10
「おい、赤ん坊が泣いているぞ。はやく抱き上げてやれよ」
龍が唇を釣り上げながら言った。アンを抱き上げた。拭く物はないかと聞いた。ジムの穴の空いた顔を覗いていた中の一人が恐れ多そうに汚いハンカチを差し出した。アンの顔を拭き始めた。ジムの脳漿はアンの頭に巻かれた包帯も汚していた。
「ボディーガードとノエルはどこかに連れていってくれ。あまり人が死ぬ所は見たくない」
ヤマオカが適当に五人選び、ボディーガードとノエルを連れて行くように命じた。ノエルは部屋を出てからも命乞いをしていたらしい。おれはアンの顔を拭き続けた。ジムの脳漿を吸ったハンカチは独特の生臭さを放ち始めた。ジムを抑えていたボディーガードの一人は頭から血をかぶったから洗ってくるとヤマオカにいって部屋を出ていった。密度の高かった部屋は、いつのまにか十人以下になっていた。部屋にはジムの脳漿の生臭いにおいが充満し始めた。
「なあ、あんたが西側のボスなんだろ」
龍が話し掛けてきた。ジムの死体を見ても恐怖を感じている様子が微塵もなかったこの男の目には何か確信的なものが光っていた。それが何かは分からなかった。それが何か知りたかった。
「ああ、おれが西のギャラガーだ。おまえにはもう少し生きていてもらわないといけない。これからは死んだジェシーの分も十二分に利用させてもらうよ」
「ちょっとひましてるんだ。なんか話そうぜ」
ヤマオカは部屋の隅で何かを指示していた。龍はニヤついてこっちを見ていた。
「まあいいだろう。ところでおまえは少し変わった顔立ちをしているな。中東か?」
「ああ、そうだ。東はアジアンマフィアっていう名目だけどな。そのほとんどはチャイナなんだよ。その点おれはイスラムだからな、同じアジアンでもおれはいつでも仲間はずれさ。ここまで来るのに苦労したよ」
「それは驚いた。東に宗教は存在しないと思っていたが、宗教を重んじる奴がいたのか。おもしろいな」
「たしかにな。しかしこんなやくざ者にも救いの手を差し伸べてくれるのはアラーの神だけだ。毎日祈りを捧げるおれを受け入れてくれたのは今の大老が始めてだった。だからおれはあの人についてく。おれはあの人のためだったら何でも出来るさ」
龍はその人の為なら何の迷いもなく自分の命を落とせるのだと自慢げだった。
「そんな大人物なのか、東側の大老という奴は。しかしおまえが信じているその大老さんは他の何より金が大事なアジアンマフィアの無宗教男だ。おまえは騙されているんだ。その証拠に大切な部下が敵に捕まっているのに未だに音沙汰ない。おまえのボスは自分の部下より目先の札束の方が大切なんだよ。アラーの神を信じるおまえを認めているようで心の中で嘲笑っているのさ」
龍の顔が曇った。一度そらせばたちまち飲み込まれそうな瞳は、底無し沼のように濁っていて、その深さは計り知れない。この男は漆黒の瞳の本来あるべき神秘的な透明感を絶望的に失わせるほどの経験に幾度も遭遇してきたのであろう。
「大老はそんな人じゃない。ちゃんとイスラムの教えを理解し、敬意を持って接してくれているんだ。あんたたちがキリストの教えを重んじるように」
「ちがうんだよ」
龍は首を傾げた。
「何が違うんだ?」
「おまえはチャイナを何一つ理解していないようだ。やつらは現世利益の感覚において鋭敏すぎるほど鋭敏なだけで、われわれが神に求める永遠の感覚など一欠けらもないし興味もない。ただ現世に役に立つ物だけを追い求める人種なんだ。かりにおまえの尊敬する大老がイスラムの教えに理解を示したとしてもそれは宗教心に篤く、真理を悟る理解力を持ち合わせているからではない。おまえを手駒にしたかった。ただそれだけだ。いや、捨て駒といった方がいいだろう」
龍は愕然とした様子だった。
「そんなはずはない。大老はコーランも持っているといっていた。誰もいない所でアラーの神に跪いているともいっていた」
「直接見たのか?やつらならやりかねんがな。やつらは金のためなら、いくらでも跪くだろうし、逆に天に向かって唾を吐く事も平気でするだろう」
龍の顔は醜く歪んでいた。
「そんな事するはずがない。神を冒涜するような真似を人間に出来る訳がない」
アンの泣き声が大きくなった。アンを見ながらいった。
「やつらは神よりも金の方が大事らしい。初めから神など存在していないと、神が何かしてくれたか?神が何かを買ってくれたか?神が少しでも豊かにしてくれたか?神がいれば腹がいっぱいになるのか?何もしてくれない神よりも一切れのパンを買える一枚の硬貨の方がよっぽど大切だ。奴等はそう考えているんだ」
「違う!大老はそんな人じゃない!」
龍は声を荒げた。アンの泣き声は大きくなるいっぽうだ。ヤマオカが駆け寄ってきた。
「どうしました?」
龍は目を虚ろにして床に向かって何かを呟いていた。部屋を見渡した。
「何でもない」
跪く龍を見てからいった。
「それよりリアムはまだ見つからないのか」
「はい、まだ見つかっていないようです。もう少しで東側も異変に気付いて埠頭に人をよこすでしょう。ここに長くとどまり続けるのは良くない。残念ですがそろそろ移動した方がいいと思います」
アンは泣き止まない。小さな手でおれの腕に力いっぱいしがみついている。
「つまりリアムを諦めろという事か?ベックはどうするんだ」
「残念ですが、このままでは諦めなくてはいきません。これ以上ここにいると危険です。ここはご存知の通り東側に位置する埠頭です。いつ東側にここがばれてもおかしくはありません。今からベックさんに電話して戻ってくるように指示します。いいですね?」
そういうとヤマオカは部屋に待機している者達の中に消えていった。