第二章 喜劇
浜島は控室で必至に台本を頭に叩き込んでいた。何が何だかわからないうちに控室に放り込まれ、そこにいた衣装担当と思しきスタッフにあれよという間にどことなくロールプレイングゲームの勇者のような格好をさせられてしまったのだからそれも当然であろう。ここまで来てしまったら今さら逃げるわけにもいかない。殺人の罪から逃れるためには、何としても蟻谷和馬としてこの演劇を乗り切らなければならないのだ。それだけに、浜島は必死だった。そりゃもう、本物の役者以上にすべてをこの演劇にかけていると言っても過言ではなかった。
台本を読む限り、よくありがちな剣と魔法の異世界ものと言った感じで、浜島はその主役である勇者役だった。正直一瞬どうしようかと思ったが、よく読んでみるとセリフよりもアクションの方が多いらしく、覚えるセリフは少なそうだ。これなら何とかなるかもしれないと浜島はとりあえずホッとする。
とにかく、一刻も早くこの演劇を終わらせて、終わり次第さっさと逃亡するのが最善策だ。本格的な演劇の経験はないが、中学校時代の文化祭の時に主役を演じた事はある。何もないよりはましだった。
そんな事を思っているうちに、上田が扉を開ける。
「時間です! お願いします」
「わかりました」
浜島は努めて落ち着いている風に言うと、上田に続いて控室を出た。彼にとって、すでに演劇は始まっていた。
『ただいまより、劇団ハレルヤ公演。「勇者アトリーヌの冒険」を上映いたします。皆さま、どうぞごゆっくりお楽しみください』
館内アナウンスが流れ、拍手と同時に緞帳が上がる。ステージはまだ真っ暗なままで、そこへ冒頭のナレーション(声・瑞穂)が流れる。
『これは、こことは違う世界に存在する国の物語。あるところに、ウーサンクーサイ王国という平和な王国がありました。公明正大な王の元で人々は活発に過ごしていましたが、ある時北のアーリエーン城に住む凶悪な魔王が、この国を自分のものとしようと襲い掛かってきました。王は自ら先頭に立って魔王と戦いますが、その最中、魔王は王の娘であるカーレンナー姫をさらい、王に臣従するよう求めてきました。娘の事は助けたいが、だからと言って国を犠牲にするわけにはいかない。頭を抱えた王の前に姿を現したのは、旅の途中でこの国を訪れた一人の勇者だったのです』
何とも突っ込みどころ満載なネーミングセンスの用語(命名・上田)がいくつも出てきたが、ナレーションが終わった瞬間、スポットライトが付き、ステージの真ん中に主人公の勇者……浜島演じるアトリーヌが姿を見せた。浜島は表面上不敵に笑いながらも、頭の中で必死にセリフを思い出しながらやややけくそ気味に演技を始める。
「ここが王のいる城か。早速、王に会いに行こうじゃないか」
簡単な劇だからと言うべきか、それとも脚本家がこういう物語を書くのに慣れていないというべきか、色々すっ飛ばされたセリフや展開と共に舞台が変わり、ライトの下で跪きながら王を待つ浜島の姿が映し出される。何しろいきなり控室に放り込まれたものだから浜島も他の劇団員たちがどんな人間かは全く知らないのだが、上田いわく人数不足で彼らも急増の助っ人という事らしいので、とりあえずホッとしていた。もしこれが本物の劇団員だったら、自分の演技のひどさから正体を見破られてしまう恐れさえある。だが、相手も素人ならまだ誤魔化せる余地はあろう。
そんな事を思っていた浜島だったが、しかしそれも相手方の王が出てくるまでだった。反対側のステージから現れた人物を見て、浜島は一瞬飛び上って驚きそうになった。
そこには、凶悪な面構えをした、どこからどう見てもやくざにしか見えない男がいた。髪形は軽いパンチパーマで、顔には傷らしきものも確認できるうえに、なぜか真っ黒な眼帯で右目を隠している。そんな男が王の格好をして、しかしそれでいながらポケットに手を突っ込んでドスの利いた声で浜島に話しかけたのだからたまったものではない。
「おう、おめぇが俺に会いたいっていう勇者の野郎か、ああん?」
セリフそのものは台本に書かれている趣旨とは外れていないのだが(本当のセリフは「お主がわしに会いたいという勇者か?」である)、もはや別物ともいえるアレンジを勝手にしてしまっている。これのどこが公明正大な王だよ! と突っ込みそうになりそうなのを浜島はこらえながら、振り絞るように自分のセリフを言う。
「は、はい。勇者のアトリーヌと申します。この度は、王様が困っておいでという事でこうしてはせ参じました」
「てめぇが俺の女を助けてくれるっていうのか? 面白い事を言うじゃなぇか。てめぇ、ちょっと面かせや。話くらいは聞いてやろうじゃねぇか、あぁ!」
そう言いながら浜島の肩を組んで脅してくるこの男は、もはや王というよりやくざそのものである。ちなみに今のセリフは台本では「君がわしの娘を助けてくれるというのかね。そう言ってくれるのはありがたいが……話を聞かせてくれないか?」となっているが、同じセリフでも話し方ひとつでここまで変わってしまうのだろうか。というより、いくら素人とはいえ何でこんな奴が王役をやっているのか。配役がどう考えても間違っているのではないか。頭の中で色々とぐるぐる回っていたが、浜島は心の中で泣きべそをかきながらも劇を続行する他なかったのである。
「いやぁ、凄い迫力ですねぇ」
瑞穂が舞台袖から感心して見ている。榊原は複雑そうな表情でそれに頷くしかなかった。
「まぁ、日頃からああいう事をやっているからな」
