第二十四話 湖の女神
風光明媚な景色を眺めながらの空の旅は最高だった。
山には雪が残っているのだろう。ギザギザと切り立った壮麗な山々には白と黒の斑模様。麓には紫幹翠葉の森。
雄大な大自然が織り成す景勝は、璃采の心を洗い流すようだった。
途中に村が無く、野宿しながらの旅になった。
眼下に大きな湖が見えた。
絵具をぶちまけたような鮮やかなターコイズブルーだ。
「……きれい」
思わずリズフィの口から零れた。絢爛華麗なその湖に璃采も目を奪われた。
自然の色彩のなんと美しい事か。もう少し眺めていたい。そう思わせるには充分だった。
「じゃあちょっと早いけど、今日はここで野宿しましょう」
「お、いいね。そうしようぜ」
湖の近くの少し開けた場所にテントを張り、野営の準備をする。
野営に必要な物は念の為にとレヌカの町で買い揃えてあった。
「準備も終わったし、あの湖を見に行ってみない?」
リズフィが好奇心で瞳を輝かせて提案する。
それには全員賛成だった。
ターコイズブルーの湖は、鏡のように山々を映し込み、光を受けてキラキラと輝いていた。
リズフィは何を思ったのか靴を脱いで湖に入った。
「冷たいけど気持ちいいわ。みんなも入りましょうよ」
岸辺は浅いように見える。
ここの所、野宿なので風呂に入っていなかった。水浴びもいいかなと璃采は思った。
「ようし、オレっちも入るぜ」
ロントは服を脱いだ。
「私は止めとくわあ」
シェナフィはプレートアーマーを脱ぎたくないようだ。
「えーっ、シェナちゃんも入ろうよ」
ロントはシェナフィも入るように口説いている。
璃采も入るつもりでローブを脱いだ。上着も脱ごうとして捲り上げた上着が璃采の顔を通り過ぎ、視界が戻った時、リズフィの姿が消えていた。
「あれ、リズフィは?」
「えっオレっち見てないけど」
「私も分からないわあ」
二人とも話していて、リズフィがどこへ行ったのか見ていなかったようだ。
「ティティ知ってるー。沈んでったー」
「ちょっ、それって溺れたんじゃ?」
璃采は急いで湖の中に入る。浅瀬を少し歩くと途中でいきなり深くなっていた。潜ってみるとリズフィは底に沈んでいた。
直ぐに助ける璃采。リズフィを抱えたまま浮上し、岸まで運んで寝かせた。リズフィの意識は無い。
「直ぐに心肺蘇生法を!シェナさんお願いできますか?」
璃采が切羽詰まった声で叫ぶ。
「ごめんなさい。心肺蘇生法って何かしら?」
シェナフィは心肺蘇生法を知らないようだ。どうすればいいのとオロオロしている。
「ロント!」
焦っている璃采はロントにも聞いてしまった。
「オレっちも分かんねえ。リトがやればいいんじゃね?」
ロントは忘れているのか元から知らないのか判らないが、出来ないようだ。急かすように璃采に言う。
ティティは小さすぎるので論外だった。璃采がやるしかない。
「わかりました」
璃采は先ず心臓マッサージをする。三十回マッサージした後、横たわるリズフィの軌道を確保し、鼻をつまみ口に息を吹き込む。また心臓マッサージを三十回する。そして人工呼吸をもう一度する。
「かは……」
リズフィが水を吐き出した。暫らくして瞼がゆっくりと開いて行く。
「リズフィ、分かりますか?」
リズフィに話しかける璃采の顔は不安げだ。
「……リト?」
リズフィの意識が戻ったようだった。心底ほっとした様子で璃采は深く息を吐いた。
「シェナさん、リズフィが濡れたままなので、これに着替えさせてもらってもいいですか?」
シェナフィに渡したのは璃采が着ていたローブだ。
「いいわよお。ほんとにリズが無事でよかったわあ」
「僕達はあっちへ行っていますので」
璃采はロントを連れて森の中へ入り、見えない所まで歩いた。
「なあなあ、心肺蘇生法とかいうのでやってたのって、キスだよな?」
ロントが真面目な顔で言う。からかうような素振りは無かった。実際にリズフィが息を吹き返したのだ。ロントは下種な性格では無いようだ。
だが璃采は動揺を示した。
「ち、違いますよ!あれは人工呼吸と言うんです!」
璃采が心肺蘇生法を行えたのは、マッサージ繋がりで心臓マッサージ、延いては心肺蘇生法を勉強していたからだった。
「へえ、でもすげーな。生き返ったんだもんな」
ロントは本心から感心しているようだった。
「あ、あの、一応リズフィには内緒にしてもらえますか?助けるためとはいえ、その、く、唇が触れたわけですし」
「オレっちは別にいいけど、シェナちゃんが言って無ければいいな」
璃采は「はっ」とした。
少ししてから湖の岸へ戻った璃采は、リズフィの顔を真っ直ぐに見れなかった。
「ティティ、リズフィを温めたいんだけど、魔法で火を出してもらえるかな?」
「いいよー」
ティティはリズフィの近くに焚火のように炎の塊を出した。
「リトが助けてくれたって聞いたわ。ありがとう。私泳いだ事無いの。いきなり足が付かなくなって驚いてそれで……」
王宮育ちのリズフィは泳げなかった。
