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第一章 殺人劇

「演劇?」

 二〇〇九年のある日、東京品川裏町の榊原探偵事務所。その部屋の中で頭を下げている男性に対し、この事務所の主である元警視庁捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一は間の抜けた声を上げていた。

「はい、ぜひともお願いしたくて!」

 頭を下げていた男はガバッと頭を上げると、すがるような視線を榊原に見せた。名前は上田岳人。都内で有志の劇団を主宰している大学生である。その隣には、立山高校三年兼同校ミステリー研究会会長で、榊原の自称助手を自認する深町瑞穂の姿もあった。

「先生、お願いします。この人うちのミス研の恩田先輩の知り合いで、私も断りにくくて……」

 瑞穂が申し訳なさそうに頭を下げる。ちなみに、恩田とは瑞穂が会長を勤めるミス研にかつて所属していた恩田朝子というOGの事で、今は上田の通っている大学に進学していた。榊原ともかつてある事件で知り合った仲である。その恩田から『榊原さんを紹介してほしい人がいるのだけれど』と瑞穂に話が来て、こうして上田が事務所にやってくる事になった次第であった。

「つまり、君の主宰する劇団が近々都内の劇場で演劇をする事になったが、肝心の劇団の役者が君を除いて全滅してしまったという事だね」

「俺がたまたまいなかった日にあいつらが行ったレストランが集団食中毒騒ぎを起こしまして、今、劇団員全員が病院で唸っています。幸い、全員大事はないようでしたけど、明日の劇には間に合いません」

「そこで、代理の役者を探している、と」

「フリーの役者の方にも何人か声はかけましたが、それでも全然足りません。そんなとき、恩田さんからうってつけの人がいると聞いて、こうして馳せ参じた次第です」

「恩田君も余計な事を言ってくれる」

 榊原は苦々しい表情をした。

「一応言っておくが、私は私立探偵だ。演劇なんて専門外だぞ」

「この際資質は問いません。主役級の役はフリーの役者の方にやってもらいますし、とにかく演劇ができさえすればいいんです! もちろん、謝礼はお支払いいたします!」

 上田は手をこすり合わせて榊原に拝み倒す。

「うーん、どうしたものかな」

 榊原も困り果てた様子だった。仕方なく瑞穂が代わりに質問する。

「あの、役者ってあとどれくらい必要なんですか?」

「それが、あと十人以上は……正直、絶望的なんだよ」

「……だったら、こうするのはどうですか?」

 それを聞いて、瑞穂が一つ提案をした。

「先生に劇に出てもらうように交渉するんじゃなくて、先生に明日までに指定人数の役者を探してくれるように依頼するんです。要するに人探しですから、これなら探偵の仕事の範疇になると思います。その代わり、先生は劇への出演をしなくてもいい。この条件でどうでしょうか?」

「な、なるほど」

 上田はすがるように榊原を見つめる。が、榊原はそれでも渋い表情だった。

「とはいえ、私も役者の知り合いはそうそういないからなぁ」

「お願いします! とにかく人を集めていただければそれで充分です! 僕の人脈ではどうしても限界があって、頭数だけでも人が必要なんです!」

 上田も必死である。ここで断られたら本当に打つ手がないからだろう。榊原はそんな上田の様子をしばらく眺めていたが、やがて不承不承こう言った。

「本当に、どんな人間でもいいんだね?」

「この際、贅沢は言えません! 多少なり演劇ができれば充分です」

「……わかった、その条件ならやってみよう。ただし、どんな人間が来ても文句は言わないこと。これが条件だ。私だってこんな依頼は初めてだからね」

 榊原としてはかなり妥協したようだったが、それでも上田は何度も何度も頭を下げてお礼を言っていた。

「本当にありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」

「それよりもだ、肝心の劇は何をするんだ?」

「剣と魔法の異世界物……よくある勇者と魔王の冒険譚をやるつもりです。さっきも言ったように主要人物は本職の役者さんにやってもらうので、内容に関しては明日の直前に台本を読んでもらうだけでも充分です。じゃあ、明日の午前八時に新宿の八坂劇場という小劇場にお願いします!」