「でも、凄いですね。何だか本人がやくざみたいです」
「やくざと対等に渡り合っていくうちにああいう感じになるらしい。私も噂でしか聞かないが、大変な仕事だそうだ」
榊原はそう言いながら、上田に書くように言われた手元の配役リストを見やった。
『王:加茂川権蔵(警視庁組織犯罪対策部暴力団担当警部補)』
王役をやっていたのは、榊原が呼んだ暴力団担当の刑事だったのである。
「まぁ、先生の知り合いって、ほとんどが警察関係者ですからねぇ。こうなるのはわかっていたんですけど……あれはもう王じゃなくてどこかの組の組長でしょう」
「文句を言うな。一応あれでも学生時代に演劇の経験があるからってノリノリだったんだぞ。ノリノリすぎて勝手にセリフを変えてしまっているがな」
「いや、それは駄目でしょう。それに右目の眼帯は何なんですか?」
「この間、ものもらいになったらしい」
「……いくら誰でもいいからって、この先の劇の進行が不安になってきました」
瑞穂がため息をつくと、劇は次の段階に進もうとしているところだった。
ようやく王との気まずい二人芝居が終わり、劇は次の段階に移った。王からカーレンナー姫の救助を託され(正直、あの王なら別に勇者に頼まなくても自分で救助に行けそうな気がしないでもないが……)、魔王が住むアーリエーン城へと向かうアトリーヌ(=浜島)。しかし、その先に待ち伏せをしていた三人組の山賊が襲い掛かろうとしていた、というシチュエーションである。その後はその山賊とのアクションシーンが待っている。
だが、浜島には何とも言えない不安がよぎっていた。何というか、王であれなのだから今度は誰が出てくるかわかったものではないのだ。素人が代役になるという事は、どんな人間が出てきてもおかしくないのだという事に、今さらながら気付いた浜島である。とはいえ、この段階で舞台を降りる事などできない。
と、ここで瑞穂のナレーションが入った。
『さて、王からの依頼を受けて勇んでアーリエーン城へと向かう勇者・アトリーヌ。しかし、その矢先に彼の前に立ちふさがる者たちがいたのです』
その言葉が終わった瞬間、ステージ向かって左手に立つ浜島の前に、向かって右手のステージ脇から三人の誰かが飛び出してきた。
「おい、ちょっと待て!」
舞台用の山賊の衣装を着た三人の一人がそう叫んだ。先程の王はインパクトがありすぎたが、今回は外見的には普通の男性に見えない事もない。が、彼らを見た瞬間、浜島の頭の中には何とも言えない不安が膨らみつつあった。
彼らは一見するとどこにでもいる普通の男性に見える。が、その山賊用衣装の内側に引き締まった筋肉がついているのを浜島は見て取っていた。何というかボディビルダーみたいな筋肉ムキムキのタイプというわけではなく、厳しい訓練の結果無駄なものが省かれて必要最低限の筋肉だけが効率的についているという感覚である。しかも、なぜかは知らないが彼らの目が一様に鋭い。
彼らを見た瞬間、浜島は彼らが何者かはわからないが、とにかくその道の「プロ」だと直感した。そして何よりも最大の問題は、この後この意味ありげな連中とアクションシーンを演じなければならないという事である。正直に言って嫌な予感しかしない。
とはいえ、ここで芝居を放り出すわけにはいかない。浜島は声が震えそうになるのを押しとどめて予定通りのセリフを放った。
「な、何だ、お前たちは!」
これに対し男たちは、セリフ自体はまともに続けるつもりらしく、台本そのままのセリフを投げかける。
「あぁ、見てわからないのか? 俺たちは山賊だよ」
見てもわかりません、と突っ込みたいのを浜島は我慢する。その間にも芝居は進んでいくようだった。
「あんたいい装備を持ってるじゃねぇか。おとなしく有り金と装備を全部おいていけ。そうすれば命だけは助けてやる」
そう言いながら、三人はサッと勇者を取り囲むように配置する。これに対し、浜島は内心戦々恐々しながらも、表向きは不敵な表情で腰にぶら下げた貧相な舞台用の模造剣を引き抜きながら、いかにも堂々とセリフを言い放った。
「愚かな! ちょうどいい、魔王退治の前の肩慣らしをさせてもらおう」
そう言って、いかにも弱々しい光を放つ模造剣を高らかに頭上に突き上げて決めポーズをとる。それを見て、三人は演技とは思えないほど厳しい表情を浮かべながら叫んだ。
「何だと! 面白れぇ、そこまで言うならその命をもらっていくぞ!」
そのまま三人は腰にぶら下げた模造剣を抜き去り……間髪入れずに絶妙なコンビネーションで格好つけている浜島向かって本気で襲い掛かり、舞台の上で仁義なき大乱闘が展開されたのだった……。
「わぁ……何というか……物凄く迫力ある戦闘シーンですねぇ」
舞台上で響き渡る絶叫と怒号を聞きながら(ほぼ間違いなく前者が浜島なわけだが)、瑞穂は感心したように舞台袖で呟いていた。一方、背後の榊原はなぜか頭に手を当てて首を振っている。
「あいつら……少しは手加減しろと言っておいたはずだったんだがな。すっかり舞台で舞い上がって興奮状態になっている」
「相手の人、大丈夫なんでしょうか?」
「向こうもプロの役者だろう。だとするなら基礎体力はあるはずだから、一方的にボコボコにされるという事はないはずだが」
そう言いながら、榊原は再び配役リストを目にする。そこにはこう書かれていた。
『山賊A:井土正夫(警視庁警備部機動隊巡査部長)』
『山賊B:折草研作(警視庁警備部特殊部隊『SAT』巡査部長)』
