泉に歩を進めた。小動物が走り去った音を聞いたので、安全な水であろうと判断し、馬を放す。よく鍛えられた馬であるから、基本的に乗り手を置いていくことはない。水を飲み草を食み始めたのを確認し、エレーネは自身も身体を休めることにした。
お誂え向けに、泉のほとりは乾いた倒木があった。
下側は湿っているようできのこなど生えていたが、動かさなければ虫も出てこないだろうと判断し、エレーネは懐から手巾を出してその上に腰を下ろした。
同時に手に触れたのは件の婚約締結書である。
「‥‥」
エレーネは書類を検めた。
子ども特有の歪んだ署名。木炭で書かれているため、経年によりかすれている。夕刻に近付いているのか森が茂っているためか、薄暗い。
エレーネは魔力を通してみた。何度となく試したことであるが、やはり輝く。哀しいような、情けないような気持ちでため息をつき、エレーネはそこに書かれている友の名を呟いた。
「‥‥コロ‥‥」
目をつぶり、コロ、エレ、と呼び合っていたころのことを思い出す。
「ずっとともだちよ」
と彼女は言った。
「ずっといっしょよ」
と私は答えた。
「こういうときはね、けいやくをかわすのよ」
「エレ、よくしっているのね」
「このくらいじょうしきよ。このまえクリスさまともやったもの」
私は胸を張った。
「ずっとともだちよ」
それは幼い約束で。
「ずっといっしょよ」
それ故純粋な。
「‥‥なにごとですの‥‥」
小さなつぶやきが聞こえて、エレーネは目を見開いた。
思い出していた幼い声に似ていたが、それは確かな実感を伴ってた。
「‥‥コロ?」
「なんですのそのいぬみたいなよびかた」
そこにいたのは、可愛らしい幼女であった。
ちょうど記憶の中のコロガリーヌ・ギーと同じくらいかそれよりも幼いであろうか、見事な金髪の、しかし仕立ての荒い服を着た幼女であった。
「え、」
エレーネは目を瞬いた。それはもう忙しく瞬いた。大分混乱していた。
「どなたですの?」
「それはこっちのセリフですの!」
幼女に怒られた。
「ここがどこだかご存じですの?」
「しりませんわ!」
あぁ、なんだか懐かしい。だが、これは‥‥
「‥‥やらかしてしまいましたわ!」
「ゆうかいはんですのー!」
訓練された馬に帰路を任せればいいとエレーネが気付いたのは、夜の帳が落ちかけて混乱が収まってからだった。
結局幼女はコロガリーヌ・ギーの生まれ変わりだと知れた。
魔力量だけのフォウンテン子爵家では、魔力によるやらかしが日常茶飯事であり、父のフォウンテン子爵はそういったものの尻拭いに慣れていた。
幼女の身元を確認し、生活が困窮しているという一家をフォウンテン子爵家で雇い入れることとし、ギー子爵家には改めての訪問とカリスという名の幼女の紹介をし、もっともギー子爵家では幼くして亡くなった娘のことはすでに問題ではなかったため紹介だけにとどめたが、さらに一連のことをエインズ子爵家に報告し。
そしてフォウンテン子爵の前には一枚の契約書がある。
「‥‥エレーネ、これは?」
そして会心の笑みを浮かべる娘がいる。
「主従の契りを結んだのですわ」
憮然とたたずむ幼女がいる。
「エレさまはごういんですわ」
――ちなみに、カリスの言葉遣いは生来のものではない。エレーネの魔力に引っ張られて落ちた時にコロガリーヌ・ギーとしての記憶が蘇り、それに引っ張られて口調が生前に戻ってしまったということである。カリスは庶民であり、エレーネとの縁を結ぶには主従となるしかなかったというのだ。
フォウンテン子爵は苦笑した。
「まぁ‥‥仲良くやるんだよ」
「おやかたさまもごういんですわ」
こうして、エレーネ・フォウンテン嬢の婚約は無事破棄され、令嬢は生涯の友を得た。
見た夢を形にしてみましたがなにか違う気がします