 そう言うと、榊原が何かを言う前に上田はそのまま事務所を飛び出していった。後には榊原と瑞穂だけが残される。

「嵐のような男だったな」

「それだけ必死なんですよ。何でも、己のすべてを今回の劇に賭けていたらしくって、今更中止なんかできないそうです」

「だったら、代役なんか探さずに素直に中止にすればいいものを」

 そう言いながらも、榊原は事務机の上にある電話を手にとってどこぞにかけようとしている。

「どこにかけるつもりですか?」

「ああは言ったが、やはり専門の役者に頼むのが一番だ。私の高校時代の友人に一人劇団在籍の人間がいる。まずは彼にコンタクトを取ってみる事にしよう」

 だが、しばらくかけても電話には誰も出ない。

「留守ですか?」

「だったら、所属している劇団にかけるか」

 榊原はいったん受話器を置いて、再び別の場所にかけた。今度は数回のコールで通じる。が、話をしているうちに榊原の表情が暗くなっていった。

「そうですか……。いえ、無理を言ってすみません。では」

 そのまま電話を切ると、深いため息をついた。

「あの、何か問題が?」

「留守で当然だ。やつの劇団は今、アメリカのラスベガスへ巡業中だった」

「ラスベガスって……」

「アメリカのデスバレーの近くにあるカジノが有名な街だ。確か、ニコラス・ケイジ主演の『コンエアー』という映画で囚人護送機が突っ込んでいたな……」

「いや、そんな雑学はどうでもいいですから。というか、先生も映画を見るんですね」

「私が映画を見てはいけないのか?」

「そんな事は言っていませんけど、何か似合わないなぁって。とにかく、そんな状況なら明日の劇に出てもらう事なんかできませんよね?」

「当然だろ」

 榊原はソファに座って天を仰いだ。

「まいったな。他に劇団関係の知人なんかいないぞ。瑞穂ちゃんだどうだい? 高校の演劇部なんかがあるだろう」

「とっくに話を聞いていますよ。でも、発表が近いからそれどころじゃないって言っていました。まぁ、私も他の友達に声はかけてみますけど……」

「ちなみに、その演劇部は何の劇を?」

「『黒死館殺人事件』と『ドグラ・マグラ』と『虚無への供物』と『匣の中の失楽』を一つの話にまとめたものだそうです。『黒匣の供物へのドグラ』って題名らしいですけど」

「……それ、演劇でやる話じゃないと思うが。というより、その作品群をよく一つの台本にまとめられたな」

 榊原はそう言いながら深いため息をつく。

「亜由美ちゃんは大学のテストでしばらく休みだし、万事休すか……なら、仕方がないな」

 そう言うと、榊原は立ち上がって再び電話の方へ向かった。

「どうするつもりですか?」

「とにかく頭数をそろえればいいわけだ。依頼人も技術の質は問わないと言っていたし、片っ端から知り合いに連絡を取ってみる事にしよう」

「そうですか……あれ?」

 不意に瑞穂は怪訝そうな顔をした。

「でも、先生の知り合いって……」

「まぁ、何というかそっち方面の人間しかいないが、この際そんな事は言っていられない」

 そう言うと、榊原は受話器を取り上げる。瑞穂は、何か嫌な予感しかしなかった。


 さて、その翌日、所変わって新宿の片隅にあるアパートの一室。


「はぁ、はぁ……」

 浜島響は大きく息を吐きながら、自分の足元にうつぶせに倒れている男を見下ろしていた。手には陶器製の重い灰皿が握られ、その灰皿には倒れている男の血痕と髪の毛がこびりついている。

「はは、こいつが……こいつが悪いんだ。俺は悪くない」

 浜島はそう言うと、気持ちを落ち着けるために懐からタバコを取り出し、一本軽く吸って改めて男の遺体を見つめた。

 倒れている男は蟻谷和馬という売れない役者であり、同時にこの部屋の主でもある。浜島は歌舞伎町にあるクラブのホストで、顔だけ見ればなかなかにイケメンの部類に属するだろう。少なくとも、本職の役者であるはずの蟻谷よりは男前だ。というか、蟻谷が役者のくせに地味すぎると言った方がいいのかもしれない。