『山賊C:花房重一郎(警視庁刑事部捜査一課第六係巡査部長)』
瑞穂もその配役リストを見ながらため息をつく。
「警視庁の機動隊員に特殊部隊隊員に刑事部の刑事……何というか、序盤の雑魚らしからぬ強さを持った山賊たちですね。下手したら魔王よりも強いんじゃないですか?」
「どうだろうね。あぁ、ちなみに刑事部の花房巡査部長は、警視庁柔道選手権大会五年連続一位の猛者だよ」
「なお悪いですよ!」
瑞穂が小声で絶叫する。これをわかりやすくいうなら、古き良きRPGゲームで序盤に雑魚モンスターの名を冠した隠しボスが三体も同時に出現してまだレベル1のプレイヤーをフルボッコにしている様相である。何というか、もはやゲームバランスが崩壊しているレベルの話ではないし、こんなゲームがあったらプレイヤーは間違いなくゲームを壁に叩きつける事だろう。
「だが……ゲームはともかく演劇で見てみると、なかなかどうして見ごたえがある構図が出現するものだね。なるほど、これも上田君の演出の一つか」
「いやいや、どう考えてもあの人たちに声をかけた先生のせいですよね。ほら、反対側の舞台袖で上田さんが今にも気絶しそうになっていますし」
「私は依頼を果たしたに過ぎない。その結果どうなろうと私の責任ではない」
「えーっと、今回ばかりはそうも言っていられないと思うんですけど……」
そんな話をしているうちに、舞台上では彼らの愉快な大乱闘がようやく終了を迎える事となったのだった。
「ぼ、僕の勝利だ……正義は必ず……勝つのだ……」
本来ステージ上に倒れ伏す山賊たちの真ん中で意気揚々と言わねばならないセリフを、浜島は無傷の山賊たちが気まずそうに舞台袖に下がっていくのを見ながら息も絶え絶えに力なく言う事になった。
当然、ど素人の浜島が本職三人に勝てるはずもなく、結局一切反撃もできないままフルボッコにされてその場に倒れこんでしまっていた。戸惑ったのは山賊三人の方で、予定とは違う成り行きに顔を見合わせた後、
「ちっ、何てしぶとい奴だ! こんな奴とやり合っていたら日が暮れちまう!」
「あー、俺らの負けだ! 俺たちゃ付き合いきれねぇ」
とか何とか進行的にはかなりギリギリなセリフを好き勝手言いながら、何やら強引に話を打ち切って下がっていったのだった。その後に冒頭のセリフが発せられたものだから、ステージのみならず観客席にも何とも言えない同情というか気まずさというか、そういう微妙な空気が漂っている。
一方、浜島はボロボロになりながらもなんとか模造剣を杖にして立ち上がると(ちなみにこれは演技ではない)、そのままよろよろと先を進み始めた。一瞬間が空いて、再び瑞穂の声が聞こえる。
『え、えーっと、見事山賊に打ち勝った(?)勇者・アトリーヌは、そのまま先を進みました。しかし、行く手には様々な困難がなおも立ちはだかり続けます。その一人目が、魔王の忠実なしもべ、魔術師のマージュツだったのです』
瑞穂の言葉と共に、いかにも魔術師めいた格好をして杖を持った人物が右の舞台袖から出てくる。
「フッフッフ……魔王様にたてつこうなどと考える不届き者は貴様かぁ!」
なかなかに迫真の演技で、ようやくまともな演技ができる人間が登場した事に浜島は内心ほっとしつつ、よろめきながらもセリフを続ける。
「そ、そうだ! お前は何者だ!」
「我こそは、魔王様の忠実なしもべ、マージュツなり! この先へ貴様を通すわけにはいかんなぁ!」
「な、ならばどうする!」
「知れた事! 今ここで、貴様を倒すまで! 我が使い魔どもの餌食にしてやろう!」
そう言って、マージュツは威勢よく杖を振り上げ呪文を唱えようとし……そこで止まってしまった。
「えっと……」
何やら難しい表情で考え込んでしまっている。確か台本では、ここで呪文を唱えて手下の使い魔を呼び出してアトリーヌを攻撃しなければならないはずだが、その呪文の発声がないので浜島としてはどうする事もできずにその場で突っ立っているしかない。唐突に芝居が止まり、客席がざわめく。
「……と思ったが、貴様なんぞ使い魔なしでも充分だ! うおおおぉぉぉっ!」
しばらく口をパクパクさせていた相手だったが、突然杖を大きく振りかぶると、そのまま謎の雄叫びを上げながら浜島目がけて殴りかかってきた。驚いたのは浜島である。
「え、えぇっ! ちょっと、待って……」
そう叫びながら、浜島は慌ててそれを剣で受け止める。魔術師が杖で勇者に物理攻撃を加えるという前代未聞の展開に誰もが呆気にとられているが、なお悪い事に浜島は先程のダメージが残っているせいもあって動きが鈍く、結果的に勇者が体力などからっきしの魔術師に一方的にボコボコにされるという謎の光景が繰り広げられていた。思ったより肉体派の魔術師であり、それだけできるんだったら別に魔術を使う必要性が全くないようにも思えるが、もはや浜島にそんな事を突っ込む余裕もない。
「おい、ちょっといいか?」
と、必死に鍔迫り合いをしている場面で、相手の肉体は魔術師が客に聞こえないように小声で声をかけてきた。
「な、何だよ?」
「あんた、台本読んでるんだよな? だったら、教えてくれ! 俺の唱える呪文ってどんなんだった?」
どうやら、本来唱えるべき呪文をきれいさっぱり忘れてしまっていたらしい。が、正直浜島だって自分のセリフを覚えるのに手いっぱいでそんなものを覚えている余裕なんかない。
「知るかよ、そんなの!」
「畜生、やっぱりわからねぇか! だったらこのまま乱闘でごまかすか?」
