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その顔ばかりを思い出す

作者: 相良直美

 伊藤雅夫が、妻のそんな視線に気づいたのは、いつのことだっただろうか。自分以外の男を、色のこもった目で見つめる、彼女に気づいたのは、いつだっただろうか。結婚するよりも前だったかもしれない、と雅夫は思う。けれど、彼は必死にそれを、考えないようにしていたのだ。けれど、彼のその努力は、泡と化した。


 戦争が始まる前から、戦中は戦地でさえ人の目を盗んで地道に書いていた雅夫の小説が、小さいながらも賞をとったのは、家族にとって、非常に喜ばしいニュースだった。雅夫の家は、決して貧乏というわけではない。ただし、それは雅夫の父が稼いだ金を、雅夫に残してくれたからであり、今までは売れない作家だった雅夫が、稼いだ金のおかげというわけではなかった。けれど、三人の子供に恵まれて、雅夫も妻のうめも幸せだった。そこに、雅夫の小説が受賞したとなれば、喜ばない方が、おかしい。家族は賞金で、ささやかな贅沢をした。洋服を買って、妻の欲しがっていたソファを買った。

 雅夫は急に忙しくなった。小さな賞とはいえ、賞は賞で、地元の新聞に小さく記事が載ってからというもの、連絡の途絶えていた友達から、急に連絡が入ったり、疎遠だった親戚が急に会いに来たりした。そんなある日だった。雅夫の元に担当経由で、記事を載せた新聞社から連絡が入った。受賞のお祝いに、絵を、描いてもらわないか、ということだった。なぜ、そんな申し出があるのか、雅夫にはわからなかったが、めったにないことですよ、非常に高名な方が描いて下さると言っているんです、と他にも妙に熱のこもった言葉で説得されて、雅夫は絵を描いてもらうことに決めざるを得なかった。妻と子供に話したら、意外と喜んだので、それはそれで良いか、と雅夫は思い直した。

 絵を描いてもらうことになった日、雅夫はやってきた画家を見て、驚きに目を見開いた。画家は、知っている男だった。そこまで親しいというわけではなかったけれども、顔はもちろん、名前だって、些細な癖だって覚えている。桐生誠一郎というその男は、学生時代、自分の許嫁であった、そうして今は自分の妻であるうめに、横恋慕していた男に他ならなかった。

「今日から、よろしくお願いします」

桐生は、雅夫を見ると穏和に目を細めて、深々と頭を下げた。先生、大丈夫ですよ。とあわてて自分ではなく、桐生へと声をかける担当の姿を見ながら、雅夫は胸がざわめくのを感じた。


「何年ぶりだろうね、君に会うのは」

 絵を描き始めてもらい、数日経ったある日、雅夫はひと段落ついたところで、道具を片付ける桐生の座る椅子の前に行き、声を掛けた。桐生は顔をあげると、微笑んだ。

「さぁ、何年でしょう。もう、遠い昔の事です」

 桐生は、最初に雅夫に、著書を持たせ、うめの大切にしているソファと、前から家にあった椅子を数脚、外に出させた。春から夏にかけてで、天気も良いから外で描きましょう、と、雅夫はそれも不満だった。最初楽しんでいた子供達も、途中から飽きて、足をぶらぶらとさせていた。それでも、気にした様子もなく絵を描き進める桐生の、そういうマイペースなところが、今の返事にも、現れていた。雅夫は妙に自分が苛立つのが、分かった。

「そうだな、昔のことだ。しかし、なぜ君は、急にうちの家族の絵を描く気に? どうやら君は、有名な画家になったらしい。うちの絵など描かなくても、平気だろうに」

なったらしい、というのは、嘘だ。本当は、桐生が有名な画家であること位、知っていた。だから、担当からこの話を聞いた時、正直雅夫は、桐生がくるのでは、と危惧していた。彼がなぜこの仕事を受けたか位、雅夫には分かっていた。うめが、いるからだ。学生時代、いや、彼の目を見ていたらわかるが、今も思いを寄せる、うめがいるから、桐生はこの仕事を受けたのだ。

 桐生は、雅夫の問いに、あいまいに微笑んだ。何か口を開きかけた時、うめが、盆に茶を乗せて現れた。

「さぁさ、あなた、桐生先生も、お茶くらい、飲んでください」

 うめが桐生を見て、笑いかける。その笑顔に、雅夫は首を捻った。どこか、違和感がある。何、とは言い切れないが、確かに違和感があった。桐生が茶を受け取る。一口飲んで、うまいという。また、うめの表情が変わった気がする。違和感は、雅夫を飲み込んでいった。そうして、その違和感は、昔から気づかないふりをしてきた、あの妻の、誰かを思う視線を、思い出させる。彼の努力は泡と化した。そうだ、うめが桐生を見るその瞳は、恋する女のそれに、他ならなかった。そのあとも、うめと桐生と何かを話した覚えはあるが、何を話したか、今一つ覚えていなかった。


