ベームスター干拓地ケイ姉妹自宅
オランダの世界遺産といえば、キンデルダイクの風車群の景観が有名で、田園地帯に風車が整然と並び、風を受けて羽根を回している姿は感慨深くもなるものである。ベームスター干拓地は同じオランダの世界遺産ではあるが、実はただの草原が広がっているだけである。園芸が盛んで、春には一面の花畑が見られるが、ガイドブックに記載されることすら無い。
それでも、この場所を訪れたならば、高度なランドスケープ・デザインに感嘆するに違いない。この土地が水の浸入との厳しい戦いの下、肥沃な粘土質の土壌がきちんと測量され、整地され、そして農作業に理想的な長方形の土地が定規で線を引いたかのようにシンメトリーに並んでいる。その規則正しく美しい景観は、まさしくこの土地が人間の力で造られたという証であった。
「あの羊さんは、どっか遠くへ行っちゃうの。ほら、お友だちみんなとあんなに楽しそうに……。きっと、とっても素敵な所なのよ」
ベームスター干拓地ではお馴染みのストルプと呼ばれるピラミッド屋根の自宅から、サラ・ケイは窓から初夏の大空の雲を望みながら、姉を除けばいちばんの友だちである人形のリラに話しかけていた。
「そこはね、一年中花が咲いていてね、羊や鹿、それにリスたちとお話しができるの。もちろん、花と木ともお話しができるのよ」
ベームスター干拓地の初夏は、自然がもっとも輝く時である。長くなった陽に新緑が萌えると、青々とした葉は背丈を競いあう。巣立ちしたばかりの幾羽の雛鳥たちは、花畑でじゃれあいながらも地べたをつつき、今日最後の食事にありついていた。花畑を横切るように続いている小径のすぐ上では、初夏の陽に翼を焼かれて怠そうに家路を急ぐスズメが飛び交わっていた。
「鳥みたいに自由に飛べたら、あたしもあそこへ飛んで行けるのに……」
サラ・ケイは飛び交う鳥たちの向かう先の場所が気になった。青空を背景に大きな白い入道雲がムクムクと広がっている場所の下には、まさしく彼女の夢の国があるはずであった。まだ、一度も行ったことのないその場所には、絵本で見た世界、言葉を喋る兎、お菓子でできた魔法使いの家があると彼女は子ども心に信じていた。
入道雲の脇に二本の飛行機雲が現れると、北西方向へ一直線にまっすぐ伸びていくのが見えた。この一帯は民間機の航空路線から外れているため、飛行機雲が見えることは珍しいことである。飛行機雲は、すぐに破線のような途切れ途切れとなり、薄くなっていくと青空に溶け込むように消えていった。
サラ・ケイは姉がいちばん大好きであり、姉妹はとても仲が良かった。姉のセリア・ケイは優しく親切で、妹のみならず誰からも気に入られていた。そんな姉の言いつけを守って良い子にしていれば、神様がご褒美に、玄関の扉の開いた先を夢の国につなげてくれる。そう信じていた。絵本のページをめくるように扉を開くと、そこは絵本の世界になっているのである。そうすれば憧れの聖人ジャンヌ・ダルクにも会えるかもしれないと心をときめかせるのであった。
姉のセリア・ケイがチーズ工場から帰ってくる時間が近づくと、サラはできるだけ早く出迎えができるように、いつものように玄関の外で待つことにした。扉の前に立つと、いつものことであるが、ドキドキと緊張した。今度こそ、扉の向こうが夢の国に通じているかもしれないからである。ゆっくりと、ゆっくりと、期待に胸を膨らませて扉を少し開けてみたものの、固く眼を閉じてしまった。怖いのである。でも、これでは絵本の世界も見えない。恐る恐る少しずつ眼を開けて薄目でチラリと見てみた。いつもの森が、いつもの花畑が、いつもの小径が見えていた。変わったことは何ひとつとして起きていなかった。彼女は心からがっかりした。
サラ・ケイは玄関前の石段に腰を降ろした。時は夕方になっていたが、ベームスター干拓地は北緯52度であり、夏は極端に日が長い。北海道の北端(北緯45度)よりも北にあるため、夕方になっても昼間のような明るさである。
サラ・ケイは姉とは別の意味で、心から親愛する存在がいた。彼女の好きな聖人ジャンヌ・ダルクも、数奇な運命が始まる前に、その存在から“天の声”を聞いたという。自分も同じように不思議な“天の声”が聞けるに違いないと無邪気に考えていたのである。そんなわけで、彼女は日々の生活の中で祈ることが好きであったし、欠かすことがあってはならないことであった。