「いやいや、客が呆然としてるじゃないか! 何でもいいから魔法を使ってくれ!」
というか、これ以上リアルファイトを続けたら冗談抜きで病院行になってしまう。一刻も早くこの勇者と魔術師の乱闘を終わってもらわなければならなかった。
「……ええい、ままよ! どうなっても知らねぇぞ!」
相手はそう叫ぶ浜島を突き飛ばし、そのまま一短距離を取った。突き飛ばされた浜島は派手に舞台上で転倒し、ついでにスピーカーに頭をぶつけて蹲ってしまっているが、もはやマージュツはそんな事も気にしていられないのか、高らかに叫ぶ。
「フハハハハ! さすがは勇者、なかなかやるじゃないか!」
どう見ても魔術師が一方的に勇者を物理的にフルボッコしていたようにしか見えず、肝心の勇者は頭を抱えて未だに呻いているわけだが、そんな状況を無視するように相手は芝居を続行する。
「かくなる上は、やはり我が使い魔どもを呼ぶしかあるまい!」
そして、マージュツはほぼやけくそ気味に「呪文」を叫んだ。
「これで終わりだ! えーっと……『アコニチンストリキーネテトロドトキシンコルヒチンバトラコトキシンタキシンアトロピンアマトキシンコンバトラトキシン』!」
何やら適当に並べたとしか思えない文字列の呪文をマージュツが叫ぶと同時に、舞台袖から三人の使い魔役の少女たちが飛び出してきた。
「行け、我が使い魔の……あー……『ルミノール』、『ニンヒドリン』、それに『オキシドール』! こやつを打ち倒せ!」
どうやら使い魔の役名も忘れてしまったらしく、何とも不本意な名前を付けられた彼女たちは一瞬何とも微妙な顔をしたが、気を取り直してようやく起き上がった浜島に叫んだ。
「アハハハハ! お任せくださいご主人様! こんな奴、この……えっと、『ルミノール』だっけ……がすぐに片付けます!」
最初に先頭に立っている少女……本来の役名がわからないので、とりあえず「ルミノール」としておくが……がノリノリで叫んだ。本人も随分面白がっているらしい。
「え、えっと……そ、そうです。この『ニンヒドリン』に任せれば、こんな奴はけちょんけちょんです……で、いいのかな……うぅ、この格好恥ずかしい……」
その後ろに控えている「ニンヒドリン」と呼ばれた少女が、少し遠慮がちにほとんど棒読みに近い口調で言う。で、残る一人はと言えば……。
「……」
他の二人がいかにも使い魔らしい格好をしているのに対し、なぜか一人だけ剣道着らしい道着袴姿で、腰の部分にどこから持ってきたのか木刀を差し込みながら、腕を組んで黙って勇者に視線を投げかけていた。梯子を外され、思わずルミノールが突っ込む。
「えっと、国松さ……じゃなくって『オキシドール』、あなたのセリフなんだけど」
「……私は『オキシドール』などというふざけた名前ではありません。名前を呼ぶなら『カオル』とでも言ってください」
「いや、でもさ……」
「私が手を出すと大変な事になるのは見えていますから、私はこのまま静観しておきます」
そのままオキシドール改めカオルは目を閉じてしまう。
「あぁ、もう! じゃあ、えーっと……ニンヒドリン! 行くわよ!」
「は、はい!」
そう言って突進してくる二人を見ながら、浜島は思わず天(というか天井のライト)を見上げながら、覚悟を決めて剣を構えるしかなかったのだった……。
「……グダグダですね」
舞台袖から瑞穂が額に手をやりながらそう言っていた。一方の榊原も頭を抱えている。
「圷さん……セリフくらいちゃんと覚えておいてくれ……」
そう言いながら、改めて配役リストを見やる。
『マージュツ:圷守(警視庁刑事部鑑識課警部)』
『使い魔A:磯川さつき(立山高校女子バスケ部三年)』
『使い魔B:西ノ森美穂(立山高校文芸部三年)』
『使い魔C:国松香(桜森学園剣道部三年)』
ちなみに、使い魔三人は瑞穂の人脈で強引に参加してもらった口であるが、やたらノリノリのさつきと恥ずかしがってセリフが棒読みの美穂、それにどこまでも自分のペースの香と、正直人選ミスだったかと瑞穂は後悔し始めていた。
「ちなみに瑞穂ちゃん、何で香君は剣道着なんだね?」
「部活の稽古が終わった後で直接来てもらったんです。でも、使い魔の衣装はちゃんと用意してあったはずですよ」
「……まぁ、確かにあの子があんな派手な衣装を着ている姿は想像できないが……あの様子だと最初からまともに演技するつもりがなさそうだな」
「脇役だったら引き受けるって言ってたんですけど、こういう事だったんですね」
と、そこでマージュツ役の圷が疲れた表情で舞台袖に戻ってきた。
「ったく、厄介ごとに巻き込みやがって。俺は芝居なんかやった事がないのに。あんな長い呪文が覚えられるかってんだ」
「にしては、ノリノリでしたよね。あと、あの呪文って何なんですか?」
瑞穂の問いに、圷はしれっと答える
「何って、俺が知ってる毒物の名前を適当に並べただけだ。アコニチンはトリカブト、ストリキーネはマチン、テトロドトキシンはフグ毒、コルヒチンはイヌサフラン、バトラコトキシンはヤドクガエル、タキシンはイチイ、アトロピンはベラドンナ、アマトキシンはドクツルタケ、コンバトラトキシンはスズランだな」
「……何でそんな難しい毒物の名前が言えるのに、呪文の名前を覚えられないんですか」
「ちなみに、本当の呪文は?」
瑞穂は大きくため息をつくと、スラスラと答えた。
「『ポポンポポンポポリンポンリリンリンリンリリリンリンパパラパラパラパラリンポン』です」