 そんな浜島がなぜ蟻谷を殺す事になったのかといえば、話せば長い事情があるわけであるが、それはともかく浜島は一息入れると遺体の処理に取り掛かった。とにかく、遺体をこのままにしておくわけにはいかない。幸い、この男は近所づきあいもほとんどなく、失踪したところで不審に思われる事はないだろう。とりあえず部屋の中に遺体を隠しておいて、夜になったら遺体を海にでも運んで沈めてしまえば、完全犯罪の完成である。

 浜島は手馴れた手つきで凶器の灰皿を拭くと、見た目にはきれいになった灰皿を何食わぬ様子で机の上に置いた。次に、遺体をトイレの中に引きずり込み、その上からバスタオルをかぶせておく。こうしておけば、少なくとも部屋の中に誰かが入ってこない限りは遺体が見つかる恐れはないはずだ。どうせ夜には遺体を運び出すのだから、目下のところ見つかりさえしなければ充分である。さらに、念のために自分の指紋が付いたと思しき場所をしっかりとふき取り、床に流れた血痕もしっかり拭いて消しておいた。

 すべてを終えると、浜島はドッと疲れを感じて思わずその場に座り込んだ。後は逃げるだけでいい。夜に遺体を処理する作業が残っているが、とりあえずはこれで一段落である。

 と、そんな浜島の手元に、積み重ねられた書籍の上から何かが落ちてきた。

「何だ?」

 思わず手に取ると、それは何かの台本のようだった。

『勇者アトリーヌの冒険』

 表紙にはそう書かれている。どうも、蟻谷が出るはずだった劇の台本のようだ。

「くだらねぇ」

 浜島はそう言うと、そのまま台本の指紋を拭いて元の場所に戻そうとした。

 と、その時だった。

「蟻谷さん! おられますか!」

 突然、部屋のドアがノックされた。浜島は思わず飛び上がりそうになる。咄嗟に居留守を使おうかとも思ったが、その瞬間、不覚にもドアの鍵をかけていなかったことを思い出した。無情にも、相手は鍵がかかっていないことがわかるとドアを開けようとする。

「くそっ!」

 浜島は立ち上がってどこかに隠れようとした。隠れさえすれば後はどうとでもなる。最悪の場合、中に入ってきた人間を殺害する事も考えなければならない。

 だが、その前にドアが開き、ドアの向こうから誰かが部屋に入ってきた。そして、今まさにどこかに隠れようとしていた浜島と鉢合わせする。

「あ、えっと……」

 浜島は思わずそう口ごもる。だが、入ってきた若い男が言ったのは意外な言葉だった。

「あの、蟻谷さんですよね? 昨日、電話で仕事を依頼した」

「へ?」

 浜島は思わず間抜けな声を上げる。同時に、相手が自分の事をこの部屋の主……すなわち蟻谷和馬と間違われている事を理解した。咄嗟に、このまま相手の間違いを利用するのがいいと考える。

「蟻谷さんですよね?」

 相手はしつこく尋ねてくる。浜島は覚悟を決めた。

「え、ええ。そうですよ。それで、あなたは……」

 精一杯、蟻谷に見えるように演技をする。こう見えても、高校時代に文化祭の劇で主役を演じた事があり、充分にごまかせる自信はあった。適当に追い返してしまえば後はどうにかなる。少なくともそう思っていた。