 絵も完成に近づいたある日、雨が降って、桐生が来なかった。絵が描けないからだ。その日に雅夫は担当に呼び出された。何度か、原稿について話し合った喫茶店で、雅夫は担当と顔を合わせた。

「先生、桐生先生は、いかがですか?」

 ほら、きた。と雅夫は思った。この担当は、最初から、雅夫が桐生の機嫌を損ねないかばかり、気にしているのだ。もしかすると、この仕事がうまくいったら、桐生の画集でも、出せる約束にくらいはなっているのかもしれない、と雅夫は思う。戦争が終わり、芸術が自由になったから、画集を出すのも、何も問題もない。雅夫は、胸がまたざわめくのが、分かった。大丈夫ですよ、と答えると、担当は目に見えてほっとしていた。雅夫は、酒を飲んで帰ることに決めた。


 酔っぱらって、千鳥足で道をゆく。酔えば酔うほど、意識が混濁するはずなのに、逆に頭の一部分が冷静になっていくのが、雅夫には分かった。うめは、あの男のどこが良いのだろうか。今は有名とはいえ、うめは、ずっと前から、桐生を見ていた。あのような、貧乏な、格の違う家に生まれた男の、どこが良かったのだろうか。許嫁と決められていた自分を、見ないほどに、あの男の、どこが良かったのだろうか。雅夫は、それに気づかないふりをしながら、心のどこかで思っていた、うめが桐生を好き、という事実から、桐生と話こそしなくとも、桐生をよく見ていた。優しいところは、十分にある。マイペースだが、そこが良いという人もいるかもしれない。性格は、自分なんかより、ずっと良いことを、認めたくはないが、知っていた。そうだ、と、雅夫は思う。妻が、あいつの、桐生のどこに惚れたかなんて、分かっているのだ、と雅夫は嘆いた。人柄に、他ならない。生まれの違いを差し引いても、なお惹かれるに十分な人柄を、桐生は持っていた。

そう思うと、不思議と笑えてきた。何もかも、どうでも良い気分だった。笑えたあと、泣けてきた。うめと過ごしたこの十年あまりは、いったい、なんだったのだろうか、と。十年たっても、その前の許嫁の期間をあわせても、雅夫は桐生に勝てないのだ。うめは、いまだに桐生を見て、あのような目をする。担当だって、雅夫よりも、桐生を大切にする。絵が完成する日にやってくることになっている新聞社だって、記事にするといったが、ぽっと出の作家の自分の名前なんて、載せないに違いない。桐生のことだけが、大きく書かれるのだ。

雅夫はその場にうずくまった。どうしようもない、と思った。どうにでもなれ、と思った。どうしたら良いのか、分からなかった。

「どうしました?」

声がする。顔を上げると、桐生がいた。

「どうしてお前なんだ!」

気づけば、叫んでいた。心からの叫びだった。酒のせいか、恥も外聞も捨てて、雅夫は叫んでいた。路地に、雅夫の声が響き、通行人が足を止めた。

「何もかも、どうしてお前なんだ。妻も、芸術家としての地位も、人柄も、金だって、なんでもかんでも、どうしてお前ばかりが選ばれるんだ」

 八つ当たりだということは、分かっていた。桐生への怒りはすべて、ふがいない自分に対する怒りに他ならなかった。しゃくりあげながら、雅夫は言葉を紡ぐ。桐生が、困ったように笑った。

「芸術家としての地位なんて、元から比べるものでもないし、存在自体しません。お金は、俺だって、ないです。人柄は、あなたが素敵な人だというのは、俺も知っていますし、何より……あなたは、おうめさんに、選ばれたじゃないですか」

 桐生の言葉に、雅夫は目を丸めた。桐生は、相変わらず困ったように微笑んで、それから、眉を更に引き下げた。

「最後の言葉は、忘れて下さい」

 そうして、雅夫の腕をつかむと、歩き始めた。ふらつく雅夫を支えながら、桐生は、雅夫をうめの待つ家に連れて帰った。ご主人、送ってきました。と、言う桐生の顔はやけに寂しげだった。


 絵の完成する日がやってきて、新聞社が取材に来た。案の定、自分よりも桐生を中心に撮る記者たちを見ても、不思議と羨望や嫉妬は生まれてこなかった。ただ、桐生の寂しげな顔と、ご主人、という言葉が、頭の中を駆け巡っていた。気づけば、妻は、桐生の方を見ようとしない。子供のほうばかりを、見ている。自分が酔って帰った日、二人の間に、何かあったのだろうか、と雅夫はぼんやりと思った。けれど、すべてがもう、どうでも良く思えた。いまだに、桐生に対するわだかまりはあるが、それすら、どうでも良かった。黙々と絵を描き続ける桐生の横顔を見ながら、雅夫はただ、あの日の桐生の、困ったような顔を、思い浮かべる。

 もうすぐ絵が出来上がる。記者のカメラの、フラッシュがたかれた。


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