「わかるかよ! というか、それが悪の魔術使いの呪文か?」
「ちなみに、あの使い魔の名前は何ですか?」
「ルミノールは血痕検出薬、ニンヒドリンは指紋検出薬、オキシドールはルミノールがないときに応急で血液検出に使える。鑑識必須の薬品だ。で、本当の名前は?」
「……『フランシース』『ガネートリア』『サンフランス』ですよ。跡形もないですよ。さつきたち滅茶苦茶戸惑っていたじゃないですか」
「そんな歯の浮いたみたいな名前が覚えられるか。誰だ、こんな変な名前を付けたのは」
「上田さんです」
瑞穂がきっぱりと答えた時だった。不意に圷の携帯電話が鳴った。
「あぁ、俺だ……そうか、わかった。場所は? ……了解、すぐに行く」
短くそう答えると、電話を切る。
「悪いな、榊原。仕事だ」
「事件ですか?」
「あぁ。ったく、休日くらい休ませろってんだ。確か、俺の出番はこれで終わりだったな?」
「みたいですね」
榊原は台本をチェックしながら答える。
「なら、俺はここで抜けさせてもらう。今回の借りはまた返してもらうぞ」
「またどっかの居酒屋でおごりますよ」
「フン、じゃあな」
そのまま圷は舞台袖を出て行った。着替えるのが億劫だったのが舞台衣装のままだったが、もはやその程度の事を気にする人間はこの場に誰もいなかった。
「さて、このまま何事もなく劇が進んでくれればいいんだが……」
「大丈夫ですかね。主演の役者さん、もうボロボロですよ」
もはや、不安しか残らない展開になりつつあった……。
浜島は頑張っていた。もうフラフラの体に鞭打って、必死になって目の前の少女たちを倒す熱演をしていた。ここで倒れたらその瞬間に自分の人生が終わってしまうのだ。文字通り命がけの演技だった。正直、たかが演劇で何でこんなに必死にならなければならないのか目的を見失いつつあったのだが、とにかく彼は必死だった。そりゃもう、あまりの必死さに客がドン引きしているほどの名演だった。
幸い、相手は今までと違ってこういう事に慣れていなさそうな少女三人で、しかもそのうち一人は黙って後ろで腕を組みながら静観の構えを見せている。そんなこんなで、浜島は何とか二人を倒す演技を成し遂げる事に成功していた。
「こ、これは私たちじゃかなわないわ! いったん引きましょう!」
ルミノール……というよりさつきの言葉に、三人は舞台袖へ消えていく。これでようやく次の場面に進む事ができそうだった。その場に崩れ落ちそうになりながらも何とか踏みとどまる浜島。しかし、運命は彼にとって残酷だった。
『見事、マージュツの使い魔たちを倒したアトリーヌ。意気揚々と先へと進みます。しかし、そこには更なる困難が待ち受けていたのです』
その瞬間、浜島の表情が絶望に歪んだ。正直心身ともにボロボロで「もういい加減にしてくれ!」という気分である。ここまでくるともはや人殺しをした報いを全力で受けているとしか思えないが、それにしたってここまでする事はないだろう。浜島は天を仰ぎながら神を呪い、同時に自分が仏教徒(浄土真宗西本願寺派)だった事を思い出してついでに仏も呪っておいた。
が、芝居は無情にも続いていき、再び舞台袖から誰かが姿を現す。
「あぁ、そこにおられるのは勇者様じゃありませんか! お願いです、このか弱い娘の頼みを聞いてください!」」
そう言って出てきたのは、町娘の格好をした、さっきの三人と同じく高校生くらいの女の子だった。どうやら今回は台本通り戦闘をせずに済むらしい。浜島は一応ホッとしながら、油断せずに芝居を続行する。
「あぁ、そうだ。何の用かな?」
「お願いです! 私たちを助けてください! 私たちの村の近くの洞窟に住みついた魔王子飼いのドラゴンが日々村を襲って迷惑しています。何卒、ドラゴンを退治してください!」
「よし、任せておけ! 私がそいつを倒してやろう!」
何というか色々端折りすぎて展開が急すぎるような気もしないでもないし、そもそも通りすがりの人間がそう簡単にドラゴン退治を引き受けるなんて都合の良すぎる話があるわけがないだろうという突っ込みが浜島の喉まで出かけていたが、それを言い始めるとこの劇に突っ込まずに済むところなどないので、初めてまともに演劇ができた事に感謝しつつ浜島は劇を続ける。文句なら後でこれを書いた上田にぶつければいいだけの話だ。
『アトリーヌは村娘のボコ・ボッコーの頼みを引き受けてドラゴンの住む山へと向かいます。いよいよドラゴンとの対決です』
あの娘の役名が「別に一人でドラゴンを殺せるんじゃねぇ?」というようなものだったという事実に浜島は少し驚いたが、もはやそんな些細な事に突っ込むなど野暮であろう。改めてこれからの流れを脳内で確認しておく。
台本によれば、この後はそのドラゴンと戦う場面である。と言っても、もちろんドラゴンは張りぼてで、それを三人の人間が操る事になっているはずだった。相手は張りぼてなので、人間相手に戦うよりははるかにましなはずだったが、今までの例があるので油断が全くできない。浜島は覚悟を決めながら次のシーンに進む。
「さぁ、出てこい、ドラゴン。私が相手だ!」
その瞬間、舞台の袖から激しい煙が吹き出し、それに紛れて張りぼてのドラゴンが姿を見せた。だが、そのドラゴンを棒で操っている三人組を見て、浜島は自分のさっきの予想が見事に的中している事を悟り、いい加減に泣きそうになった。
なぜなら、そこにいたのは全身筋肉モリモリで見事な逆三角形型の体格をしたボディビルダーと、何というか見るからにやばい雰囲気をまとった白っぽい道着を着込んだ男と、迷彩服を着こんだいかつい表情の自衛隊員だったからである……。
