夢の、始まり(3)
いつだったか、ボクとスヴィアがまだ一緒に暮らしていた頃。
彼はよく静かに一人で本を読んでいた。 リビングのソファに腰掛けて、まるで絵画みたいな美しさで。
スヴィアを言い表す言葉があるとしたら、ボクは『静寂』という言葉を選ぶ。 彼はまさに静かで、寂しかった。
誰にも心を開かず、誰にも理解されない存在。 けれども彼は不思議と人の心を受け入れ、どこか頼ってしまいたくなるような雰囲気を持ち合わせていた。
他人を幸せにする為に自分を犠牲にする事の出来る人間…それが彼の本質だったのかもしれない。
ボクはいつか彼になるのか。 自分なりに考えてみても、彼のようになれる日はどうにもイメージできそうになかった。
スヴィア・レンブラムという名も無きこの世界で圧倒的に孤独を抱える彼は、この世界の誰にも心を開く事が出来ないまま、暗闇を胸に抱えそれでも毅然と立ち続けていたのだろう。
それはまさに荒野を一人歩き続けるかの如き所業だ。 出口も終わりも見えない迷宮を、ただ一人突き進んでいくという事。
想像を絶するその苦痛の中、彼は表情一つ変えないでそれを当たり前のように行っていたのだ。
凄い、と思う。
ボクはどうだろう? スヴィアのように、強い足取りで進む事が出来たのだろうか。
かつてのボクは出来たのかもしれない。 蛮勇と無知を武器に荒野を一人突き進む事も可能だったかもしれない。
気づけばボクは変わっていた。 前よりも随分と子供っぽくなったと思う。 いちいち感情的になったと思う。 たった半年程度でボクはそこまで変わってしまったのか。
何もかもどうでもよくて、退屈で、無意味で。 世界中の全てが色あせて見えていたあの日々。
一人きりの世界。 ボクしかいない世界。 そこに友達が増えて、仲間が増えて、大切な人が増えた。
そうしたものを煩わしいと思っていたはずのボクは、気づけばそれらが大事になりすぎてもがいていた。
永遠は手に入らない人類の長年のテーマだ。 ボクもまた例に漏れず、そのテーマを追い求めて見たくなる。
自分自身の運命も生き方も人格も誰かの手によって定められたものだとしても、ボクは今の自分でよかったと思う。
誰かの背中にあこがれて、誰かの背中を追いかけて、誰かの背中を守りたいと思った。
でもそれはいつも自分の歩く道が誰かによって踏み固められた安全な道であるということ。
自分自身で切り開いた道でないのであれば危険も無ければ可能性もない。 だったらボクはリイド・レンブラムでもなく、スヴィア・レンブラムでもなく、今までボクの前を歩いていてくれた誰でもなく、本当にまっさらな何かになるべきだろう。
何もかもを抱えて飛んでいく翼が欲しい。
自分自身の運命を踏み越える、強い両足が欲しい。
今は切実に、ただそれだけを願う。
⇒夢の、始まり(3)
世界は今この瞬間も動いている。 それこそ、ボクの事なんかお構いなしに。
そうして渦巻くこの世界に生きる様々な命や想いも、全てなかった事になる日が来るのだろうか。
徐々に薄れ、誰にも記憶されず、消え去っていく。 そんな日が来るのだろうか。
もしも何も無くなってしまうのなら、今こうして生きている全ての命に意味などあるのだろうか。
いつか消え、誰にも記憶されなくなった命。 この星の上で何度も繰り返されてきたそのやり取りと、その果てに消え去った誰かの記憶。
死と再生とを廻る思いはとめどなく人を翻弄し、そうして行き着く場所はどこにあるのか。
この世界の誰もが涙を流し、いつか涙を流される日が来る。 ならばそこに意味はあるのか。
無と有の狭間。 善と悪の境界。 想いと想いの彼方。
たとえそう、全てが無意味だったとしても。 全てが嘘偽りだったとしても。 全てが『仕方のない事』で、ボクらの出会いさえ全て誰かの思惑通りだったとしても。
それでも確かにボクは感じた。 指先と指先とが触れ合った瞬間の気恥ずかしさを。 嬉しさを。 そうして繋いだ手の暖かさを。 物悲しさを。
人の一生に意味などあるのだろうか? 世界に意味などあるのだろうか? そこにある全てのものは無意味で、無価値なものなのではないか?
別に悲観しているわけではない。 この世の何かに意味をつけるのは、世界中の命でおそらく人類だけだ。
空や、海や、大地や、そこに生きる数え切れない数多の命は、自らの存在や世界のあり方に意味や意義を求めるだろうか?