 だが、直後相手は予想外の行動に出た。

「何をやっているんですか! もう時間がありませんよ! すぐに来てください!」

「え、あの、ちょっと……」

 何がなんだかわからないうちに。浜島はその男に手をつかまれて部屋の外に引きずり出された。

「ま、待ってくれ! せめて鍵をかけさせてください!」

 何とかそれだけ言うと、浜島は蟻谷から奪った鍵でドアを閉める。これで遺体を発見される事はないだろう。が、ホッとする暇もない。

「かけましたか? じゃあ、こっちに!」

 男はすぐに浜島の手を引くと、そのままアパートの正面に停車してあるタクシーへと連れて行き、そのまま浜島を後部座席に押し込んで自身もその後から続いた。

「八坂劇場まで」

 男が行き先を告げると、運転手は黙って頷いてタクシーを発進させた。浜島はただ呆然とする他ない。

「まったく、約束の時間になっても来ないから心配しましたよ。迎えに来て正解でした」

「えっと、あの」

「はい、これ。部屋に忘れていましたよ。昨日、あれだけ苦労してファックスしたんですから、忘れないでください」

 差し出されたのはさっき手に取っていた『勇者アトリーヌの冒険』なる台本である。

「昨日の今日なので申し訳ないとは思っていますが、すでに入金してあるんです。仕事はしっかりやってください」

「仕事、って……」

 戸惑う浜島に対し、男はこう告げた。

「演劇ですよ、演劇! ただでさえ人数が足りなくて代役ばかりなんですから、本当にお願いしますよ!」

 その瞬間、浜島はこの男が蟻谷の出る予定だった演劇の関係者で、自分は今まさにその演劇の場所へ、蟻谷と間違えられたまま連れて行かれようとしている事を悟った。浜島の表情が青ざめる。

「え、いや、ちょっと、待って」

「何ですか?」

 聞き返されて浜島は言葉に詰まった。何と説明すればいいのだろうか。まさか今更、自分は蟻谷ではない、などというわけにもいかない。だからといって、運転手がいるこの状況でこの男の口封じをする事もできない。このまま蟻谷のふりをし続けるしかない。浜島はそう判断していた。

「いえ、何でも……」

「だったら、少しでも台本の確認をしておいてください。着いたらすぐに劇が始まりますから」

 そう言われて、浜島は必死になって台本に目を通し始めたのだった。


 で、その頃の八坂劇場。瑞穂は舞台袖から舞台の方を見つめていた。

「うわぁ、お客さん、いっぱい入っていますよ」

「意外と人気なのか、この劇」

 榊原は舞台の奥でそんな感想を述べていた。ちなみに昨日の契約で出演は免除されているので、相変わらずのスーツ姿である。一方の瑞穂は数少ない女性陣という事でなぜかヒロイン役に抜擢されていた。榊原は大丈夫かと一応心配したのだが、瑞穂はノリノリであるので心配すること自体を諦めた。ちなみに、彼女自身も友達に声をかけて何人か連れてきている。

「まぁ、何にしても無事開演できてよかった。少なくとも、これで依頼料は確保できる」

「それなんですけど……本当にこのメンバーでやるつもりですか?」

 瑞穂は不安そうな表情で、榊原の背後に控える人々を見つめる。全員、昨日のうちに榊原が声をかけて参加してもらった面々だった。

「向こうが頭数をそろえるだけでいいと言ったんだ。上田君もこれでいいと言っていたし、文句はないだろう」

「それはそうですけど……」

「主役級の役は専門の役者がやってくれるんだ。何の問題もない」

「……不安だなぁ」

 と、そこへ上田が飛び込んできた。

「お待たせしました! 主役の役者さんを連れてきましたよ! いやぁ、間に合ってよかったぁ」

 その場にホッとした空気が流れる。

「その役者さんは? 顔合わせをしなくてもいいのかね?」

「今、控室で準備してもらっています。大丈夫です! 正直顔合わせをやっている時間もありませんけど、そんなに難しい劇でもないですし、向こうもプロですからちゃんと合わせてくれますよ。そんなわけで、皆さんお願いしますよ!」

 そう言うと上田は慌ただしく出て行く。ちなみに、彼は他の部員が全滅しているので劇には出ずに裏方全般を担当する予定だった。

「それじゃあ、まぁ……我々も頑張るとしようか」

 榊原がそんな頼りない音頭を取ると、瑞穂をはじめとする背後にいる「役者たち」はやる気満々で拳を突き上げたのだった。

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