「先生、何であんなボディビルダーと知り合いなんですか?」
「何年か前にボディビルの会場で起きた殺人事件を解決した事があって、それからの縁だ。他の二人も似たようなもんだな。今回頼んでみたら、みんな喜び勇んで参加してくれたよ」
「はぁ……どんな事件だったんですか?」
「自分で事務所の記録でも読んでおきなさい」
「はーい」
そう言いながら、瑞穂は手元の配役表に目をやる。
『ボコ・ボッコー:笠原由衣(桜森学園水泳部三年)』
『ドラゴン操演者A:小内盛高』
『ドラゴン操演者B:剣堂力(格闘家団体「剣殴会」主催格闘家)』
『ドラゴン操演者C:宇津谷健(陸上自衛隊習志野駐屯地一等陸尉)』
ちなみに最初の笠原由衣は、瑞穂の中学時代からの友人である。
「でも、何で操演係なんですか? 強そうなのに」
「だからだ。下手に本気を出されたら洒落にならないからな。実力を出さずに済む配役にした」
「いや、機動隊員とかSAT隊員とかを山賊役にした先生が今さら何言ってるんですか」
瑞穂が呆れ気味に言う。と、その時客席がざわめいた。
「どうした?」
「あ、あぁっ! 操演の三人がノリノリで凄い操演をしています! 何ていうか、張りぼてのドラゴンにあるまじき動きで勇者に襲い掛かっています!」
「……操演だけであんな動きができるのか。何というか、ある意味芸術だな」
「感心している場合じゃないです! 勇者の人がドラゴンの動きに全くついていけていませんよ! このままだとドラゴンの一方的な虐殺です!」
「ここは何とか勇者に頑張ってもらいたいんだがね」
だが、そんな願いもむなしく、勇者はドラゴンからフルボッコにされていた。何というか、この世の物とは思えないというか、この場でとても表現できないというか、とにかくそんな動きをするドラゴン(張りぼて)に全く手も足も出ない状況なのだ。
「というかあの三人、今日が初対面のはずなんだが、何であんなに息がぴったりなんだ?」
「……何か通じ合うところでもあったんじゃないですか? やる前から随分意気投合していたみたいですし」
と、そんな事を言っているところに、不意にすっかり顔色が真っ青になった上田が榊原たちの所に飛び込んできた。今までは何とか許容していたものの、さすがにこの状況では黙っていられなくなったようだ。
「やばいです! このままじゃ勇者がドラゴンに負けて終わってしまいます!」
「そのようだね。だから、どうしたらいいのか指示を仰ぎたいところなんだが……」
「あぁ、もう! まさかあの役者さんのアクションがあんなに下手くそだなんて想定外でした! 業界の噂では、知名度は低いけどアクションにかけては超一流の実力派俳優だって触れ込みだったのに、とんだ見掛け倒しです! こっちはだからこそ榊原さんの連れてきた無茶苦茶な面子でもOKを出したっていうのに……」
上田は悔しそうにそう吐き捨てるが、今となってはどうする事もできない。
「無茶苦茶な面子という言葉はやや看過できないところだが……何にしても、噂は当てにならないものだな。まさかとは思うが別人を連れてきたなんて事はないだろうね?」
「そんなわけがないでしょう! 準備で忙しかったのに、僕が直接あの人の自宅アパートまで迎えに行ったんですから」
「そう言えばそうだったね……。で、どうするんだね? あんな連中を連れてきてしまった私が言うのも何だが、このままじゃまずいだろう」
上田はしばらくウーンと唸り続けていたが、やがて決然とした表情でこう告げた。
「仕方がありません。大筋を少し変えましょう。このまま劇が途中で強制終了するよりはましです」
「この際やむを得ないか。で、どう変えるんだね?」
その問いに対し、上田は何事かを告げたのだった……。
もう、限界だった。浜島の視界はすでに霞みかけており、そのぼんやりとした視界の先にはこの世の物とは思えぬアクロバティックな動きをするドラゴン(張りぼて)の姿が見えていた。
浜島は、今さらながら自分が殺した蟻谷とかいう地味な俳優が実は物凄い実力の持ち主だったという事を、身をもって実感する事になっていた。というか、それだけ実力があるなら何であんなにあっさりと自分に殺されたりなんかしたんだと、殺した身でありながら理不尽な怒りを天国にいるであろう蟻谷にぶつけたりなんかしていた。もはやそんな事を不自然に思わないほど、浜島の頭の中はぐちゃぐちゃになっていたのである。
もう駄目だ……。浜島はそう思いながらステージに倒れかけ、それを何とか模造刀を杖にする事でギリギリのところで耐え切る。が、そんな浜島の様子が目に入っていないのか、あるいは三人そろって自分たちの操演に酔いしれているのか、ドラゴンは容赦なく勇者に襲い掛かろうとした。
万事休す……浜島が覚悟した、まさにその瞬間だった。
「そこまでだぁっ!」
突然、そんな声がステージに響き渡り、ドラゴンの動きがピタリと止まった。台本にない展開に、浜島も呆気にとられて霞んでいる目で声のした方を見やる。
「そのドラゴン、俺たちが引き受けたぁっ!」
そこに立っていたのは……序盤で浜島をフルボッコにしたあの超強力な山賊三人組の雄姿(?)だった。
何が何だかわからない浜島を押しのけるようにして、山賊たちは一切無駄のない動きでドラゴンの前に立ちふさがる。
「村の娘から話は聞いた! 勇者なんぞに報酬をやってたまるか! こいつは俺らの獲物だぜ!」