求めないだろう。 彼らは生きている。 生きているだけでそこに何かがあるわけではない。 理由を欲しがるのは、きっと人が弱い生き物だからだ。
理由など必要ない。 命は常に善悪を抱えている。 完全である事もなければ、慈悲深い事もない。 人はただ、人だ。
全ての出来事には光と影がある。 誰かを愛すると言う事さえ、そこには闇があり光がある。 何もかも全てを傷つけず、自分の両手を全く汚さない事など出来るはずもない。
ボクらは子供だ。 自分は正しくて、その両手はいつまでも白いままだと思っていた。 いつまでも日々が続き、その先には理想の未来があるのだと、心のどこかで信じていた。
そんな未来が来るはずなんかないってわかっていても、それでも実感できない。 なぜなら子供はまだ夢の中で生きているから。
人は誰しもそんなところがあるものだ。 夢の中を生きている。 自分にとって都合の悪い事から、何度目をそらして来ただろう。
気づいて変わろうと願い、事実行動する事はとても勇気と労力を必要とすることだ。 出来れば楽をしたいと願う事は決して悪い事ではない。 人は誰しもそうした一面を持っているし、それはボクもそうだ。
ちっぽけなプライドや自分自身の中にある何かを守るために誰かを傷つけ、自分の価値観を守る為に誰かを責め立てる。
それが明らかに悪い事だとわかっていても、人はそうしてしまう時がある。 そうしていなければ心の平穏を守れない、弱い生き物なのだ。
人は弱い。 そう、人は恐ろしく弱いのだ。
だんだんと成長し、傷を負い、理想と現実の齟齬をゆっくりと納得し、人は大人になる。
思い描いていたような奇跡みたいな日々は絶対に訪れない。 その先にあるのはそれ相応の、自分が努力した分の未来だけなのだから。
自分が生きた結果は全て自分に責任がある。 今のボクがどんな問題に直面しようと、それを誰かのせいになんて出来ない。
なにか。 誰かを責めるまえに、まだなにか。 ボクにも出来ることがあったはずなのだ。
その微かな可能性に努力を惜しんだ結果が今という現実ならば、それを一体誰のせいに出来るというのか?
ボクを生み出したこの世界? 周りの人? それとも運? 偶然?
違う。
誰のせいでもない。 それは、ボクのせいだ。
自分の未来のくせに、それに向かって努力をしなかったのはボクだ。
自分自身の為なのに、誰かのせいにして『しょうがない』なんて言い訳しているボクだ。
悪いのはきっとそう、全部ボクだ。
だからそれはもう、ただの罰でしかなかった。
今まで何度、彼女たちと心を繋げただろう。
友達に心を救われ、その瞬間の幸せを味わっただろう。
大切な大人たちが見守ってくれて、自分の立っている場所は孤独なんかじゃないんだって安心しただろう。
そういう守りたい者を、守らなくちゃならない場所を、受け入れるのが当然で、続くのが当然で、守る努力をしなかったのはボクだ。
人も、想いも、永遠なんかない。 どんなに鮮明で強烈な想いも、告げなければ絶対にその人には伝わらない。
伝わったとしても、その言葉のはっきりとした理由がなければ人はゆっくりと想いを失ってしまう。
願いを貫き通す事の何と難しい事か。 口先ばかりで決意したところで、その願いを最後の最後まで貫き通す事は、恐ろしく難しい。
稀代の英雄でさえ、願いを貫き通したかといえば難しいところだろう。 人は神ではない。 所詮は人だ。
理由や意味を求めずには要られない、確約や安心を求めずには要られない、弱い人間は。
ボクに何が出来るのか。
世界を救うなんて事、出来るわけもない。
所詮この身は愚かな人の身。 出来うる事は限られている。
いずれ挫折し、想いを磨耗させ、決意も何もかも折れて消え去ってしまうかもしれない。
そんなボクに出来ることは、世界を救うことなのだろうか。
そこに、大義や意義、正義を求めるべきではない。
想いのままに、全てを受け入れればそれでいい。
須らく、義という言葉を好んで口にする人間は折れやすい。 それを貫き通す事は恐ろしく難解だから。
今まで何億何兆という人々が歩み、くじけてきた道をボクもまた歩いている。
その先にあるものは人によって違うし、人一人に出来ることなんてたかがしれている。
自分の行いが正しくなくてもいい。
自分の行いが無意味なものでもいい。
自分の行いが愛されぬものでもいい。
自分自身で出した結論を信じてそこに全てをこめるしかない。
たとえそれが間違っていても。 誰からも認められなくても。 矛盾だらけの理屈だとしても。
スヴィアは、なんて遠い場所に立っているのだろう。
今のボクからでは遠すぎて目視する事も難しく、たどり着く事は夢のまた夢。
その場所にあこがれていたボク。 その場所にたどり着きたかったボク。 でももう、その後は追わない。
自分の手を汚し、想いのままに生きる。 誰かの代用品などではなく、誰かの過去でもなく、リイド・レンブラムそのものとして。
この名をつけてくれた彼らの思いに応える為に、ボクはボクであり続けなければならない。
「そう、だから―――」
手を強く握り締め、顔を上げよう。
「ボクは―――」
静かに顔を上げ、全てを諦めよう。
「オレは―――」
力強く立ち上がり、夢を追いかけよう。
もう逃げられないのならば、全力で立ち向かうしかない。
この身体が燃え尽きて誰からも忘れられその全てが無意味になってしまったとしても。
そう生き、そう戦ったという事を、オレ自身が覚えているから。
「それでいいかな、スヴィア…」
壁に手を当て静かに呟く。
答えが返ってくるわけもない。 それでもオレは。
ボクでも、私でもなく、オレは。
「…行くか」
笑ってやろうと思う。
もう絶対に逃げられないのなら。 涙を流す余裕もないのなら。
リイド・レンブラムという名も存在も過ぎた代物なら。
この、小さなオレという存在を―――貫き通すまでだ。