リズフィの様子から、シェナフィは詳しい事を話していないのだと窺えた。
ほっと胸を撫で下ろす璃采。
「リズフィが動けるようになったらテントへ戻りましょう」
璃采はそう言うと、リズフィが温まっている間、ロントと水浴びをしたのだった。
リズフィは唇に何か違和感があるのか、自分の唇を指でなぞりながら璃采達を眺めていた。
「グルゥルル」
璃采達が湖からテントへ戻って来ると突然、獣の唸り声と同時に現れたのは、豹のような魔獣だった。
皆、戦闘態勢に入る。
「あの、僕にやらせてくれませんか?」
「リトー。大丈夫―?」
以前の怪我を知るティティは心配そうな顔だ。
「もし危なくなったら助けて」
そう言うと璃采は魔獣に向かって行った。
魔獣の牙が璃采を襲う。それを左腕を前に翳して受け止める。
オーラを左腕に高い密度で集めてある。牙は貫通しなかった。
すかさず同じ様にオーラをまとった右手で、左腕に齧り付いている魔獣の横っ面を殴りつける。
魔獣はドサッと倒れたが、直ぐに起き上がる。
オーラを固めて固い拳にはなったが、璃采の力では一撃で息の根を止める事は難しいらしい。
魔獣は逃げずに再び璃采に襲いかかる。もう一度殴る璃采。
魔獣は死ななかったが、敵わないとふんだのか森の中へ去って行った。
「やったー。リトがんばったー」
「腕は大丈夫だった?」
ティティとリズフィが駆け寄って来る。
「まだ戦うには研究が必要ですが、身を守るだけならいけそうですね」
もっとオーラを使いこなす練習をしなければと思う璃采。
「戦うなら武器があった方がいいわよね」
オーラを固めた所で怪力にはなれない為、殴るだけでは強靭な魔獣を倒すには至らない。この先も戦闘する事があるかもしれないと考えると、武器が必要だった。特に魔法が使えない璃采は、近接戦闘をするしかない。
「そうですね。カストラへ行ったら武器も探してみます」
夕飯を終え、璃采とロント、リズフィとシェナフィがそれぞれのテントに入る。
魔獣除けにティティが張った結界がある。
そのティティは既に眠りこけているのだが、寝ていても大丈夫なのか聞くと「たぶん、だいじょうぶー」との事だったので信じてみる事にした。
翌朝、璃采が目を覚ますと、隣に寝ているはずのロントがいなかった。
早起きだなと思いながらテントから出ると、既にリズフィとシェナフィも起きていた。
だがロントの姿は無かった。
「おはようございます。ロントどこ行ったか知ってますか?」
「あ、リトおはよ。ロント?知らないわ」
「あらあ。おはよう。うーん私も見てないわあ」
探しに行くべきか話し合っていると、ロントが湖の方からやって来た。
「大変だ……」
その呆然とした様子に、何事かと璃采達は目の色を変える。
「どうしたんですか?」
「……天使を見た」
全員の頭上にハテナマークが浮かぶ。
「いや、リズフィちゃんもティティちゃんも充分天使なんだけど、同じ位の天使がいたんだよ!」
今度は興奮した様子で話し出すロント。
どういう事かちゃんと説明して欲しいと言うと、順を追って話し出した。
「オレっち昨日の夜なかなか寝付けなくてさ。月の光に照らされた湖も綺麗かなあなんて思って見に行ったわけよ」
あまり似合わない事を言っているが、それは置いておこうと璃采は頷く。
「そしたら、湖の中に天使がいたんだ!いや女神か!神々しささえ感じたね!あの神秘的な湖は、綺麗なだけじゃなくて女神が住む湖だったんだ!」
再び興奮気味になるロント。
「月の光を受けてエメラルドみたいに輝くつやっつやの髪。髪と同じエメラルドの瞳。水を滴らせる滑らかな肌。ああたまんねえ」
今度は鼻の下が伸びている。
「オレっち声かけようと思って近付こうとしたらさ、何かに弾かれてそのまま気絶しちまってよ」
そしてそのままそこで朝まで気絶していたそうだ。
よく魔獣に襲われなかったなと思った璃采が、ロントをよく見ると、顔や腕に歯型があった。
ロントの無意識に発動しているオーラの防御によって、食われるのを免れたらしい。
「気が付いてからずっと探してたんだけど、見つからなかったんだよな」
非常に残念だという様子のロント。
「そんなに探しても見つからないんじゃ、諦めるしかないですね」
無情な事を言う璃采。
「だってよう。初めはリズフィちゃんいいなと思ってたけどさ。リズフィちゃんの心は他向いてるみたいだし、無理そうだなとか思ってたわけよ。そしたら新たな天使が現れたんだぜ」
ロントは広げた両手をブンブン振って力説する。
「な、何を言ってるの」
リズフィが声を荒げた。
「ふふふ。じゃあロントはここに残るう?」
シェナフィがリズフィの肩をそっと押さえてロントに尋ねた。
ロントは腕を組み悩んでいるようだった。
「案内するって約束したしさ。これからも一緒に行くよ。まあ住んでる場所は判ってんだ。リト達の用事が終わったらまた会いに来る!だから待っててねえ、オレっちの天使ちゃん!」
ロントは新たな決意を胸に抱いたのだった。