その言葉に、ドラゴンの操演者たちも台本の急な変更を理解したようだった。今まで苛烈に攻めていた浜島をほったらかしにして、そのまま山賊に対峙する。考えてみれば序盤に出てくる雑魚敵の山賊が最強クラスのドラゴンに勇者を押しのけて意気揚々と対峙しているという異様というか異常な光景なのだが、本人たちはすでに勇者の事なんか忘れて臨戦態勢に入っているようだった。
「おらっ、やっちまえ!」
山賊A(演:井土正夫)がそう叫んだ次の瞬間だった。三人の山賊たちは山賊らしからぬ精錬された動きでドラゴンに襲い掛かり、舞台上でこの演劇の中で最大規模となる大乱闘が開始されてしまった。その戦いたるや凄まじく、舞台上の小道具や張りぼての背景をことごとく粉々にしながら、激しいキックやパンチの応酬が繰り広げられているのである。これに対してドラゴンも激しく攻撃してくる山賊たちに物の見事に対応しており、いつしか舞台は勇者の事など完全に置き去りにした異種格闘技戦の様相を見せ始めていた。
観客も盛り上がり、湧き上がる大歓声は劇場全体を包み込む。それはもはやこれが演劇なのかどうかさえわからなくなるほどの熱気であった。そしてそれはナレーターをしている瑞穂も同じようで、ナレーションがいつしかこの異種格闘技戦の実況へと変貌しつつあった。
『おーっと、ここで山賊Bが渾身の回し蹴り! しかーし、ドラゴンはそれを防いで強烈なラリアット攻撃だぁ! だがすかさず山賊Cが上から真空飛び膝蹴り! 決まったかぁ! いや、ドラゴンはそれをブロックしている! だがそこに山賊Aが水面蹴り! あぁ、後ろから山賊Bが浴びせ蹴りを敢行! さらに山賊Bも即座にローリングソバットだぁ! これは決まったかぁ!』
……そして、その異常な熱狂の中、当の勇者=浜島はと言えば、ステージの片隅でその光景を呆然と眺めている他なかったのである。
「……瑞穂ちゃん、君はプロレスマニアか何かかね?」
突然演劇から格闘大会に変貌してしまった舞台を舞台袖から見ながら、榊原は無茶苦茶ノリノリでどこかやけくそ気味にナレーターという名前の格闘実況をしている瑞穂に問いかけた。
「いやぁ、別にプロレスとか知りませんけど、何となくノリで。自分でも何を言っているのかはよくわかりませんけど」
「そうかい……」
多分、神の見えざる意志でも働いているんだろうと、榊原は無理やり納得する事にした。
「というか、あいつらも何であんなマニアックなプロレス技を知ってるんだ。警察はいつの間にプロレスを導入し始めたんだ?」
「細かい事は気にしない!」
もう何か悟りきったような瑞穂の言葉に、榊原はしばらく難しい顔をしていたが、やがて小さく首を振って考える事を放棄した。
一方、その横で上田はなぜかガッツポーズをしている。
「よし、とりあえずこれで劇を続ける事はできた! あとはあのまま山賊たちがドラゴンを倒してくれればいい!」
「……私が言うのも何だが、君はこれでいいのかね?」
「いいんです! どのみち無茶苦茶になっているんですから、もう、どうにでもなれです!」
上田の言葉に、榊原が大きくため息をついた……その時だった。不意に榊原の携帯が鳴った。
「失礼……はい、榊原です。……あぁ、圷さんですか」
相手はさっき出て行った鑑識の圷だった。だが、話を聞いているうちに榊原の表情が少しずつ真剣なものになっていく。
「何ですって? それは本当ですか?」
そのまましばらく会話が続き、少し何かを考えていたようだが、やがて榊原はこう返事をした。
「わかりました。何とかやってみましょう」
そう言って電話を切ると、横で固唾を飲んで劇の行方を見ている上田に呼びかけた。
「上田君、さっき君はもうどうにでもなれと言っていたね?」
「え、えぇ、まぁ。劇がちゃんと続くなら」
「そうかね……じゃあ、少し付き合ってくれないかね?」
「え?」
訝しげな声を出す上田に対し、榊原は謎の微笑みを浮かべながらこう告げた。
「この劇の進行に関して、私に少し案があるんだが……」
乱闘開始から十五分後、勝負の軍配はギリギリで山賊側に上がった。衣装がずたずたになっている中、山賊たちは同じくボロボロになったドラゴンの張りぼての上(操演者はその下で気絶中)に立って雄叫びを上げた。
「俺たちの勝利だぁっ!」
イエェェイ! と言う絶叫が客席からかけられる。と、ここでようやく我に返ったのか、元の口調に戻った瑞穂のナレーターが口を挟んだ。
『こ、コホン。えー、山賊たちは無事にドラゴンを倒しました。勇者はそれを見届けると、再び魔王の城へと旅を始めたのです』
そのナレーションで、観客たちはこれが剣と魔法の物語であった事を思い出し、舞台の隅で縮こまっていた浜島も我に返ったように演劇を開始する。幸い、さっきの大乱闘の間に大分体力は回復したようだった。なお、その間に山賊たちは気絶しているドラゴン(という名の残骸と気絶した操演者たち)をズルズルと舞台袖に引きずってフェードアウトしていく。大乱闘のせいで舞台上には小道具の瓦礫が散乱し、いい具合に荒廃した世界観を再現してくれていた。まぁ、あとで劇場側からは滅茶苦茶怒られるだろうし、片付けが物凄く大変そうだが、そんな事は浜島の知った事ではない。
『行く先々で待ち構える数々の苦難……いずれも一筋縄ではいきませんでしたが、勇者・アトリーヌはそれらを知恵と勇気で乗り越え続け、ついに魔王の住むアーリエーン城に到着したのです』
