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昼食を作り終えるとホームヘルパーは帰っていった。アンの泣き声が響き続けていた。仕事が手につかなかった。ベビーベッドで泣きじゃくっているアンを抱き上げた。誰も近くにいない事を確認してから歌った。リナに歌ったように、頬をこすり付けながら、途切れ途切れに、歌った。
オーベイビー ベイビー 泣かないでおくれ
君の真っ赤な頬つたう
小さな 小さな 涙の粒を見ると
抱き締めずにはいられないから
オーベイビー ベイビー 泣かないでおくれ
やさしく耳をなでる歌声
我が主に感謝を捧ぐ
天使を授けたもうたことを
私は思う この素晴らしき世界を
私は思う この素晴らしき世界を
ふいに泣き声が止んだ。アンは眠ってしまった。どうして自分一人では歩けもしないような赤ん坊があんな所にいたのか。どうしてそれを拾ったのか。―――分からなかった。しかしどちらにしても腕の中にいるアンの安らかな寝顔を見ると、主に感謝せざるを得なかった。この短い間にも確実に愛情が芽生えていた。もう一度アンの顔を見た。そこにはリナとは違う顔があった。天に向かって十字を切った。
仕事が手につかなかった。時計の針が三時を指した。アンが眠っているうちに病院に行く事にした。東側が動く前に一度医者に見せておきたくなった。秘書室にヤマオカはいなかった。仕方なくボディーガードの一人を呼んだ。
事務所を出ると真っ黒に染まった神々しいベンツが止まっていた。見慣れないベンツが止まっていて少し戸惑ったがすぐに訳が分かった。三日前の炎に包まれたキャデラックの姿を思い出した。何年も乗っていた愛車がなくなるのはさみしかった。
ベンツの中は落ち着かなかったが、贅沢は言っていられなかった。隣にいるのがヤマオカじゃない事も落ち着かなかった。ヤマオカの代わりの秘書は緊張しているようだった。そいつには悪いが頼りない印象を受けた。しかしヤマオカが選んだ秘書だと自分に言い聞かせた。
「ビッグ。駅前の第一病院でよろしいでしょうか?あそこの外科医は評判がいいようです」
秘書は媚びを売るように上目使いをした。ヤマオカの毅然とした態度での対応が恋しくなった。
「そんなに心配する事もないと思うが、まあ第一病院でいいだろう」
「ありがとうございます。おい、第一病院だ。はやくだせよ」
秘書は意味なく大声を出してハイヤーを出させた。運転手には態度が一変するようだ―――くだらない自己顕示欲。ヤマオカはそんな事に興味はない。あいつは誰にでも敬語を使い、同じ態度で接した。
* *
駅前通りを北上していた。秘書は落ち着かない雰囲気を醸し出していた。沈黙に耐えられなかったらしく、取るに足らない事に過剰に反応してみせた。うんざりして適当に受け流した。第一病院の大きな看板が見え始めた時、秘書の携帯電話が鳴った。
「ヤマオカさんです。ビッグに急用だって言っています」
そういって真剣な顔をするだけで、一向に差し出されない携帯を半ば無理矢理に奪い取った。
「もしもし、ビッグですか?ヤマオカです。ジムさんが動きました。東側のボスと会うようです。すぐに第二埠頭に来てください。私はできるだけ人を集めてから向かいます」
そういうと電話が切れた。横にいた秘書が聞き耳を立てていたが、無視して運転手に第二埠頭に行くように指示をした。ベンツはUターンして勢いよく走り出した。