姉が帰ってくるにはもう少し時間があると考えたサラ・ケイは、いつものようにひざまずき手を組んで深く祈りを始めた。
「あたしの神様。今日一日、無事に過ごせたことを感謝します。そして、いつの日か、遠い雲の下にある夢の国へ行けますように!」
世界は世界経済が疲弊する中、ほとんどの人が神を信じなくなったという。しかし、それが事実としても彼女には神が人類のために今でも見守ってくれているということに変わりは無かった。空は静まりかえってその祈りに耳を傾けていた。
サラ・ケイは、ほんのちょっと眠気に襲われていた。すると、どこからともなく、蛍のような光が舞い込んできた。弧を描いたかと思うと消え、また軌跡を描いた。それはまるで愛のキューピットが悪戯しながら飛んでいるようにも見えた。〈それ〉が人間であるサラ・ケイの存在に気づくと一瞬はおどけた様子を見せたものの、寄せては返す波にはしゃぐ子どものように、近づいたり、逃げたりを繰り返して遊び始めた。〈それ〉はサラ・ケイをとても気に入った様子で、蛍のような光は風に流されながらもゆっくりと彼女の周囲をまわり始めた。
小さな輝きが次第に増えてゆくと、互いに照らしあいながら、周囲一帯を埋め尽くさんばかりの輝きで充たされようとしていた。光の中は決して眩しくなく、まるで時の流れから忘れ去られたてしまったように、そよ風が止まり、小鳥たちの鳴き声が消えていた。
輝きのもたらす不思議な力が、サラ・ケイの心の中にまで染み込んでゆくと、どこからともなく、ハープのような音色のメロディが聞こえて来た。彼女は自分が空を飛んでいるということをはっきりと自覚することができた。というよりも、地面が無くなってしまったといったほうが近い感じである。彼女は、なにがどうなったのかわからなかったが、光の中では心が洗われるような気持ちになり、幸福感に満たされる気がした。
「こんにちは」
〈それ〉に声を掛けられるまで、サラ・ケイはその存在に気づいていなかった。
「ここはでございますわね、とてもよい所だわ。景色は美しいし、なによりもとても静かで落ち着いているんでございますの。ところで、隣に腰を降ろしてもいいかしら?」
あいかわらず光が氾濫していて、相手の姿を見ることができなかった。言葉使いがかなりおかしかったが、その声が始めて聞くものであったので、彼女は遠くから来た旅人に違いないと思った。その声はとてもよく響き、今まで聞いたことがあるどの声よりも高く澄んでいた。だから、彼女はこの旅人はきっと心の優しい持ち主に違いないと感じた。
「もちろん、いいわよ。どこから来たの?」
「その話しをする前にでございますわね、なにか飲み物がいただけませんかしら?」
旅人はやはり言葉遣いがおかしかったが、自分では気づいていないらしく、そのままの言葉遣いで続けていた。
「気づかなくて、ご免なさいね。家の中に、姉が造ってくれた冷たいグリーンアイスティがあるの。すぐに、持ってくるわ」
「そいつはでございますわね、ありがたいんですの。いただきますわ」
サラ・ケイは、家の中へグリーンアイスティを取りに戻ろうとした。しかし不思議なことに、グリーンアイスティの入ったボトルがひとりでにこっちへ来るである。ボトルは滑るようにして彼女の手元まで来ると、自然に止まった。
「コップもいるわね」
サラ・ケイは、別に考えもなく独り言を言った。すると、コップも同じようにひとりでにやって来た。同じくらいの年頃なら誰でも考えるように、彼女はそんなことが不思議というよりも楽しくて仕方なかった。
サラ・ケイはコップにグリーンアイスティを入れようとしたが、まだ子どもであったため、加減ができず入れ過ぎて溢れてしまった。ポタポタと水滴の落ちるコップを差し出して、相手が受け取るのを待った。
コップに小さな力が加わっているようであるが弱々しく、手を離すとそのまま落ちてしまいそうであった。
「そこにでございますわね、置いていただけませんか?」
旅人に言われて、彼女はそのとおりにした。しばらくすると、水の中になにかが落ちる音がした。ぶるぶると震える音が聞こえると、水しぶきが飛んできた。