物語は、本来台本に書かれていたこの後に起こるはずだった大量のエピソードをきれいさっぱりすっ飛ばして、いきなりクライマックスに突入始めていた。どうやら劇の主催者がこれ以上は無理だと判断したようだが、浜島にとっては願ったりかなったりの展開である。こんなアホな劇は一刻も早く終わらせて、とっとと逃亡するに限る。というか体力的にもこれ以上あんな大立ち回りを演じられるだけの余力は残っていない。せめてこの後出てくる魔王とやらがまともなやつである事を祈りながら、浜島はクライマックスの演技に取り掛かった。
「魔王、出てこい! 勇者・アトリーヌがカーレンナー姫を助けに来た! 潔く私と戦ええ!」
そう叫んだ瞬間、舞台袖からこれまでにないほど派手なスモークが炊かれ、それが薄まった時には何気に初登場のカーレンナー姫(演:瑞穂)を脇に置いてなぜか異様な凄みのある笑みを浮かべた男(演:??)が高笑いをしていた。
「フハハハハハ! よくぞこんなところまでやってきた! その無謀さだけは誉めてやろう!」
「ふざけるな! 今すぐ姫を開放しろ!」
「そう言われて『はいそうですか』と応じる魔王がいると思うのか!」
「ならばお前を倒す! そして姫と平和を取り返してみせよう!」
意外にも相手は堂に入った演技をしており、今までの中で一番まともな展開にどこか心の底でホッとしながら、浜島はできるだけ真剣な様子で模造刀を抜き去った。
だが……その次の魔王の言動は、浜島の予想を大きく裏切るものだった。
「よかろう……と、言いたいところだが、そうはいかんな。お前なんぞわしが戦うまでもない」
「な、なぜだ!」
いきなり台本と違う事を言い始めた魔王に、浜島は本気で狼狽しながら言い返す。ここでいきなりアドリブをやれと言われても浜島には無理である。だが、魔王はさらにこんな事を言い始めた。
「ふん、わしが相手せずとも、我が忠実なる大参謀が指一本動かす事無く貴様を葬ってくれるわ!」
「だ、大参謀だと?」
浜島は本気で混乱していた。そんな役など台本のどこにも書かれていなかった。だが、浜島がどう反応したらいいのかわからないでいる間にも劇は進んでいく。
「勇者め、覚悟しろ! 来い、我が大参謀よ!」
魔王がそう叫んだ瞬間、再び舞台からスモークが炊かれ……その中から地味に現れたのは、なぜか劇の雰囲気に全く似合わないくたびれたスーツを着たサラリーマン風の中年男性……我らが榊原恵一だった。
「……は?」
浜島は一瞬素でそんな間抜け声を出す。明らかに劇の進行上場違いとしか思えない人間だった。だが、榊原は軽く微笑みながらごく当たり前のように一礼する。
「初めまして。私立探偵の榊原と言います。以後、お見知りおきを」
「た、探偵?」
もう何をどうしたらいいかわからず呆然とする浜島だったが、傍らの魔王はやたらとノリノリである。
「そう! 我が大参謀にして私立探偵のサカキバラだ! 今回のため、わざわざ別の世界から連れてきた! こやつが貴様を指一本動かさずに葬り去ると言っておるのでな。これも余興よ! 存分にやり合うがよい!」
「……まぁ、そういう事です。一つ、よろしくお願いします」
榊原は苦笑気味にそう答える。とはいえ、この場を逃げ切るには浜島は劇を続行する他ない。ええい、ままよと言わんばかりに、浜島はアドリブを開始した。
「し、しかし、指一本動かさずに私を倒すとは随分な自信だな! 一体何をするつもりだ! 何か凶悪な魔法でも使うつもりなのか!」
だが、榊原は苦笑を崩さないまま、しかし眼だけは全く笑わずにこう続ける。
「まさか。私はただの人間です。従って当然魔法も使えませんし、多分剣の腕ではあなたに負けるでしょう。私の武器はただ一つ……論理による真実追及のみです」
「ろ、論理?」
何かがおかしい。不意に浜島はそう感じていた。だが、それが何なのか具体的に思いつく前に、榊原はジッと浜島を見やって牽制する。その視線を受けた瞬間、浜島は直感的に悟っていた。
なぜかはわからない。ただ、こいつはやばい、と。
そんな中、榊原は表向き穏やかな声で言葉を繋ぐ。
「論理というものは突き詰めれば剣や魔法がなくても相手を追い詰めるものができる代物でしてね。例えばそう……」
次の瞬間、穏やかな口調から一転して、鋭い口調で榊原が爆弾を叩き込んだ。
「あなたが、実は本当の勇者・アトリーヌではない、とかですね」
瞬間、浜島の背筋が一瞬で凍り付いた。だが、これは演技だと無理やり言い聞かせて浜島はなおも自分の役割を演じ続ける。
「な、何を馬鹿な事を。私こそが、正真正銘の勇者アトリーヌ……」
「認めませんか? ならもっと具体的かつはっきり言いましょう。私は、あなたが本物の『勇者』を殺害し、『勇者』と入れ替わってここで道化を演じ続けていた哀れな人間だと言っているんです。違いますか!」
その瞬間、浜島はこの追及が「芝居」ではなく「現実」の事……つまり、自分が蟻谷和馬を殺害してこの場で彼の身代わりを演じていた事を指し示しているという事を嫌でも実感した。そして同時に、この榊原という男が、それに対して真っ向から自分に挑みかかってきているという事実に驚愕の表情を浮かべる。
(正気かよっ! こんな舞台の上で、本気で俺を糾弾するつもりなのか!)
そう思った時、榊原がどこか不敵な笑みを浮かべるのを浜島は確かに見た。そして、彼は今目の前に鎮座している一見地味な中年男性が、今まで出てきた連中とは別方面での真の怪物である事に気付き、身が凍る思いをしたのだった……。