ひょっとして、コップの中に何かが落ちた? サラ・ケイはそんな気配を感じたが、相手を気遣って気づかなかったふりした。
「まだ、たくさんあるわよ」
「いえ、もう、充分にいただきましたわ。おかげさまで、ずぶ濡れでございます。いえ、そうですけど、これはとてもおいしいですわね。あたくしの国にはでございますわね、こんなおいしい飲み物はありませんよ」
「そんなに遠い所から来たの?」
サラ・ケイは旅人に興味を持ち始めた。
「それはでございますわね、それは遠い星でしたよ」
「そんなに遠くにあたしも行きたいな。これからも、もっと、もっと遠くへ行くの?」
「そうでもなくってよ。あたくしは来るべき所に着いたようでございます」
「夢の国でも捜してたの? ここは、とってもいい所だけど、もっと、すてきな所があるのよ。小人がいてね、動物たちとお話しができるところなの」
そうは言ったものの、サラは目の前の優しそうな旅人が、この村に残ることを期待していた。
「そこはでございますわね、面白そうな所のようですけれども、あたくしは夢の国を捜していたのではありませんことよ。実のところ、あんたのような人を捜していたのでございます」
「あたしを……」
サラ・ケイは、びっくりして言った。その時、遠くから自分の名前が呼ばれているのに気づいた。彼女にとって、もっとも聞き慣れた声である。姉のセリア・ケイが帰ってきたのである。その瞬間に蛍のような光は逃げるように、さっと一斉に飛びのいてしまった。夢から覚めたかのように一瞬でなにもかもが元に戻り、サラは元の石段に戻っていた。
サラの姉のセリアは、家の前に妹の姿を見かけると、まっすぐ小走りで近づき、声の届く距離に来ると、習慣的に妹の名前を呼んで帰ってきたことを知らせたのである。サラは、いつものように立ち上がって姉を迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま、サラ。誰かといっしょだったみたいね」
セリア・ケイは石段の脇に置かれたコップに目がとまり、ふと立ち止まった。そのコップの周囲は水浸しとなっていて、半分ほどのグリーンアイスティが残っている。
「うん、あたしに会いに遠くから来たという人が……。ほら、この人よ」
「誰もいないわよ」
「よく澄んだ声の人よ。今まで、あたしの隣に坐ってお話しをしていたの」
サラは姉に信じてもらいたくて、ムキになっていた。
「きっと、夢でも見たのよ。″不思議な国のアリス″みたいに……」
「ほんとうだもん」
「いつまでも、強情を張って変な子ね」
サラは仕方なく姉の言うことを信じることにした。彼女にとって信頼しきった姉が言うことは正しいのであり、間違うことがありえるはずがないのである。
「それはそうと、知らない人についていっては駄目よ。恐ろしいお化けかもしれないから、地の底にまで連れていかれてしまうわよ」
セリア・ケイは、よく大人が使う手、つまり迷信の力でサラに約束を守らせようとした。妹は危険に対する術が未だに備わっていないため、自分が守らなければならない。セリアはなんといってもサラが好きなのである。
「お化けって、どんな形をしているの?」
サラはすっかり本気にしてしまい、そのお化けが自分をさらおうと、すぐそばの物陰に隠れているのではないかとビクビクしながら聞いた。
「そうね、真っ黒な鳥みたいに見えるわ。それで、いつも仲間といっしょに群れているわ」
姉のケイは19歳であり、お化けの存在はとっくに信じていなかった。お化けなどは想像上のものなのであるから、形なんてものはなんでもよかった。ただ突然の質問で、周辺で起きている狂暴化したカラスの大群による被害、それは果樹園を荒らしたり、家畜を襲ったりする事件を思い出し、カラスとお化けを重ねてしまった。
「遠くに行かないもん」
「家の中に入れば、いちばん安全だわ」
セリア・ケイはサラの身の心配だけでなく、自分たちの果樹園の被害についても心配しなければならなかった。それでも心の中の不安を悟られないように、妹の前では平静を装った。もっとも、サラはそんなことがわかる年齢に達していなかった。もし、サラにも事態が飲み込めていたなら、空を我が物顔に飛んでいたカラスの一群を睨みつけることができたであろう。